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朱の呪紋士  作者: メアリー=ドゥ
第一章 巣立編
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第37節:朱い雛の巣立ち

「烏」


 呼び掛けられて、彼女は素早く符を袖口に隠した。


「そろそろ発つと、無陀が」

「ええ」


 見ると、朱翼は旅装に身を包んでいた。

 と言っても、普段と変わったものと言えば手に提げた大袋と新調した外套くらいのもので、いつも通りに頭布で頭と顔を隠している。

 表情は伺い知れない。


「朱翼」


 用件だけを伝えて背を向ける朱翼に、烏は声を掛けた。


「何でしょう?」

「彼は本当に、生きているの?」


 その問いかけは、ただの疑問ではなかった。

 白抜炙は、《大禍》に呑まれた。

 普通、《大禍》に呑まれたものは二度と戻らない。


「分かりません」


 朱翼はそう言った後に続ける。


「ですが、白抜炙が呑まれたのは水の《大禍》です。そこに望みがあります」

「何故?」

「水と他の五行気との違いは、水の原意が『流れ、たゆたう事』そのものである事です。火が全てを焼くように、土が全てを呑み込むようには、水は呑んだものに害を成しません」

「あの黒い嵐を見た後では、信じがたいわね」


 《大禍》は、その場に在ったほぼ全てを飲み込んだのだ。

 生き残った者はほとんどいない。


「《大禍》とは、純粋な原意の顕現である、と師父は言っていました。澱んだ《大禍》は牙を剥きましたが、龍脈に流れたものはその先で吐き出されている可能性がある。無事に、かどうかは分かりませんが」


 朱翼は目を伏せた。


「白抜炙はきっと、龍脈の先に居てくれます。私は、必ず見つけます」

「死んでいたら?」


 朱翼は、首を横に振った。


「生きて戻る、と白抜炙は言いました。そう誓う、と。私はその言葉を信じます」

「お熱い事だねぇ、っと」


 二人が振り向くと、共に旅立つ者が数人立っていた。

 無陀、弥終、そして錆揮。

 あの河の氾濫で生き残った【鷹の衆】は、たったこれだけだった。


そして、共に旅立つ者も、これだけだ。

村は全滅。御頭も死んで【鷹の衆】は散じた。


「でもまぁ、信じるだけでどうにかなるなら、苦労はねーよねぇ」


 相変わらずの無陀の物言いに、朱翼は少し気分を害したような口調で言った。


「無駄だと思うなら無理について来なくてもいいですよ、無陀」

「ところがそういう訳にもいかねーんだよねぇ。面白くねー事に」


 無陀は顎を掻いた。


「御頭にも白のにも任せろって言っちまったからねぇ。まー、村どころか仲間すら守り切れなかった不肖の息子で頼んねー友人だけども」


 普段通り、やる気のなさそうな笑みを浮かべて。


「だからせめて、残った連中くらいは面倒見ねーとねぇ」


 烏は。

 その軽い調子と裏腹に、無陀がどれだけ自分の情けなさを悔いているかを知っている。


『俺にゃ、朱翼みたく親父を責める資格がねーんだよねぇ』


 無陀は朱翼の話を聞いた後に、弥終と烏にだけそう言った。


『なんせ、俺を助けたせいで親父がお袋を殺したよーなもんだしねぇ』


 口調だけは普段通り軽く、しかしそこに込められた感情のとてつもない重さを、烏は感じた。

 彼女は、返す言葉を持たなかった。

 須安が無陀を助けたせいで自分が死んだのだと知っても、御頭はそれを許すだろう。


 ーーーあの人にも、人並みに親心があったのねぇ。


 そう言って笑うに違いない。

 無陀にだって分かり切っている事の筈だ。

 故にこそ、だろうか。


『父子揃って、無様としか言い様がねーよねぇ』


 無陀の後悔はどこまでも果てしない。

 しかし、烏は知っている。

 彼のとぼけた振りに付き合って、普段は雑な扱いをしていても。


『「何を馬鹿な事を言ってるんですか」』


 表面だけを取り繕って、どこまでも沈み込みそうな無陀に烏は言った。


『御頭や白抜炙に、貴方がどれだけ信頼されていたか、気付いていなかった訳ではないでしょう?』


 そして、今目の前で一人前であるかのような言葉を吐く彼にも、同じように言う。


「無精な貴方は面倒を見る側ではなく、見られる側でしょう?」

「御頭達がいなくなって、偉くなったつもりか? 分を弁えろ、分を」


 無陀の付き合ってあげるのは、今は烏と弥終の役目だろう。

 烏が弥終に目を向けると、弥終は軽く口を曲げてみせた。


「ははは。返す言葉もねーねぇ」

「白抜炙は、生きてる」


 嬉しそうに苦笑を浮かべる無陀に、錆揮が話題をもどす。


「探しに行くのは、無駄にはならないよ」

「根拠がないな。根拠が」


 弥終の言葉に、錆揮は肩を竦めた。


「勝手にいなくなってこの上死んでたら、地獄まで追っかけて今度こそ俺が魂まで寸刻みにしてやるさ」


 おどけた風だが、錆揮はあの日以来笑みを見せない。


 この子も無陀と同じだ。

 誰も彼を責めないが、彼自身が自分を許せないのだろう。


 須安に利用され、御頭と白抜炙を失ったのを自分の責任だと思っている。

 しかし、慰めに意味はないだろう。

 彼を許せる誰かは、既にこの場にはいないのだから。


「もし死んでいたら」


 朱翼はあくまでも静かに言った。


「私も地獄へ付き合いますよ、錆揮」


 淡く笑みを浮かべ……これも今までなかった事だ……朱翼は続ける。


「そして約束を破る罪がどれほど重いか、骨の髄まで灼いて思い知らせます」


 烏は、朱翼の迫力に気圧されて背筋が冷えた。


 他を見ると、錆揮は固まり、無陀は顔を引きつらせ、弥終が軽く額に汗を浮かべている。


「こりゃ確かに、死んでる場合じゃねーねぇ……」


 無陀の言葉に烏は、内心深く頷いた。



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