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朱の呪紋士  作者: メアリー=ドゥ
第一章 巣立編
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第38節:救世の御子

 何故か不穏な空気を感じて、彼は思わず動きを止めた。


「っと」


 足がもつれてその場に倒れそうになる。

思わず手を伸ばしたがそこに掴むものは何もなく、彼は結局無様に倒れた。


「痛ぇ」


 頭は庇ったが肩を打った。全身の傷に響き、思わず声を上げる。

 その音を聞きつけて、誰かが走って来た。


「白! また勝手に出歩いてるのかい!」


 しゃがれた声が聞こえた。

歳は分からないが、おそらく白抜炙よりかなり上だ。


「於母か。面倒くせぇ」


 白抜炙は舌を出してからなんとか体を起こし、手をついていた壁に背中をもたれさせた。

 彼はどこかの里にある、孤児を集めた養家で介抱されていた。

 彼女はその施設を預かっている養母だ。


「そんな大怪我で目も見えないくせに、少しは大人しくしてたらどうだい!」

「一日中寝てたら体が鈍るだろ?」

「怪我を治してからにしなってさんざん言ってるだろう!」

「いいから、符をくれ。段々視えるようになって来てるんだ」


 於母はふん、と鼻を鳴らし、それでも符を拾って握らせてくれた。


「感起」


 呪を口にすると、薄ぼんやりと真っ暗な視界に種々の光が灯った。

 天地を流れる五行気、耳を澄ますように感覚を研ぎ澄ますと、家を形作る木気や大地に潜む土気、あるいは人の放つ精気が浮き上がるように見えて来る。

 間近で人の形を成している気。それが於母だ。


「さ、寝室に戻るよ」

「嫌だよ。せめて歩けるようにならんと旅も出来ねー」

「旅って。あんたまさか、そんな体で出て行く気なのかい?」

「世話してくれるのは有り難いが、少し放っておいてくれ」


 差し出された於母の手に敢えて触れず、白抜炙は壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。


「この馬鹿たれが!」


 不意に頭を叩かれ、白抜炙は呻いた。


「~~~~~ッ。何しやがる!」

「先に養生しろって言ってんだろ!」

「どの口が言いやがるんだ。傷に響くような事しやがって!」

「頭の具合を治してやったんだ、感謝しな! 大体人間の体なんざ、養生しなきゃ治るもんも治らないんだよ!」

「……分かった。でもな、寝てばっかじゃ気が滅入るんだ。少し外に出させろよ」

「ふん。愚痴愚痴言い訳しないで、最初から素直にそう言やいいんだよ」


 於母は、側に居た誰かを呼びつけて自分のやっていた用事を言い渡してから、白抜炙の体を支える。

 力強いその腕は筋張って固く、手の皮の感触はざらついて分厚い。


 外に出て、白抜炙は目覚めてから初めて風を浴びた。

 開けた視界で、風が、空が、茂った草が、遥か遠くを流れる河が、眩しい程に輝いて感じられる。


 ままならない自分の体と違って、世界ははち切れんばかりの生気で溢れていた。

 木陰に腰掛け、白抜炙は言った。


「やっぱり、外は好いもんだ」

「少しだけだよ。長く風を浴びたら体に障る」

「ああ。……あれは何だ?」


 目を失ったからこそだろう。

 白抜炙は、周囲とは明らかに違う存在がそこに居る事に気付いた。


 人でも、陰魔でもない。

形容しがたいが、あえて言うなら、龍脈がそのまま生き物を形作っているかのような光輝が、二つ。

 陰と陽。

それらが入り交じり、一つの形を成しているかのようなその気配は。


「太極……」

「ん? 何だって?」


 小さく呟いた言葉が聞こえなかったようで、於母が問い返して来る。


「誰か来るね。異国の顔だ。旅の人かね?」


 すると、あの光輝は人なのか。

 すぐ側まで来たその気配から、低い男の声が聞こえた。


「食べ物を少し分けて欲しい」


 禍々しい感じはない。

むしろ見ていて好ましい程の気配だが、得体の知れなさに白抜炙は警戒した。


「少し待ちな。村長に訊いて来させるから」


 男は頷いたようだ。

 どうやら、もう一つの気配は彼の腕に抱かれているようで、そちらはじっと白抜炙を見ているように感じた。

 於母が、また誰かを呼んで走らせる。


 と。


 白抜炙の視界が唐突に暗転し、何も感じる事が出来なくなった。

 符の効果が切れたようだ。


一枚残った感符はどうやら傷ついているようで、あまり長い時間は効果が保たなくなっている。

 だが再度起呪を口にする前に、柔らかい少女の声音が耳朶を叩いて、白抜炙は思わず固まった。


「目、見えないの?」


 その声に。


 聞き覚えがあった。


 忘れる筈もない響きを帯びた、その声は。


「ああ、目が物を見る力をなくしちまってるんだってさ。村の呪医が言ってた」


 彼の代わりに於母の応える声が、ひどく遠い。

 まさか、と思う。

 間違いない、と即座に逆の想いが湧き上がる。


 二つの想いがせめぎ合い、白抜炙は渇望した。

 もう一度、声を聞けば。

 しかし疑問の答えは、自ら判断するまでもなく少女が口にした。

 

「なら、てぃあが見えるようにしてあげる」


 彼女がそう言うのと同時に、目に暖かいものが触れる。


視て・・


 その言葉は。


 抗いがたく、彼の耳に響いた。


 目が燃えるように熱くなる。

咄嗟に目を抑えるが、熱はすぐさま消え去った。


 そして、視界に再び鮮やかな気配が映り込む。


 符の力も借りていないのに。


 彼の目には、生気が見えるようになっていた。


「みえた?」


 無邪気に訊く少女の声音は、視界の外から。

 彼のすぐ近くに、少女は膝をついていた。


 白抜炙は崩れ落ちるように前のめりになり、震える手を少女に伸ばす。


「ティア……?」


 手が触れる前に動きを止めて、白抜炙は恐る恐る話しかける。


「うん」

「誰だ」


 男の警戒した声。

 無理もない、と思った。


彼女が、真実、その名を持つ少女なら。


 彼はおそらく、あの時の黒衣の戦鬼。


「生きて、いたんですか?」


 涙が溢れる。せっかく見えるようにしてもらった視界が滲む。


「生きて……?」


 しかし、少女は白抜炙のその問いかけではなく、振り向いて男に応えた。


「あのね、むかしパンあげた子よ。それにね、てぃあを助けようとしてくれた子」


 覚えていてくれた。

 白抜炙の感じたその衝撃は、口では言い表せないほど強いもので。

 彼はついに、その場にうずくまってしまった。


「白?」


 於母が心配そうに白抜炙に声を掛ける。

しかし、彼は顔を上げる事が出来なかった。


 まるで、平伏するように地面に顔を伏せて。


「感謝します、ティア。俺は、貴女にーーー」


 彼女に出会えた事で、彼の人生は変わったのだ。

 彼女に出会わなければ、御頭や、須安との交流はなかった。


「貴女に救われてーーー」


 囚われた彼女を見た時に、助けたいと思わなければ。

 御頭の目に止まり【鷹の衆】として生きる事も出来なかった。

 ひいては、朱翼を救う事も。


「救われて。なのに、見捨てた」


 伝えたい事は多過ぎる位あるのに。

 嗚咽混じりの、断片的な言葉しか口をついて出ない。


「俺は貴女に、全てを与えられたのに。貴女に何も返せなかった」


 なのに。

 彼女は何度も。


「謝りたくて、ずっとーーー」


 絶望から掬い上げるように、彼に光を与えてくれる。


 救世の御子。


「申し訳ありませんでしたーーー生きていてくれて、本当に良かった」


 言いたかった事が、ようやく言えた。

 しかし、そんな白抜炙に御子が言う。


「ありがとう。でもてぃあ、何もしてないよ」


 明るく、幼く。

 しかし全てを包み込むように。


「きっと、あなたはそんな風にやさしいから、色んなものをもらえたのよ」


 だから、と。


「やさしいあなたが生きていてくれて、てぃあもうれしいよ」


 涙が溢れて、地面に滴った。


 全員が黙す中、彼は顔を上げる事が出来ない。

 頭を下げる以上に、今の気持ちを表現する手段が見つからない。


 だが、少しずつ告げる言葉を、感謝の気持ちを、彼女は辛抱強く聞いてくれた。

彼女に救われて出会った少女の事も。

すると不意に、彼女は言う。


「なら、てぃあたちと一緒に来る?」

「いえ、それは……」


今の自分では足手纏いになる。

遠慮する白抜炙に、しかし彼女は頓着しない。


「ね、いいでしょう?」


連れの男にそう聞いている。


「てぃあ、その子に会いたい」


その一言で全てが決まったようだ。


「どうする?」


問う男に、白抜炙は躊躇ってから答えた。


「しばらく足止めをしてしまうかもしれません。それに、お役にも立てないかも」


別に構わない、と答える男に、白抜炙は、頭を下げた。

願ってもない事です、と。


 彼が得たものを、彼女に見せる事が出来ると良い。

 そう思った。


 あの《大禍》を、【鷹の衆】の何人が生き残っただろう。

 なるべく多く生きていてくれる事を、白抜炙は願った。


 村長を訪ねる御子らと別れ、養家へ戻る路を歩きながら、白抜炙は残して来た朱翼へ想いを馳せる。

 彼女は今、どうしているだろう。


 御子にどこか似たところのある、あの少女は。


「あんたを待ってるのは」


 於母が言う。


「どんな奴だい?」

「そうだな……一見物静かだが、その実、かなり気性が烈しい」


 おかしさを覚えて、白抜炙は笑みを浮かべる。


「戻る、と言ったが、多分大人しく待ってないだろうな」


 きっと迎えに来ようとするだろう。

 ならば、再会出来る日はそう遠くない。


※※※


 倭繋書紀に、こう記されている。


 不楽十二年、巳の月

 倭繋国艮方平定の任を受け、客将、上地にて山賊を排す。


 この、たった二文。

 彼らの名も所業も、その想いも、後の歴史には一切伝わっていない。


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