第15節:物騒な待ち伏せ
「錆揮。前見たまま聞いて欲しいんだけどねぇ」
無陀に声を掛けられて軽く目だけを向けると、彼は囁くような声音で言った。
「殺気だーねぇ」
言われて、反射的に周囲を見回そうとして、錆揮は自分を抑えた。
歩調は変えなかった、と思うが、自信はない。
そこは裏路地だった。
西区画の端から丁度宿に戻ろうとしていた錆揮達は、治安の悪い地域を通っている。
左右に石造りの背の高い家屋があり、小さな窓がそこに並んでいるが全て閉まっていた。
錆揮は緊張を感じた。
魔物相手の戦闘は道中で何度か経験しているが……人を相手にしたのは、皇国と白抜炙を相手にした、ただ一回だけだ。
「……多いの?」
「数人、ってところだろうねぇ。こっちを狙ってるトコを見ると、皇国の連中か、無差別か……情報屋で聞いた、通り魔の方かも知れんねぇ」
皇国が朱翼に勘付いたなら、回りくどく錆揮達の相手などせずに朱翼を狙うだろう、と無陀は世間話でもしているような顔で言う。
通り魔、という言葉に、錆揮は心臓の音が一際大きくなるのを感じた。
そんな感情が顔に出ていたのか、無陀は軽く笑う。
「相手がどの程度の手練かは分からんけどねぇ。お前さんがアレを使えば相手にゃならんと思うけどねぇ」
「……良いの?」
「長い時間使わなければ、と朱翼は言ってたけどねぇ」
無陀は肩を竦めた。
「お前さんの体の事だ。どうするかはお前さんに任せるが、自分の身は自分で守ってくれると嬉しいねぇ……《流足飛》」
呪に応えて、無陀の足に刻まれた風紋が発動し。
彼は、一息に空へ跳ねた。
そのまま、気脈に乗って風を蹴りながら建物の屋上へ消えると、二度の剣戟音。
錆揮は少し迷ってから、自分の体に刻まれた紋を意識する。
普段は消えているその紋は、胸元の半月に似た陰紋と、血で描かれた陽紋だけがその姿を残している。
その血の陽紋に宿る、白抜炙の残滓が。
彼の心の強さが、少しでも自身に宿る事を願いながら、錆揮は恐る恐る呪を口にした。
「……五行星呑」
錆揮の呟きに、全身の紋が浮き上がって姿を見せた。
黒黄色の陰気が微かに全身から立ち上る。
そして、あの感覚が体を染めた。
全身の感覚が鋭敏になり、周囲の全てが視えてくる。
精神が高揚し、何でも出来るような気がしてくる。
その、全能感。
だが、錆揮を呑もうとするその波は、以前より弱い。
錆揮は突き上げるような高揚感を、自戒を以て押さえ込んだ。
彼を支配し、自我を喰い尽くすが如く彼を闇色に染め始める陰紋の力。
それを、何かが遮っているような気配がある。
腕を見ると、白抜炙が刻んでくれた血の陽紋もまた、淡くではあるが紫色の陽気を放っていた。
それが、錆揮の心を守ってくれているのだ。
「……ありがとう」
小さく呟いて短刀を引き抜くと、錆揮は周囲に意識向けた。
屋根の上で争う、三つの気配がある。
その一つを狙って、背後に回ろうとしている気配がもう一つ。
錆揮は、それを狙って跳ねた。
彼の全身に刻まれているのは、太陰紋。
刺紋の内でも最上位に位置する紋の一つであり、至極紋とも呼ばれる。
五行の内、土金水の三つを掛け合わせた紋であり、五行全てを掛け合わせた太極紋へと至る過程にある紋。
強大な力を刻紋された者に与えるが、代わりに魂魄の力を奪い去り、精神を壊す。
生き残る方法は、完全な太陽紋をその身に刻み、真なる太極紋を完成させる事のみ。
白抜炙が、極限状況の中で応急的に施してくれた血の陽。
それによって錆揮の心は守られているが、それがいつまで保つかは分からない。
錆揮は、怖かった。
だが、自分に与えられたこの力を使う事で、残った仲間達を守れるならば。
その行使を躊躇う理由は、ないのだ。
突如、目の前に飛び込んできた錆揮に対して、相手は驚いた素振りは見せずに後退った。
異様な風体の者だ。
黒装束に白色の面。そこに朱塗りの線が一本、縦に走っている。
面の奥に隠された顔は、何を考えているのか読めない。
「お前ら、何者?」
問いかける声に答えはない。
勿論、錆揮自身も返事があるとは思っていなかった。
無言で襲い掛かってきた黒装束が振るう小太刀に、錆揮は短刀を合わせる事で応える。
重い感触。
しかし、今の錆揮を押し込める程のものではない。
「……」
すぐに飛び離れた相手が小さく呟いた声は、男のもの。
くぐもっていて内容は分からないが、正体はすぐに察せられた。
黒装束の手から、小さな火球が数個、生まれたからだ。
呪紋。
描いていた様子はない事から、導具によるものか、あるいは相手もまた刻紋士なのか。
しかし、錆揮は避ける事すらせずに正面から突っ込んだ。
火球の呪紋は、錆揮の体の表面に触れた途端に弾けたが、錆揮は熱一つ感じない。
そこでようやく、相手が驚いた気配を見せた。
「無駄だよ」
普通なら、衝撃で足を止められ、火傷を負う所だ。
そこそこに威力がある火球だったようだが、朱翼の中位呪紋すら弾く錆揮の太陰紋の前には足止めにすらならない。
太陰紋は、それが陰の呪紋であれば、呪紋に込められた五行素すら吸収するのだ。
数合打ち合った後、相手は再び呪紋を使用した。
黒い煙が大きく周囲を覆い、気脈を読む感覚も一時的に阻害される。
煙が晴れると、そこに相手の姿はなかった。
どうやら、逃げたらしい。
引き際の良い相手だった。
無陀の方を見ると、彼の方も逃げた様で、軽い足取りで屋根を伝って錆揮の方に向かって来ていた。
「そっちも逃げたの?」
「だねぇ。何だったんだろうねぇ、一体」
いつも通りのほほんと言い、無陀は両手に握った短刀を鞘に収めた。
「衛兵が来る前に、俺達もさっさと退散だねぇ」
錆揮は頷いて、無陀と一緒にその場を後にした。




