第27節:強大な敵
「朱翼、追っかけろ!」
無陀が怒鳴った。
言うなり、錆揮がいなくなった途端に行動を始めた子患と朱翼の間に割って入る。
烏と弥終も交戦を始めていた。
「行け!」
「でも、無陀」
無陀が子患を払いながら、朱翼に笑いかける。
「自分の弟なんだから、ちゃんと助けねーとねぇ。お姉ちゃんなんだろ?」
朱翼はその言葉に、迷いを払って頷くと無陀に背を向けた。
無陀は周囲の子患をあらかた始末し、離れた所でボロ雑巾のように転がっているスケアの元へと向かう。
「へぇ。まだ動けるとはねぇ」
仰向けのまま、浅い呼吸を繰り返しながら両足の血を操って血止めをしていたスケアが、汚らわしいものを見るように無陀を見る。
鼻血が顔を濡らし、美貌が台無しになっていた。
「悪いけど、王手だねぇ」
言いながら、右手の刺短刀を逆手に持ち替えた無陀から視線を外し、スケアは空を見上げた。
「無陀!」
遠くから聞こえた烏の言葉に咄嗟に身をかわすと、不可視の何かが無陀の脇を突き抜けた。
「アレク様……」
スケアの呟いた言葉に、そのまま空を見上げるといつの間に近づいていたのか、音もなく宙に浮く蒼龍の背から、槍が一本突き出されていた。
無陀がスケアの側を離れると、それ以上の追撃はない。
同時に、蒼龍と共に現れたと思しき御頭が無陀の横に立った。
「無事?」
「どーにか、って所かねぇ」
短いやりとりをして、御頭が頷く。
相手も相手で、言葉を交わしていた。
「外れたか」
「お助けいただき有難う御座います」
言葉を交わすアレクらを見ると、スケアがなんとか半身を起こしながら言うのに、アレクは特に感情の浮かばない目で彼女を見ていた。
「酷い怪我だ」
「敵に妙な手練が。全身に紋を刺した少年です」
「へぇ、強いのかい?」
「この我が身を見て、お分かりになりませんか?」
「まぁ、君の実力でその様は確かに意外かな」
「この両足を癒さねばなりません。手をお貸しいただいても?」
気怠い声で問われて、アレクはしばし黙考した。
「止めておこう」
アレクが口にした言葉の意味が分からず、スケアは戸惑ったようだ。
「どういう意味です?」
「君を助ける手間が惜しい。まだ雛を手中に収めていないのでね」
「私を、見捨てるというのですか?」
信じられないものを見る目で、スケアはアレクを見る。
「スケア。最初に僕の命令に背いたのは君であり、まだその処罰を下していない。これが処罰だ。僕は、君を助けない」
「教会に権を委任されている私を見捨てる、と? 神罰が下りますよ」
「我らが神の預言者たる教皇は、皇帝その人であらせられる。そして私が皇帝より賜った勅命は雛の確保。それは皇国軍にとって何にも勝って完遂すべき事だ。その過程で一人の神の使徒が戦死なされても、教会は許すだろう」
アレクはあくまでも冷厳と告げる。
「我らにとって皇帝がお許しになる事は、神がお許しになる事と等しい」
それまで足を失っても傲岸であったスケアに、微かな焦りと、アレクに対する怒りが浮かんだ。
「異端者め……。敬虔足らざる貴様が、神を語るな」
「私は教義に逆らった事はない。敬虔足らざる、というのなら、それは神の教えを曲解し、他者の命を奪う事を悦ぶ君にこそ言える。神の愛は平等である。異なる神を信じる者も等しく救う。神の愛し子を無意味に殺す罪人は、君だ」
それにね、とアレクは口調を改めて続ける。
「極めて個人的な事だけど、僕は君のように人を殺して愉悦に浸る殺人狂には反吐が出るんだ。次は君が殺される番さ。負けたのは君が弱かったせいなのだから、恨むなら自分の弱さを恨む事だね」
「貴様、貴様ぁ……ッ!」
「せいぜい、救いの時まで死後の苦しみを味わってくれ。君の逝く末に幸多からん事を。……藍樹」
皮肉に聖印を切ったアレクの言葉に応えて、蒼龍が竜の息吹をスケアに向かって放った。
地面ごと吹き飛び、煙の晴れた後には何も残っていない。
アレクは、無陀達に向き直った。
「待たせたね。彼女の代わりに、僕が君達の相手をしよう」
※※※
白抜炙と錆揮が撃ち合う事数合。錆揮の勢いは止まらなかった。
強い、と白抜炙は思った。
そのまま、一方的に押し込んで来るかに見えた錆揮だが、彼は横合いから放たれた呪紋を避けて動きを止めた。
「姉さん?」
不思議そうに問いかける錆揮に、朱翼は言う。
「錆揮。白抜炙を傷つける事は許しません」
錆揮に呪紋を放った朱翼の表情は、能面のように静かでまっすぐに錆揮を射抜いている。
「何で?」
錆揮の表情が歪む。
「何で、何でだよ、姉さん」
激情が心に渦巻いているのだろう、錆揮は胸を押さえて横に首を振る。
「何で邪魔するんだよ。僕は」
錆揮は叫ぶ。
「僕は力を得たんだよ。姉さんを守れるだけの力を。もう、そいつなんかに従わなくても、僕が姉さんを守れるのに!」
心の底に秘めていた想いを叫ぶ錆揮に、白抜炙は哀れみと同情、そして後悔を感じていた。
力のない自分、大切な者を守ることすら出来ない自分。
誰かの手を借りなければ生きて行けない自分を、白抜炙はかつて、自身もどれほど呪ったかと思い返した。
かつての自分が力を得られると知ったなら、きっと今の錆揮と同じ道を辿ったに違いない。
だが、自分も同じ経験をしたのに、白抜炙には錆揮の心を救う事は出来ない。
己に絶望する者に、他人の言葉は届かない。
「錆揮。その力を使うのはやめて下さい」
朱翼の一言には、悲しみが込められていた。
錆揮は、何度も小さく首を横に振る。
理解出来ない。承諾出来ない。
そう出来ないように、紋に心を縛られている。
「錆揮の今振るっている力は、周りを不幸にする力です」
ーーーかつては、彼女自身も生きる事に精一杯で、己を押し殺し白抜炙らを利用して命を繋ごうとしている事がありありと分かる、頑な少女だった。
だが【鷹の衆】として生きる内に仲間に思慕を抱き、彼女は変わった。
錆揮だって最初はともかく、心の底から白抜炙らを憎んではいなかった筈だ。
「朱翼。どうすれば、錆揮をあの紋から解放出来ると思う?」
「分かりません。ですが」
白抜炙の問いかけに、朱翼は正直に応えた。
「紋が魂を縛っているのなら、紋を破壊すれば戻るかもしれませんが……」
不安そうな朱翼の声音の意味を白抜炙は正確に理解した。
紋を壊すと、深く繋がった錆揮の魂まで壊れてしまうかもしれない。
白抜炙も、朱翼と同様の事を考えていた。
だが錆揮は答えが出るまで待ってはくれない。
ゆっくりと、朱翼と言葉を交わす白抜炙に視線を向け、灼けつくような殺意を放つ。
「そうだ、お前、お前がいなくなればいいんだ。……そうだよ、お前が死ねばいいんだ。そうすれば、姉さんだって。そうだ、もう、お前なんか……お前なんかいらないイんだァッ!」
斬り掛かって来た錆揮の短剣を、白抜炙はなんとか受けた。
「錆揮……」
朱翼の顔が苦悩に歪む。
錆揮を解放してあげたい。でも、その方法が分からない。
「やるぞ、朱翼。なるべく時間を稼いで、錆揮を止める手段を探す」
白抜炙はそう声を掛け、眼前にある錆揮の顔に笑みを投げた。
諦めるつもりは、毛頭、ない。
「借り物の力で偉そうに吼えんな、ガキが!」
「僕を馬鹿にするなァ!」
激情のままに短刀を押し込んで来る錆揮を受け流し、白抜炙は構え直した。
白抜炙らに万に一つでも勝機があるとすれば、それは錆揮を冷静にさせない事だと彼は思っていた。
白抜炙の積み上げて来た技量を遥かに上回る圧倒的な暴力を、冷めた頭で振るわれたら僅かも保たないだろう。
「丙生顕現.鋭形焦成.《火針》!」
速唱にて朱翼の撃ち放った火の呪紋を、錆揮が飛び退って躱す。
水の気に支配されたこの場では火の勢いは明らかに弱い。今の彼なら避ける必要すらなかっただろう。
「無駄な動きだな。それで俺達を倒せると思うのか?」
符を手にして煽ると、錆揮の怒りは際限なく高まって行く。
「殺すッ!」
「言うだけならタダだな。木生!」
手元には、すでに下位の五行符しか残っていない。
しかし、戦い方はある。
符を打つと、木符そのものが鋭く尖った棘を持つ蔓と化して錆揮に迫る。
一薙ぎで錆揮がそれらを払ううちに、白抜炙と朱翼は彼の左右に回り込んだ。
当然、錆揮は白抜炙に狙いを定める。
「丙生顕現.扇形灼成.《九灼》!」
朱翼が立て続けに放った呪紋により、錆揮と白抜炙の間に、九枚羽の扇を成した炎が薄く広がる。
進路を塞ぐ《九灼》を物ともせずに飛び込んで来る錆揮の刃を、白抜炙は大きく屈んで避けた。
「水生」
同時に、こちらに目を向けた錆揮の側にある水気を操ると、錆揮の目の周りが歪む。
ーーー水符術《陽炎》。
相手の視覚を僅かに曇らせるだけの簡素な符術。
案の定、錆揮はそれを払う事もせずに見定めた白抜炙に向かって駆けて来る。
「土生」
同時に、先程割っておいた符の片割れを手に符術を行使する。
ーーー土符術《草絡》。
滲んだ視界と狭くなった思考ではやはり気付けなかったようで、錆揮の足元に打った符の片割れから急激に草が伸びて錆揮の足を絡めとった。
白抜炙は、姿勢を崩した錆揮に狙い澄ました棍による突きを叩き込む。
草によって絡めとられた錆揮は、衝撃を殺す事も出来ないままその場に仰向けに倒れた。
「強力な一撃は、相手を崩してから撃たなきゃ意味がねーんだ。教えただろうが」
白抜炙は、わざとらしく顔を笑みの形に歪める。
「お前は武器に頼り過ぎなんだよ」
錆揮は拳を震わせたかと思うと、追撃で突き立てた杖を躱しながら跳ねるように体を起こした。
憤怒の表情で足を絡めとる草を引きちぎり、刃を振るう。
それを避けると、歯を鳴らしながら顔に血を昇らせた。
最初の一撃が堪えた様子もない。
分かっていた事だが、紋は錆揮の肉体そのものに頑強さを付与するだけではなく痛みすら遮断しているようだった。
「煩い煩い煩いッ! お前なんかーーーッ!」
錆揮の姿が掻き消えた。
今までとは比較にならない速度で動き回る錆揮を、白抜炙は目で追うのがやっとだった。
それから数度、朱翼との連携でなんとか錆揮の攻撃を凌いだ白抜炙だが、遂に限界が来た。
極度の集中は、思った以上の疲れを体にもたらす。
短刀の一撃を躱し切れずに棍が叩き切られる。
そのまま体勢を崩した所に、続く錆揮の一撃が白抜炙を襲った。




