第1節:黄龍と伏竜
「和の」
夕刻。
空に掛かる黒き陽に照らされた城下を見下ろす青年がいた。
背後からの声掛けに振り向いて破顔した彼は、王の証である貴結で髪を結んでいた。
頂点に立つ者らしく、豪奢な衣服に身を包んでいる。
逆に、声を掛けた男自身は。
同様に王族に連なる者でありながら簡素な衣を着用し、斬髪していた。
対称的な恰好の二人。
周囲に外れ者と呼ばれ異端視されているのは男の方であり、青年の恰好こそ王族としては正しい。
「刀の。わざわざ足を運んでもろうて済まぬの」
王たる彼は、玉帝、と呼ばれている。
その言葉に、彼はうなずいた。
「いつもの事だ」
全く異なる立場であり、周囲の評価も真逆の二人は何故か気が合った。
『無頼の輩に、王居の敷居を跨ぐ権を与えるなど過ぎた寵愛』
そう散々に苦言する周囲の声は、男の耳にも届いている。
しかし玉帝は聞く耳持たず、彼を友人として遇するのをやめなかった。
「今日は何の用だ?」
尋ねる男に、玉帝はその細面に淡い苦みを含んだ笑みを浮かべ、再び城下に目を向けた。
そこに、彼の所有する広大な街の賑わいがある。
幾万の民が住み、命と活気に溢れた太平の都。
玉帝は、手を軽く振って人を払った。
が、一人だけ少年が残っている。
「この小僧は?」
「弟子じゃ。筋が良くての。歳に似合わず分別も弁えておる」
玉帝の言葉と男の眼差しに緊張して、少年は体を強ばらせた。
「刀の。これより先に於いて吾の行いは、吾に従いし者全てを裏切る事となろう。その後事を託せるのは、やはり汝しかおらぬ」
玉帝が話し始め、男は小僧から目を離して苦笑した。
「またその話か。仁道篤き貴様に民を裏切るような真似は出来ん。それに俺には国などという大層なものを継ぐ気もない。民を想うなどという面倒事は、全て貴様がやれ」
「想えばこそ」
玉帝は瞑目した。
「敢えて成さねばならぬ事柄もあろうよ。吾の望みを成さんとすれば、必定、吾は世界より弑される。王で在り続けられはせぬ。吾が受けるはそれ程の汚名じゃ」
玉帝は、決意を秘めた目で彼を見る。
男も笑みを消して、玉帝の顔を見返した。
「戯れ言も過ぎれば不快だな。貴様が、己を自ら貶める事で誉れの言葉を求めるような男とは思いもしていなかったが、俺の見誤りか? 和の」
そう言ってみたものの、彼の言葉は本心からのものではない。
下らない戯れ言を吐いているのではない、という事は、玉帝の顔を見れば分かり切った事だからだ。
だが、戯れ言であって欲しかった。玉帝は男の唯一の友人であり、同時に彼の存在はこの国の全てに必要とされている。
その玉帝が、身罷るという。
しかも、自らの意思で。
しかし彼の挑発では、玉帝の金剛より固き心を揺する事は出来なかったようだ。
「全てが遠き先の事であれば、吾とて汝にこのような頼みをしとうない」
誤摩化しを許さない、清冽な覇気を秘めた言葉が玉帝より紡がれる。
「我が名を継げ。九頭竜の器を持つ、唯一の同胞として」
男は思わず絶句した後、言った。
「……それ程に、何が貴様を駆り立てる。龍としての本性すら投げ打って、貴様が成さねばならぬ事とは、何だ」
「打ち捨てるとは思うておらぬ。汝だからこそ託すのだ」
「俺はそんな事を訊いているのではない!」
牙を剥くように、殺意にも似た激情を男は玉帝に叩き付けた。
「応ぜよ、玉帝・草薙主玖守和比人! 何故貴様がやらねばならぬ。弑される程の汚れ仕事ならば、俺にやれと言えば済む話ではないのか!」
「……刀陀」
喜んでいるような悲しんでいるような、複雑な表情を玉帝は浮かべた。
しかし声に震えはなく、また瞳には揺らぎもない。
「それは、出来ぬ」
「俺のような外れ者には託せぬか」
「意味を違えるな。そうではないのじゃ」
「ならば、俺が死を恐れるとでも思っているのか? 侮るなよ、和比人。貴様が残るか俺が残るか、どちらが良いか等、比べる必要すらなかろうが。それとも、俺如きには語るのも憚られるか」
可笑し気に笑い、玉帝は言った。
「そう激するな。情に篤きはどうやら汝の方じゃな、刀の」
「どういう意味だ?」
「吾が後事を託そうとしておるのは、何も自己犠牲の気持ちからではない、という事じゃ」
玉帝の言葉に、男は口を閉ざして先を促した。
「吾の託す汝の役目は、死よりも辛きものとなろう。吾はそれを、汝に押し付けようとしておるのだ」
望み通り、語ろうぞ。
そう言って玉帝は、酒宴の席を整える命を出した。
「我らが住まう阿納の大地が、崩れ去ろうとしておる」
日暮れの酒宴に供された美酒を舐めながら、男は玉帝の言を聞く。
「地が滅べば、国も民も諸共に消える。今ならばまだ間に合うであろう。全てが取り返しのつかぬ事になる前に、吾は立つ事を決めた」
そうして玉帝は語り始め、全てを語り終えた玉帝に対して男は口を開く。
「仁道に篤いと思っていたが、なるほど、俺は見誤っていたようだ」
「左様か」
「俺に全ての面倒事を押し付ける貴様は、悪辣と呼んで差し支えない」
彼の言葉に、玉帝はからからと笑った。
「受けてくれるか、刀の」
「やろう。確かに、貴様には向かぬ話だ」
「深く、感謝する」
「やめろ」
二人は昇り始めた白月の元で黙って酒を酌み交わした。
そして、数十年の月日が流れる。