第30節:辰星大過
白抜炙に迫る絶死の刃。
「ッ!」
白抜炙は目を閉じる事も出来ないまま歯を噛み締めたが、その刃は白抜炙の眼前で止まった。
短刀の刃は、横合いから伸びてきた三爪によって受け止められている。
「それ以上は止めておきなさい。戻れなくなるわよ?」
白抜炙に止めを刺そうとした錆揮の一撃を受け止めたのは、御頭だった。
彼女の全身に紋が浮かんでいる。それを見たのは、初めてだった。
彼女は、紋を刻身していなかった筈だ。
「特別なのよ。錆揮と、私の紋はね」
白抜炙の表情から疑問を読み取ったのだろう。
笑みを向ける御頭に言われて、白抜炙は彼女の紋が錆揮のものと酷似している事に気付いた。
しかし陰を纏う錆揮に対して、御頭が纏っているのは神々しいまでの陽気。
「邪魔をするなァ! どいつも、こいつもッ!」
御頭の三爪を弾き、錆揮が短刀を構え直す。
「全く、私の子に手を出すなんて。ちょっと怒らなきゃ駄目かしらね」
腰に手を当てて頬を膨らます御頭に、錆揮が激昂のまま襲いかかった。
「殺ッ!」
薙ぎ払われた高速の剣閃は、しかしあっけなく御頭に受けられる。
白抜炙には逸らすのがやっとだった、錆揮の一撃が。
「駄目駄目、そんな力任せの攻撃じゃ。こうするのよ」
受けた短刀を逸らすように流し、御頭は錆揮に投げを打った。
抵抗も出来ないまま、錆揮が地に伏す。
だが、柔らかい投げは彼に怪我一つ負わせないよう配慮されていたようだ。
「ふざけてるのかッ!」
錆揮が起き上がり、最早白抜炙の目では追い切れない高速移動で御頭の周囲を駆け回る。
「当たり前じゃない。誰が子どもと遊ぶのに本気出すのよ?」
あくまでも軽い口調で御頭が言う。
「舐めるなァ!」
高速移動からの無数の剣撃。
しかしそれらは、全て御頭の防御に弾かれる。
「ほら、二回目」
好き放題やらせた後に、御頭は再び錆揮を地面に転がす。
「ぐっ!」
「もう終わり?」
「ーーーッ! ガァアッ!」
最早なりふり構わず御頭に真正面から突っ込む錆揮。
しかし今度は初撃から地面に転がされる。
圧倒的だった。
白抜炙達が二人掛かりでも止め切れなかった錆揮が、御頭にとっては戯れつかれている程度にしか感じられないらしい。
「く、ぐ、こんな、こんなァ……ッ!」
幾度も赤子の手を捻るようにあしらわれた末に、地面に這いつくばったまま拳を握りしめる錆揮。
そして、全身を覆う黒黄色の陰気が、不安定に揺らいだ。
「覚えておきなさい、白抜炙、朱翼。紋を操るのは、心よ。それは呪紋でも呪符でも、刻紋でも変わらない。紋者の戦いで最も有効なのは、心を折る事」
御頭は言い、微笑んだ。
「分かるかしら? ただ依代を操り力任せに暴走させるような紋も、操られて暴れる子どもの駄々も、私程の者には通用しないの」
自慢げに、ふふん、と鼻を鳴らす御頭。
こんな時でも、御頭は御頭だった。
「悪かったな、雑魚で」
自分の未熟さを指摘されたようで、白抜炙は不貞腐れた。
「流石です」
朱翼が素直に褒めるのに、御頭は満面の笑みで答えた。
「じゃ、そろそろ錆揮を正気に戻しましょうか」
「うっわ寒」
「駄洒落……」
二人が肩を落とすのには構わず、御頭は錆揮に手をかざした。
「制!」
御頭の声に彼女を包む陽気が投射され、錆揮の全身を覆い尽くす。
「ぐ、ガ、アアアアッ!」
錆揮の陰紋が黒黄色の陰気で、自身を抑え込もうとする御頭の紫色の陽気に抗おうとしているが、その力の差は歴然だった。
紋の持つ力は同等に見える。
しかし、紋を扱う者と紋に振り回される者では、最初から勝負にならないのだ。
「ア、ガ、あぁあぁぁ……」
紋を抑え込まれ、錆揮の呻く声が徐々に弱々しくなっていく。
体を支える事すら困難になって来たのか、終いに錆揮は、荒い呼吸を繰り返すだけになった。
そして、ぼんやりと焦点が定まらない目に、理性が戻る。
「御、頭……? 俺、何を……?」
「ふふ。ちょっとはしゃぎ過ぎたみたいね。疲れたでしょう?」
「白抜炙、俺、」
錆揮が、自分の成した事を思い出したのか、目を見開く。
「……ごめん、俺……俺、強くなり、なりたくて……」
「お前が馬鹿なのはいつもの事だろ」
「ね、ぇ、さん……」
朱翼は答えなかったが、黙って錆揮の頭を自分の膝に乗せ、その頭を撫でた。
「ごめん、皆、俺、ご、め……」
涙を流し、何度も謝罪を繰り返しながら、やがて最後に、まどか、と呟いてから糸が切れたように錆揮は気を失った。
紋から光が失われる。
錆揮の暴走が止まった事に安堵し、御頭が息を吐いた。
「これで良いわ。後はーーー」
御頭が言い差した時。
突如、彼女の腹を何かが貫いて、突き抜けた。
「ッカ、」
体を突き抜けた衝撃に、息を詰める御頭。
不注意、と言うには、少々酷だっただろう。
正面から相対していれば避けるのは容易だっただろうその一撃は彼女に向けて放たれたものではなく、敵意を感じる事も出来なかったのだから。
あくまでも偶然だったのだ。
ーーー無陀に向けて放たれて反らされた槍閃が、御頭を直撃したのは。
『ッ!』
朱翼と白抜炙が同時に声を上げかけるが、さらに畳み掛けるように悪意が牙を剥く。
不穏な気配が間近で膨れ上がり、白抜炙が目を向けると、洪水に分断された河原の向こうにスケアが居た。
這いずった血の跡が、彼女の後ろに尾を引いている。
白抜炙らが今居るのは、分断されて中州のようになった場所。
既に事切れていても不思議ではない彼女の口元が怪しく歪み、狂気の表情のままに動いた。
死ね、と。
※※※
その瞬間。
流れる水に膨大な水気が流入し、逃れる間もないまま黒い渦が竜巻のように吹き上がり、白抜炙達を覆い尽くした。
黒い渦は考える間すら与えず、白抜炙らへと牙を剥く。
視界が閉ざされる前に、白抜炙は見た。
黒い渦に、スケア自身も呑み込まれるのを。
それは、五行気が極端に偏った時に起こる最悪の災害。
即ち、《大禍》である。




