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朱の呪紋士  作者: メアリー=ドゥ
第一章 巣立編
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第15節:白抜炙の罪/御子の罰

 宴を終えて、明け方近く。


 朱翼は、呻き声を聞いて目を覚ました。

 寝台から身を起こし、間仕切りになっている垂れ布を回り込んで声を掛ける。


「白抜炙……?」


 苦し気にうなされている白抜炙の肩に手を触れた途端、彼は目を見開いた。


「大丈夫ですか?」


 再度声を掛けると、夢から覚めた白抜炙は頭を振った。


「水をくれ」


 朱翼はうなずいて、枕元の水差しから器に水を注いだ。

 白抜炙は一気に水を干すと、煙管に手を伸ばしかけて顔をしかめる。


「頭が痛ぇ」

「呑み過ぎです」


 再び水を注ごうとする朱翼を手で制して、白抜炙は酒を要求した。


「まだ呑む気ですか?」

「二日酔いには迎え酒だ。一番効く」


 呆れ声の朱翼に、白抜炙は口の端を歪めて笑った。

 朱翼はそれ以上苦言せず、黙って酒を棚から下ろして白抜炙に渡す。


 酒を煽りながら、白抜炙は符で煙管に火を落とした。

 窓から差し込む月明かりに彼が紫煙を吐くと、涼しい風にゆらりと流れる。


 煙た気に目を細める横顔に、重い疲労が浮かんでいた。

 朱翼が寝台の横に立ったまま動かずに居ると、目を合わさないまま白抜炙が口を開いた。


「寝ないのか?」


 問われた朱翼は、言うべきか迷った後に訊きたい事を口にする。


「何に、うなされていたのですか?」


 白抜炙は、その問いかけに眉を上げた。


「気になるか?」

「はい」

「昔の事を夢で見た。久々にな」


 白抜炙はの符を手で遊びながら、煙管をくわえたまま見つめる。


「この符な」


 白抜炙が朱翼に向けてかざしたその符は、古く、すり切れた板に紋を描いた粗末な物だった。

 何度もを塗り直し、紋を彫り直してあるその板は符術用ではないただの木片に見える。

 板の割れた部分を継いだ跡すら見受けられた。


 熾の符は、言うなれば火打石だ。少し大きな都へ行けば、安値で買えるような使い捨てのもの。

 本来、大事に継ぎ接ぎして使うものではない。


「俺が初めて自分で作った紋符だ」


 白抜炙は語り始めた。


「こいつと救世の御子が、俺の人生を変えた」


 救世の御子。

 十数年前、八岐大国が滅ぶ原因となった少女の通称だ。


「御子が処刑された時の事は覚えてるか?」

「朧げには」


 まだ、継父の元で過ごしていた頃の話だ。

 その頃の朱翼はまだ幼かったが、あの時の事だけは未だ覚えている。


 御子の罰、と呼ばれる、御子が処刑された日に起こった事。


 その日。

 帝都を中心に、龍脈を介して大陸を覆うような呪力が走った。


 その呪力の影響を受けたのは、全ての人族だ。


 特に強い影響を受けたのは、神官や龍脈の上に住む者と、帝都の近くに住んでいた者達だった。

 呪力に乗せて放たれたものは、まるで、己自身の生涯であるかのように錯覚するほどに鮮明な、御子の記憶。


 救世の御子が辿った道程、その苦難に満ちた生涯は、人を救おうとする少女に対する人々の冷酷さばかりが際立っていた。

 強く影響を受けたものの内、帝都に住まう者の半数は気が狂った。

 罪人として引き回された御子に石を投げる己の醜さを、己自身の体験として押し付けられた故に。


『あの追憶は、神の御心です』


 後に、継父は朱翼に言った。

 

『間も無く、嵐が来るでしょう』


 継父の言葉通りに八岐大国に戦乱に荒れ、やがて滅んだ。

 御子の死に憤った諸国から攻められ、己を苛む罪悪感を少しでも軽くする為に他に責任を求めた八岐大国の者達の手によって。


 賢帝と名高かった玉帝が何を思って救世の御子を弑したのか、朱翼は知らない。


「俺は八岐大国の都で救世の御子に会った事がある」

「御子に?」

「そう。彼女が玉帝に捕らえられる前の話だ。あの頃、俺に名前はなかった。都は栄えていたが、その分だけ人も溢れていた。孤児(みなしご)もな。国が豊かでも貧しい奴は常にいる。俺の親はそんな中の一人だったんだろう」


 物心ついた時にすでに親はなく、玉帝の慈悲深さは彼の口に食事を運んではくれなかった、と白抜炙は言う。

 恨んでいるような調子ではなく、当たり前の事を語るように。


「都は玉帝の威光が強い分だけ、闇も深かった。仕方のない話だ。だが俺は飢えていて、飢えている俺には仕方がないで済む話でもなかった」


 自嘲するように、白抜炙は笑った。


「俺は、食う為に狩りをした。自分より弱そうな奴から僅かな食い物を奪った。後ろ盾もない孤児に、他に生きる方法は思い浮かばなくてな」


 そして、ある日彼は見つけたのだという。


「俺より少し年上に見える少女が手に麦包を持っていた。世慣れない様子で、ひどく無防備だったよ」

「それが?」

「御子だ。汚れているが丈夫そうな服を着て、頭にも被り布をしていた。人通りの多い道だったから慎重に狙ったよ。そして駆け抜けるように奪い取った」


 その時、驚いた顔の少女と一瞬目が合ったのだという。


「今まで見た事もないような異国の美人だ。危うく足を止めかけて……我に返った瞬間に、人ごみから出て来た黒衣の男が俺の襟首を掴んで吊り上げた。腰にこの国じゃ珍しい形の剣を下げていてな。男も、人とは思えない程に整った顔立ちをしていた」


 語る彼の顔に恐怖はなく、懐かしさが浮かんでいる。


「俺は死を覚悟した。彼女は貴族だろうと思ったし、平民が貴族に害を成して捕まれば命はないのが当然だった。だが剣を抜こうとする男を止めたのが、俺が麦包を奪った当の本人だ」


『りーる。いいの』


 舌足らずだが優し気な声音で、少女は言ったそうだ。


『てぃあが、あげたの。ね?』


 そう、微笑みかけられたのだと言う。


「俺は何を言われたのか分からなかったが、微笑みかけられた瞬間、何故か泣けてきた。二人はそのまま立ち去って、俺は盗みをやめた」

「何故?」

「よく分からん。だが、急に馬鹿馬鹿しくなったんだ。俺は何をしてるんだろうってな」

「悪事をやめても、食べる物が降って湧いてくる訳ではないのに?」

「だから、俺は食う為に必死で考えた。そして、拾った板に紋を刺して売る仕事を始めたんだ」


 朱翼は驚いた。


「どうやって?」


 何の知識もない子どもに始められる商売ではない。


「紋形は、火付け石を買う金もなかった頃に民家の煮炊きを盗み見て覚えたんだ。適当に紋を彫り、色の似た花をすり潰して色をつけた。作った符は上手く火を熾せた。それがこの、熾火おこしの符だ」


 本当に大事に想っているのだろう。白抜炙がその符を扱う手は優しかった。


「信じがたい話です……」


 思わずそう漏らした朱翼に、白抜炙は得意そうに笑ってみせた。


「色を付けるのに使った花が偶然、式粉の素になる日暮花(ひぐればな)だったと後で知った」


 紋を刺す、という技術が稀な物だというのを知ったのも、その頃だったという。


「俺が欲しかったものは、同じように貧しい奴も欲しいんじゃないかと思った。材料はタダだ。火付け石よりも少し安い値で売ったらそれが当たった。飛ぶように売れたよ」


 符とは、少し手先の器用な子どもが作った粗末なものでも価値のある道具だ。

 朱翼も須安に習っているが、起呪に感応する符が出来たのは習い始めて一年近く経ってからの事である。


 なのに、呪紋の知識もない頃の白抜炙は独学で作ったいう。

 こと刺紋に関しては、朱翼など足元にも及ばない程の才を白抜炙は有している、と師父が言っていたが、今の話が真実なら正にその通りだろう。


「当然裏の界隈に目を付けられた。利用されそうになったが俺ははね除け、無理そうなら逃げた。代わりに追われる苦労と恐怖で髪色が白く抜けた」


 彼の髪色は、生来のものではなかったのだ。


「だがそのお陰で名前を貰った」


 彼は髪に触れて皮肉に笑った。


 白抜炙髪シラヌイガミ


 名無しの符売りは誰ともなくそう呼ばれるようになり、やがてそれが彼の名になった。


「金が出来てまともな符板を買うようになって、技術的にも少しはマシになった頃に出会ったのが御頭だ。御頭は俺を面白がり、次の日から裏界隈の干渉がなくなった。御頭に聞いたのか、しばらくして師父が俺の符を見に来た。才がある、と師父は言ってくれた。その後に商用刺紋座から加入の誘いがあった」


 当然だろう。もし仮に今の朱翼がその頃の白抜炙に出会っていたら、何があっても彼に刺紋を学ばせるよう師父に掛け合ったに違いない。


「誰にも弟子入りしなかったから紋を刺して売る生活は変わらなかったが、座友のお陰で腕はかなり上がった」


 懐かしむように語っていた白抜炙が、少し苦し気に顔を歪める。


「そして、あの日が来た」


 世間を騒がす罪人が処刑される。

 そんな風に、都の噂は色めき立っていたらしい。


「帝都の大通りを罪人連行の列が練り歩いていた。通りがかりに目に入った罪人の姿を見て、俺は目を疑った。俺に麦包を恵んでくれたあの子だったからだ。いつかと違う粗末な包衣に、被り物もない。淡い朱色の髪に、頭の両脇から生える薄く細長い金色の翅。人外の異形だが、そんな恰好をしてなお彼女は美しかった」


 不意に、朱翼は思い出した。

 走馬灯のように走った、御子の記憶。

 華奢な彼女の腕と、そこに繋がれた縄。今にも倒れそうな足で歩く彼女を兵が手荒く引いて急かす度に、転げそうになりながら。


「思わず、いつか聞いた少女の名を口走っていた。彼女は酷く疲弊していたが、声が聞こえたのか、こちらを見て微笑んでくれた」


 白抜炙は、握り込んだ右手を見開いた目で凝視していた。


「俺は、思わず」

「彼女を引く兵に向かって、石を投げた」


 朱翼が言葉を継ぐと、白抜炙は弾かれたように顔を上げる。


「あれは、白抜炙だったのですね」


 与えられた苦難の記憶の中。ほんの小さな暖かみ。


「何故」

「私に与えられた御子の記憶の中に、貴方の姿があります」


 兵に石を投げた少年は群衆に一斉に見られ、青ざめた顔で立ち尽くしていた。

 今にも泣きそうになるのを堪えながら、視線はまっすぐに御子を見つめる。


「逃げて、と」


 御子は、もう囁くようにしか出ない声音でそう言っていた。

 彼女の為に動いてくれた少年に向かって。

 自身が苦難の渦中にあってなお、感謝を覚えながら彼の身を案じて。


「言われて、俺は逃げた」


 後悔した顔で白抜炙は顔を伏せる。


「そんなつもりはなかった。彼女を助けたいと思っていたのに」

「御子の力です」


 彼女が人々に恐れられ、忌まれた理由となった【魅了】の力だ。

 争う事なく、全ての生ある者をその足元に平伏させる事が出来る神の業。


「自分を救おうとしてくれた人を、彼女は見捨てられなかった。だから、最後の力で」

「見捨てれば良かったんだ」


 朱翼の言葉を遮り、吐き捨てるように白抜炙は言った。


「俺にも、彼女の記憶はある。尚の事だ。俺を従わせる力が残っていたのなら、将軍でも従わせて自分が生きようと足掻けば良かったんだ。彼女の力なら、それが出来た筈だ」

「でも彼女は、貴方を救った事を後悔していませんでした」

「俺は後悔している。何故あの時大通りを歩いたのか。何故声を掛けたのか。それをしなければ、彼女は生きる事が出来たかもしれない。最後の最後に残しておいた力を、彼女は俺の為に使わなければならなかった」

「私は御子に感謝しています。彼女が貴方を救ってくれなければ、私は、ここにいなかったのですから」


 言われて、白抜炙は思いもかけない事を言われたような顔をした。

 朱翼は不意に気付く。


 これが人を想う、という事の意味だと。


 御子の記憶と、白抜炙の吐露と。

 子患の襲撃を通して考えた事が、朱翼の中で形を得た。


「御子があなたを見殺しにしていたら、私は力を得る事も、こうして安寧に過ごす事もなかったのです」


 白抜炙は納得がいかないように、首を横に振る。


「だが、御子が死ななければあの戦乱はなかった。さっき俺が救えなかった者達も死ぬ事はなかったかもしれない。国が滅んでいなければ玉帝の威光の元、お前の言う安寧の中にいた筈だ」


 白抜炙と朱翼は、ぶつけ合うように言葉を交わしていた。


「家族を失う悲しみを、お前は知っているはずだ。俺も、【鷹の衆】に拾われて家族を得た。だが、あの戦乱で絆を深めた刺紋仲間は全員死んだんだ。家族を、同然の絆を持つ者を失う悲しみは、何より耐え難く、辛い」


 朱翼は、黙って白抜炙の言葉を聞く。


「だからお前に苛立った。お前は山師の父に拾われ、育てられたんじゃないのか。彼を失った事に、後悔も悲しみもないのか」

「今は、ありません」


 朱翼の断定に、今度は白抜炙が黙る。


 育ててくれた継父。

 かつて問われた時は理解していなかったが、朱翼は確かに彼に思慕を覚え、失った事に悲しみを感じていた。


 自分自身が理解出来ていなかっただけなのだ。


 何故なら、彼女は弟を守らなければいけなかった。

 非力な自分は、悲しみに暮れるには余りにも厳しい状況に身を置いていたのだと今なら理解出来る。


「そう。戦乱がなければ、私はまだ継父の元で過ごしていたでしょう。そして貴方と出会う事はなかったのです、白抜炙」


 朱翼は、薄く笑う。


「私は今が良いのです。貴方がいる今が。共に過ごせる今が。私を神よりの授かり物ではなく、私として、人として、扱ってくれる貴方達がいる今が良いのです」


 継父は、確かに朱翼と錆揮を大切にしてくれた。

 だが、家族というには彼はあまりにも山の神に対して敬虔過ぎたのだ。


 あくまでも授かり物。自分達を通して山の神を崇拝する彼と朱翼達の心には、埋める事の出来ない隔たりが、最初からあったのだ。

 最初から自然過ぎて、それが寂しい、という感情だと気付けない程、彼女の心に巣食うその気持ちは身近なものだった。


 そんな感情が心から失せたのは、いつからだったろう。


「朱翼」

「村の人々は、確かに家族を失い辛い思いをしているかもしれません。ですが、今彼らが悲しむ事が出来るのは救われたからです。生き残れたからこそ、悲しむ事が出来るんです」


 朱翼は白抜炙の顔を見つめた。

 村人達に重ねて、自分の気持ちを伝える。


「私もそうです。御子の最後の善行に、私は確かに救われたのです」


 白抜炙と朱翼は、黙って見つめ合う。


「来い、朱翼」

「はい」


 大人しく傍に寄った朱翼の頭を、白抜炙が優しく撫でる。

 煙草の芳香が薫る胸元に頭を寄せると、そのまま抱きしめられた。


「契り、か」

「はい?」


 耳元で囁くように告げられた言葉に、姿勢を変えないまま疑問を返す。

 自分の心臓の音でよく聞こえなかった。


 吐息が耳に当たり、抱きしめられた今の顔を見られたくない、という気持ちでいっぱいだったせいもある。

 顔が熱い程に火照っている。きっと、真っ赤だ。


「いや、それも悪くないのかもしれんと、思ってな」


 何が悪くないのだろう?

 芽生えた疑問は、再び頭を撫で始めた白抜炙の手の感触に霧散する。


 やがて緊張よりも安らぎが勝る。

 自分の心に向き合うという慣れない行為に疲れていたのか、襲って来た眠気に朱翼はとろとろと微睡んだ。


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