第35節:示された真実
嵐のような《大禍》に白抜炙が呑まれる。
視界から消える前に、彼の持つ呪符が煌めくのが見えた。
朱翼は時機を逃さず、結界を凝縮する。
白抜炙に……正確には彼の発動した木符に、《大禍》が飢えた獣のように喰らいつこうとしているのだろう。
大禍はその流れを変え、水の詰まった袋に針で穴を開けたように、一点に向かって収束してゆく。
みるみる内にその勢いは増してゆき、朱翼は巻き上げられ、引き剥がされそうになる結界を必死に制御する。
長く感じられたが、それは僅かな時間だったのだろう。
朱翼は、暴威を耐え切った。
しばらく待って、危険がないと判断した朱翼は慎重に結界を解く。
風が、頬を叩いた。
大禍が去り、河の流れは膝丈まで減じている。
朱翼は、重い体を持ち上げてゆるゆると動き出した。
広い河原には、既に誰の姿もなかった。
中州の上から川辺に向かって、朱翼は錆揮と御頭を抱えて、二度往復する。
口の中で入り交じる、血と泥が気持ち悪い。
残滓のように降り注ぐ小雨を舐め、口をすすいで吐いた。
赤黒い液体が河に溶ける。
空は晴れていた。間もなく、雨も止むだろう。
だが体は、泥水を吸った服が張り付いて冷え切っていた。
なんとか脱いだ外套を錆揮の体に掛けたが、そこで力尽きる。
再び太ももに、気を失った錆揮と御頭の頭を乗せ、朱翼は大きく息を吐いた。
動く気力が、湧かなかった。
余りにも静かだ。
どの位、そうして座り込んでいたのか。
ふと、朱翼は足音を感じて、そちらを向いた。
平野の向こうから、誰かが歩いて来るのが見える。
「師父……?」
そこに。
いつもと変わらぬ風情の、見慣れた老人が立っていた。
※※※
「見事。しかし、愚かなり」
須安の目は、錆揮の胸元に向けられている。
白抜炙の血紋。
「僅かの時で、我が陰紋をここまで両儀に近づけるか。奴ならば、至極を描けたものを、情に流され自ら大禍に身を投げるとはな」
「白抜炙は……私達を救ったのです」
朱翼は、虚脱のままに須安に伝える。
「御頭も、亡くなりました。師父、見ておられたなら何故手を差し伸べて下さらなかったのですか?」
須安ならば、大禍を鎮める事も出来た筈だ。
「死んだ、か」
短い間だけ御頭を見て、須安はすぐに朱翼に視線を戻す。
「吾には、汝らを助ける道理がない」
「どういう意味です?」
須安は何を言っているのか。朱翼にはまだ理解が及ばない。
「此度の事は全て、吾の思惑の内である故に」
「思惑、ですか?」
「左様。汝が残り、太極紋が完成に近づいた」
「太極紋?」
「錆揮に紋を施したのは、吾だ」
須安の言葉に朱翼は目を見開いた。
とっさに理解出来ず、朱翼は戸惑う。
「どういう事なのです? 師父」
錆揮をこんな目に遭わせたのが、目の前の師だと言う。
朱翼にとっては到底信じられる事ではなかった。
「かつて人攫いの村に汝と村の少女を攫わせ、マリアに助けさせるよう仕向けた。白抜炙自ら汝を取り込んだは僥倖だった。しかし惜しむらくは、今、奴が正しき道理に従う事なく失せた事」
しかし須安は動じる事なく続ける。
「《大禍》を過ごすならば、死骸に符を付けて起呪と同時に投げれば良かったものを」
死骸。
その言葉に、朱翼は自分の手元に目を落とした。
眠るように安らかに目を閉じた、御頭の顔を見る。
朱翼達の為に、命を散らした御頭を。
「今、死骸、とおっしゃいましたか?」
朱翼は思わず真っ向から須安を睨みつける。
「師父。貴方と御頭は、夫婦ではなかったのですか。その御頭を、死骸と呼ばわるのですか?」
「何を憤っている?」
「私が問うているのです。常に道理を説いていた貴方が、何故そのような非道を口にするのですか?」
「道に沿いて語るなら、死して御魂は龍脈へと還るものだ」
あくまでも静かに、須安は理を述べる。
「それは魂の抜け殻。正しく死骸である。マリアはそこには居らぬ」
「師父!」
疲れと、絶望と、怒りと。
それらが全てないまぜとなり朱翼は激昂した。
「貴方に情はないのですか! 道理で割り切れない想いは!」
「愚かなり。理に添わぬ情に流されて、大義は成らぬ」
「人は理のみで生きている訳ではないでしょう!?」
「感情のままに呪を吐き散らすな。己が呑まれて、まるで筋が通っておらぬ」
須安は、朱翼の感情をいなすように断じた。
「何が道理か。何が非道か。小理と大理を同じ領域で語るを、愚かと言う。そうして大理より目を反らし、小理に拘泥し、皆、間近に迫る滅びより目を反らす」
かつてなく饒舌に、須安が語る。
「世は、滅びに瀕しておる。お前とて聞いた筈だ。阿納の悲鳴を。阿納が救いを求めている事を、理を以て解しはしなかったのか。何故救世の御子が世に遣わされたのか、その理由を」
教え諭すような語り口の須安に、激昂が萎える。
「救世の御子が、遣わされた理由……?」
「世を救う、というのがどういう事なのか。汝は考えた事があるか」
改めて問われると、朱翼には分からなかった。
だが、その話が今何の関係があるのか。
「御子は太極の子である。羅延を父に、阿納を母に生まれ落ちたる者。人、即ち森羅万象より生じたものを、太極の高みへと至らすべく世に遣わされた。故にこそ皇国はその神体を欲し、玉帝は世界の真実を知らしめる為、是を敢えて弑した」
「何を……言ってるのです?」
「分からぬか」
須安は語る。
いつものように。
いつもと同じに。
「此度の事を含めた全ては。あの救世の御子を弑した時より始まった、救世への布石」
拍を置き、須安が告げる。
「全ては、阿納を救済する者、即ち阿納の巫女を探し出す為に行われた事」
「阿納の、巫女……?」
「阿納は灼する星を呑み、五行を整え森羅万象と成した」
須安は始要の一節を口ずさむ。
「その阿納が今は軋んでいる。人の営みで龍脈が乱れ、その乱れが無数により合わさり、今、呑んだ灼星に腹を喰い破られようとしている」
救世の御子が人の手によって弑され、その道程は万人へと伝わった。
彼女の生は苦難に満ち、人の愚かしさによってその生涯を閉じている。
それは阿納の逝く末を示唆する旅路だと、須安は言った。
「もし阿納の腹が破られれば、どうなると言うのです?」
「大地が壊れる。阿納とは、即ち我らが住まうこの大地。我らは、原初の龍の背の上に在るが故に」
今のまま放置すれば、今度は阿納が御子と同じように逝く事になる。
誰かが救わねばならない。
阿納と共に、人が滅び去る前に。
「阿納が死ぬ。それが滅びと言う事ですか?」
「左様。大地が滅んでは人は生きられぬ」
「大地を救う方法が、阿納の巫女を見つけ出す事だと?」
「否。阿納の巫女を人の内より生み出す事だ」
「それが私ですか?」
「左様」
「どのように救うと言うのです?」
朱翼は御頭と錆揮の頭を抱いて言った。
「御頭も、弟も、白抜炙も。身近に在る者すら救えぬ私に、そのような大それた事が成せる筈はありません」
「今はそうであろう」
朱翼の目から、一筋涙が伝う。
「何故、私なのですか」
「汝が朱髪の一族であるか故。龍脈すらも操り、天地を整える程の力をその身の内に秘めておるからだ」
「そんな理由で……」
朱翼は叫んだ。
「そんな理由で、私は全てを失わなければならないのですか!」
錆揮も、御頭も、白抜炙までも。
阿納の巫女。
そんなものの為に。
私の幸せは。
安らぎは。
奪い去られなければならないのか。
「甚大な力が必要だというのなら、救世の御子こそ力を持つ者でした……」
紋も介せず、言の葉一つで万象を従える。
彼女の力は呪の究極と呼べる程の力ではなかったか。
「それを敢えて弑した。何故今更、他にそれを求めるのです?」
しかし怨嗟の声は、須安に届かない。
「救世の御子は、阿納の巫女ではあり得ぬ」
彼はただ、理に即した答えのみを口にする。
「彼女は太極。羅延そのものであり、阿納そのものであると言える。阿納が求めているのは太極より万象に下ったものではなく、万象より太極に至る者。物事とは陰陽。太極を救う者は、太極と対で在らねばならぬ」
それが世の理故に、と須安は言う。
「救世の御子とは正しい呼び名ではない。彼の者は太極の御子。汝こそが、救世の巫女たるべき者」
朱翼は、ただ睨みつけるだけで答えない。
「何故失わねばならぬのか。答えは自身が既にして述べた。汝に力が足らぬ故。太極の御子に届かぬ己の未熟さ故に、汝は全てを失った」
お前のせいだ、と責めるのではなく。
事実として、須安は突きつける。
「未だ小理に拘泥するならそれでも良い。己の為に力を求めよ、朱翼。己が手にした全てを守る力を」
「守るべき全ては、既にありません」
恨みや絶望が極端に深まると、人は笑うのか。
弛み、半笑いのようになった口元で朱翼は紡ぐ。
「もう私には、力を求める道理がない」
「道理はある。汝は、全てを失ってはいないからだ」
須安が目を向けたのは、錆揮。
「吾が錆揮に施した紋は、大陰紋。白抜炙によって描かれた血の陽紋によって体を蝕む毒は抑え込まれているが、紋は不完全。言わば、陰中陽を得たに過ぎん」
ただ毒の回るのを抑制しているに過ぎぬ、と須安は告げる。
「放置すれば陽紋の力は薄れ、やがて死ぬ」
理詰めの言葉は何より強い。
「汝は太極紋を完成させねばならない。弟を救いたければ。己の力で。あるいは白抜炙を探し出して」
その理を以て、須安は解決策を提示する。
己に都合の良い、解決策を。
「奴こそ、汝と同様吾が見いだした救世の者。奴の類いまれなる刺紋の才覚は、太極紋を完成させうる。吾にはなし得ぬ事が、奴であれば出来るであろう」
反論する術は、朱翼にはない。
「再び白抜炙と邂逅し、錆揮を救った時。汝が巫女と成る程に強大な力を得ていれば、手にしたものを失う恐怖に怯える必要はなくなる」
何故なら、彼が口にしているのは、希望。
須安は己の目的に朱翼を邁進させる為に、彼女にとっての希望を口にする。
「太極紋に、救世の巫女。これが揃って初めて、救世は成る」
須安の思惑通りに動く事が、朱翼が残ったものを守れる唯一の道であると。
「巫女たれ、朱翼よ。この上、己が全てを奪われたくなければ」
彼の思惑を正確に理解しながらも。
朱翼は。
その甘い誘惑に、抗する事が出来なかった。
何故なら、須安の言葉は嘘偽りではないからだ。
全ては道理。
実を伴う、真実のみを騙り。
人を、自らの意思で動かざるを得ない状況へ追い込む。
策略家とは、きっと、須安のような人間を指す怨嗟の言葉だ。
大義を成す。その為にあらゆる全てを犠牲にしても構わない、と考える須安に。
逆らう方策すら持たない自分に。
朱翼は真実、無力感を覚えた。
「須安」
無力な朱翼は、吐き出せる限りの恨みを投げる。
「歩みましょう。巫女の道を。しかし」
大義のみに目を据える須安に。
「貴方の『正しさ』が、常に正しい行いであると思わない事です」
唯人としての、遺言を告げる。
「貴方は正しい。大理を以て正しいのでしょう。でも私は、例え世界が滅びに瀕していても、世界を救う為に生きるのではなく、錆揮や御頭と。白抜炙と。【鷹の衆】として共に生きたかった」
須安の心には届かないだろう。
そう分かりながらも、朱翼は人として残酷な言葉を須安に投げる。
「貴方に対しても、御頭や無陀は同じように思っていたのではありませんか?」
御頭は。
マリアという一人の女性は。
須安と共に生きたいと願っていた筈だ。
でなければ、あんなに須安の事を気に掛けていた筈がない。
御頭は、まめに須安に食事を届け、冬には寝床の心配をし、何くれと無く、須安の様子を朱翼に聞いていた。
時折、須安が側にいない事を寂し気に笑っていた。
『意固地だからね、あの人は』
「貴方は、大義ではなく、御頭達と生きる道を選ぶ事は出来なかったのですか?」
朱翼の言葉に。
須安はどこか満足げに、微笑んだ。
「お前は、確かにマリアの子だな」
朱翼は初めて、自らが師父と呼んだ男の笑みを見た。
「発て。汝の大成を心より願う」
そう言って、須安は朱翼に背を向ける。
「師父」
彼の顔に浮かんだ笑みの残滓に、朱翼は問う。
「貴方に、未練はないのですか」
歩む背に答えはない。
朱翼は、重ねて問う。
「答えて下さい、師父」
失ったものを惜しむ気持ちを、それを振り払う素振りを。
朱翼は須安の背に見た気がした。
「国が滅んだ時、御頭と共にこの地に根ざしたのは何故ですか」
恨む気持ちが失われた訳ではない。
だが朱翼が【鷹の衆】に拾われたのが、須安がそう仕向けた事だとしても。
彼が朱翼を手に入れる為に、御頭達を利用したのだとしても。
皇国の蛮行を、見逃したのだとしても。
「事を成す時、貴方には一縷の惜念も、苦悩も、後悔もなかったのですか」
朱翼に道理を教えてくれた師は。
御頭の愛した人は。
己が成した非道に気持ちを動かさない程、心無き者だったのか。
「師父!」
「俺は」
いつもと変わらない、その声音に。
朱翼は、一抹の寂しさが滲んでいるように感じた。
「俺以外の何者にもなれん」
人とは、どう生きるべきなのか。
最後に朱翼に聞こえるか聞こえないかの微かな一葉の言を残して。
須安は、姿を消した。
「ならば今更に、何を語る事があろうか」




