第3節:アレク様は憂鬱
青年は、上空から見えた王城の広い港庭に降り立つよう、蒼龍に指示を出した。
指示を受けた龍は、陽光に煌めく度に深く淡く色を変える鱗に覆われた四肢を広げ、両翼を翻す。
伴に連れた翼竜も、一息遅れて同様に下降を始めた。
こちらの竜には腕がない。知性が低い代わりに慣らしやすく殖やしやすい亜竜だ。
二匹は滑空すると、音もなく後足で庭に着地した。
龍らを中心に微風が広がって、芝生が揺れる。
尾を跳ねさせて姿勢を正した蒼龍は翼を畳み、人の両腕に似た前足を地に添えて上体を伏せた。
最後に、緩やかに長い首をしならせて頭を垂れる。
最後に耳の後ろから生える軽い弧を描いた角に雷光が走って、弾けるような音を立てた。
その頭の上から、青年は軽く跳躍して地面に降り立つ。
頭から足元までを覆う黒い法衣を纏った伴の者も、同様に降り立つと彼の側に控えた。
龍仕の役目にある城の侍従が龍らの周囲に近づいて符を地面に置き、龍が安息する為の結界を張っていく。
周囲を見回した後、青年は自分の体に目を落とした。
龍に劣らぬ見事な色合いの蒼鎧に、赤い外套 。
この恰好は将としての正装だが、入城に際して腰に差した長剣が気になった。
「剣は、如何すれば?」
立ち働く侍従の一人を捕まえて尋ねると、外す必要はない、との返答。
青年は、他人から線が細いと言われる顔に不思議そうな表情を浮かべた。
「おいでになられたようです」
供の声に青年が振り向くと、自分の砂色の前髪が視界に揺れる先に三人の人物が見える。
倭衣を纏った女性と少年の二人を従える、口ひげを生やした壮年の男がこちらに向かって歩いて来ていた。
「其方がアレク卿か」
目の前に立ち止まり、男は青年の国の言葉を流暢に操ってそう言った。
彼らは異様だった。三人全員の左目が無惨に潰れている事に加え、先頭に立つ男は左の肘から先までも失われている。
彼が誰なのか、話に伝え聞いていた青年にはすぐに分かった。
男に対して礼を失さぬよう、青年は片膝をついて頭を垂れると右の拳を胸に当てた。伴の者も同様に膝を折る。
青年は、かつてこの地で使われていた公用語で返答した。
「直々のお出迎え、感謝いたします。和繋国主」
「那牟命でよい。俺は仮に国を預かっているだけに過ぎぬ故、大層な名は好まぬ」
自らをして登贋竜、あるいは偽竜王を名乗るの国主は愛想もなく言い捨てた。
そう卑下したものでもないと思うが、とアレクは内心で思う。
この地にはかつて大陸中央を支配していた、玉帝の治める八岐大国と呼ばれた帝国の首都があった。ほんの十数年前の話だ。
〈御子の争乱〉と呼ばれる、一人の少女が死んだ事に端を発した戦争により八岐大国は滅び、国土は六つに分れた。
特に首都のあったこの地は壊滅的な被害を受けて荒廃した土地となり、しばらくは支配者のない空白地帯だったが、無法と不毛が同居する土地となったその場所に十年前突如現れたのが目の前の男だ。
彼は立国宣言と共に瞬く間に周囲を自らの支配地として呑んでゆき、ある種の秩序を与えた。
非羽々那牟命。
旋風の覇王、龍の後継。
しかし、彼自身は平然と自らを偽王と呼ぶ。
『所詮俺は、周辺国の思惑によって生かされているに過ぎん。違うか?』
王になって最初の国主会談でそう発言したという彼は。
同じ場で他国に対して、彼は『ある条件の元で、自国の内に全ての国軍の進駐を認める』と述べた。
その結果、倭繋国は非常に面白い国土を形成して始めている。
全て目の前の男が成した事だ。
まぎれもなく偉業。
そういう意味合いも込めて、彼は言った。
「仮にも一国の王に対して、呼び捨てるなどという無礼な真似は憚られます」
「良い、と言った。俺は正当な国主ではない。そして、同じ事を二度は言わぬ」
「では、大那牟命、とお呼び致します。私は、神聖オース皇国四団長が一、蒼将を務めるアレキウス・ヴァユ・ガラテイン。伴の者は、スケア・クロウ。皇命によりこの地に参じました。以後、御見知り置きを」
神聖オース皇国。
そう名乗る彼の国は元々八岐大国の領地だったが、争乱よりも数十年昔に西部の大部分を取り込んで離反した国家だ。
その為、西部を含む前巨大国家を八岐大国、離反後の中央国家を央八岐大国と呼ぶ向きもある。
そして争乱時、八岐大国への進攻を主導したのは西の皇国と、八岐大国と並ぶ古い歴史を持つ北の閻国であり、この二国は現在大陸において強い発言力を持っている。
「顔を上げよ。其方を客将として迎える。好きに振る舞うが良い」
「は。有難う御座います」
「俺の居室に顔を見せるに、礼、取り次ぎ、解武も一切不要」
アレクは内心驚いた。謁見にあたって、友好国であろうと他国の騎士が帯刀を許される国は、普通ない。
まして取り次ぎすら不要とは、暗殺してくれと言っているようなものである。
しかしそんな気持ちはおくびにも出さず、アレクは薄く微笑んで言った。
「一つだけご質問を。兵を動かすにあたっては、許可が必要でしょうか?」
アレクの言葉に、初めて那牟命が笑みを見せた。
「小煩き者が在れば言うが良い。力でねじ伏せても良い。この国で、力を持つ者に対して一切の咎めはない」
ただし、と那牟命は続けた。
「俺の不興は買わぬ事だ。一切の咎めがないのは、俺とて同じ」
アレクは再び頭を垂れた。
「肝に命じておきます」
那牟命は一つうなずき、背後に伏せる蒼龍の鼻先に近寄った。
「恐れながら、危険かと」
「構わん」
そのまま、躊躇う様子もなく那牟命は龍の鼻先を右腕で撫でる。
「立て、アレク卿」
されるがままの蒼龍を、少し意外に感じながらアレクは立ち上がった。
「見事な騎龍だ。種族と名は?」
「蒼龍、ランジュと申します」
「どのような字を書く」
「藍の樹と書いて、藍樹、と」
「木に近しい字を従えるか。相当高位の龍と見受けるが」
「彼自身は、東方青竜に近しく連なる龍である、と申しております」
「ほう」
那牟命が、軽く眉を上げた。
「そなたは龍声を聞くのか。この藍樹、自ら招いたのだな」
「は。高位の龍は調伏した本人にしか従おうとせぬもの、と聞き及んでおりましたので」
「剛の者だな。いずれ相見えてみたいものだ」
「恐れ多い事です」
「俺の首を獲りに来るのを愉しみにしている」
初めて笑みを見せた那牟命に、アレクは黙って頭を下げた。
那牟命も答えを期待していた訳ではないようで、それ以上言葉を重ねず背を向けて去って行った。
完全にその姿が見えなくなってから、アレクは軽く息を吐く。
笑んだ那牟命から発された覇気によって、背中に冷たい汗が浮かんでいた。
それは、万近い敵軍を前にした時に感じた緊張に似ていた。
「尋常の人物ではありませんね」
スケアが降り立って初めて口を開いた。思わず漏れたのだろうその一言に、アレクは同意した。
「これからしばらく彼を相手取らなきゃいけないと思うと、うんざりするね」
「故に本国は、アレク様を差し向けられたのでしょう」
「荷が重いなぁ」
「ご冗談を。アレク様とて、尋常の者ではありません」
「買い被りだよ」
アレクは、やれやれ、と苦笑した。
「これは、想像以上に厄介なお役目になりそうだ」