第24節:焦り
「協力……ですか」
「ええ」
試紋会の後。
式典に参加して賞金を受けとった朱翼は、烏を伴って翌日学長と面会していた。
切り出されたのは、ある取引だった。
「貴女の呪紋に対する才覚と頭脳は、卓越しています。我々としてはそうした人材を探す目的もあって、試紋会を開催しているのです。どうでしょう? 短期間でも良いので、私に協力していただけませんか?」
「どのような内容かにもよります。私としても目的がありますので、長期間この街に滞在する訳には参りません」
「協力して欲しい事は、ここ最近の龍脈の乱れに関する事です」
学長は説明した。
最近の乱れは大禍に関連する事象と思われていたが、それにしては陰の土に偏りすぎているように思える、と。
「この陰土気への偏りについて、私には心当たりが一つあります。この地に伝わる古い伝承です」
かつて、ミショナの街があった地域には強大な龍が住んでいたのだという。
名は伝わっておらず、ただ悪龍であったという事だけが伝承されている、と。
その頃、既に流浪の民となっていた堕ちたる朱き神の一族がこの地を訪い、悪龍を地に封じたらしい。
「封じた時、朱き神の一族はこう言ったと伝えられています。『かの悪龍、神獣なれば滅ぼすこと適わず。時を経て蘇りし時、友たる者なくば再び災うであろう』」
「悪龍……それが龍脈の乱れの原因であると?」
「と、私は思っていますが、確信を得るには至っておりません。この地は既に人の住む地。憂いがあるならば断たねばなりません。どうでしょう? その調査を手伝って欲しいのです。見返りは報酬と、この学園の図書館を自由に利用していただく事。禁書にあたるものも、閲覧だけならば許可します」
魅力的な提案だった。
自らの起源と思われる一族と、魔に属する龍。
それらの調査の為に、貴重な書物を閲覧出来るという条件。
欲しい情報と、招来術に関する研究も出来る。
まるで心の中を見透かされているような破格の提案を受けて、朱翼は逆に難色を示した。
「何故そこまで私を買っていただけるのです? 私は素性も知れぬ旅の者。試紋会も運良く勝ちはしましたが、おそらく私は、この街の誰よりも呪紋に精通しているという訳でもないでしょう。そちらに利益のある提案とは思えないのですが」
「利益はありますとも」
学長は語気を強めた。
「何よりも、私や、学園の教師が貴女の素質に興味がある。そしてこの街の管理官の娘であるメイア嬢とも親交を持ち、あの幻鐘という予選と決勝であなたと好闘を演じた修験者とも交流を持たれているとか。それだけの呪紋士が、たった数日滞在しただけの貴女に興味を示している事実が、貴女の価値を証明しております」
学長の言葉には説得力は、あった。
だが、それでも彼女の協力が必要とは思えなかった。
あるいは、朱翼を少しの間でも手元に置きたいと言われれば、彼女は逆に納得したかもしれない。
「残念ですが……」
と、朱翼が断ろうとすると。
「良いでしょう、お受けいたします」
「烏……?」
烏は朱翼に素早く目配せしてから、学長に言った。
「滞在期間はその問題が解決するまでの間、という事でよろしいですか?」
烏の言葉に、学長はうなずいた。
「構いません」
「もう一つ。もし仮に、これが私たちで解決できる問題ではない、と分かった時には、同様に契約を無効としてもらいます。それも?」
「ええ。そこまで強制する気はありません」
学長は、どこか、ほっとしたように同意した。
理由は分からない。
「では、正式な書面を。確認し、署名を行いますので」
「しばらくお待ちください。すぐに作成させます」
朱翼は烏に促されて、納得できないながらも学長の部屋を退出した。
※※※
「どういうつもりですか?」
朱翼は、書式を交わして宿の部屋に戻ると、烏に問いかけた。
「どういう、とは?」
「学長の話は疑わしい。関わるには、彼に対する信用が足りません。なのに何故、この話を受けたのですか?」
この街での目的は既に達していた。
十分な資金を得たのだ。
今は穏やかだが、ここはあくまでも皇国領。
朱翼の事がバレる前に、離れるのは少しでも早い方が良いに決まっている。
「怪しいからこそ、よ」
と、烏は言った。
椅子に座り、髪を掻き上げながら上目使いに朱翼を見る。
「あれだけ破格の条件で朱翼を迎えたいというのは、何か裏があると思って当然……しかもあれだけの低姿勢よ。相手は貴族なのに、普通は考えられない。絶対に何か裏があるわ。逃げたところで、追っ手がかかるのは正直、面倒なのよね」
「なら、秘密裏に逃げれば良いのでは?」
元々、土地に愛着がある訳でもない。
裏があるというのは、利用される可能性もある、という事だ。
「逃げるにしても、今すぐに、というのは現実的じゃないわね。私たちはまだ支度が十分じゃないわ。それに旅支度を今から整えれば感づかれるでしょう。着の身着のまま逃げても、これ以降は森を抜けるまで大きな街はないの。道以外の場所は進めないし、きっと関所で捕まるでしょうね」
「私は元々山師です。おそらく関所付近の森を抜けるくらいは出来るでしょう」
「見知らぬ土地でその判断はいただけないわね。どんな罠や陰魔が隠れているかも分からない場所を進むことは、今の私たちには危険すぎる」
烏はもう、とどまる事を決めている。
しかし、朱翼にはその真意が読めず、睨むように烏を見た。
「留まることは、それ以上に危険である、と私は思います。相手が完璧な準備を整えた状況追われるのは、森を抜けるよりも容易い事ですか?」
「あれだけ目立っておいて、何を今更。相手がその気なら、準備は既に整っているわ」
朱翼は言葉に詰まった。
それを言われると、弱い。
だが、烏は怒っている訳ではなかった。
「情報が必要なのよ、朱翼。白抜炙を追っている私たちは、でも目的地がない。彼がどこに居るかも分からないのだから当然だけど……それなら一度、じっくり腰を据えて捜索の方策を立てたほうが良い。幸い、ここには人が集まる。人脈を増やし、実力を身に付ける機会が得られるのは悪い事ではないでしょう? 少なくとも、こちらが大人しくしている間は相手も危害を加える気はないでしょうし」
「ですが……白抜炙がその間に龍脈から外れた場所に行ってしまったら、私には探す方法がなくなります」
目を伏せる朱翼の頭を、烏は撫でた。
「それが、貴女の本音よ。……不安なのでしょう、朱翼。白抜炙と、再会出来ないかも知れない事が」
その言葉を聞いた途端、朱翼は心が凍りつくような恐怖を感じた。
もし、白抜炙を見つけられなかったら?
二度と、彼に会えなかったら。
自分が考えないように目を逸らしていた事を突きつけられて、朱翼は自分が焦っているのだと自覚した。
してしまった。
彼女は冷静なつもりだった。
白抜炙が約束を破るはずがない、と固く信じる気持ちは、不安の裏返し。
強くならなければ、と。
先へ進まなければ、と。
一心に、出来る事をしているつもりで。
実際は、不安から逃げて目を剃らしていただけだったのだと。
「……白抜炙は」
「うん」
「白抜炙は、私にとって、とても大きいのです」
朱翼は、自分の心情を語る事は苦手だ。
彼女にとって、自分をさらけ出す事は災いを引き寄せる事だった。
外見だけではない。
朱翼自身が望んだ訳ではない生まれを、秘めた力を、皆が求める。
そんな人々に、何故心を預ける事が出来るだろう。
朱き神の血脈。
一鳥群龍の力。
そんなものを、朱翼は望んだ事はない。
彼女が望んだのは、安寧だ。
自分を、ただ自分として見てくれる存在を。
共に生きてくれる人を。
彼女は望んだのだ。
そして、彼だけだった。
自ら望んで、受け入れて欲しいと……力も生まれも関係なく、ただの自分の心だけを受け入れて欲しい望んだのは、彼、ただ一人。
そして、受け入れてくれたのも。
お前は、俺のものだと。
どこにも行かなくて良い、と。
欲しかった言葉を返してくれたのは、彼だけだった。
「白抜炙がいないと……私は」
拠り所だった。
【鷹の衆】の皆も、朱翼を受け入れてはくれた。
それでも、違うのだ。
彼らは朱翼を大事に想ってはくれるが、求めてはくれない。
朱翼は、聡明ではあるがその心は幼かった。
むしろ聡明であるが故に構われる事も少なく、生まれによって頼るものも失い。
錆揮を抱えて、自分の心を育てる間もなく。
逆に、弟を守るべき立場であらねばならなかった。
誰も朱翼を、年相応に幼いままでいさせてはくれなかったのだ。
白抜炙以外は。
「私は……」
涙は流れない。
己を律する事に長けた彼女は、錆揮のように簡単に素直にはなれない。
しかし声にならない想いは、きちんと烏には届いているようだった。
「大丈夫よ、朱翼。貴女は必ず、白抜炙と再会出来る」
顔を上げると、烏は微笑んでいた。
「私たちでは白抜炙の代わりにはなれないでしょう。でも、貴女の手助けをする事は出来るの。……大丈夫よ。私たちだって、ただ闇雲に白を探そうと思っている訳ではないわ。貴女の知らない顔を、私も無陀も、弥終も持っている。だから、少しは信頼しなさい」
烏は朱翼の頭を撫でた。
「ここに留まる事には、意味がある。無駄足にはならないと約束するわ。だから、少しの間、学びなさいな。同じ年頃のメイアと友達になれた事だって、貴女にとっては決して無駄じゃない。得るものを得て、見るものを見て。白と再会するまでに、もっといい女になりたいと思わない?」
最後に茶目っ気を滲ませて、烏は片目を閉じた。
「最近の烏は、少し御頭に似ています」
「それは光栄ね。……あの人は、私の理想だから」
今は亡き偉大な母だった、御頭を朱翼は思う。
……御頭なら、きっとこんな事で悩んだり、不安になったりはしないだろうな、と。
逆境は笑い飛ばして、自分のやりたいようにやり。
そしてきっと、目的を成し遂げるだろう。
笑って死んだあの人は、そんな強さを持っている人だった。
「私も、あんな風になりたいです。……だから、頑張ります」
朱翼のつぶやいた言葉に、烏は優しくうなずいた。