終章:私を、抱きしめてくれますか?
―――やったな。
アレクの屋敷の中。
白抜炙は、ティアに新たに与えられた『目』で街の中にある行気が塗り替えられていくのをまざまざと見せつけられた。
澱んでいた街の気配が艶めくような色合いを帯びて生き生きと蘇ったところで、小さく息を吐く。
―――やっと、会える。
白抜炙は椅子に腰掛けたまま左の拳を右手で握りしめ、逸る気持ちを強く押さえつけた。
【大禍】の後。
たった一度だけ、話をしたあの時の約束を。
まだ、力は足りない。
だがアレクの企みに乗るのなら、まだ数年、時間がある。
ならばその間に、と。
しばらく経ってから部屋の扉を叩く音とともに、アレクが入ってくる。
「全て上手く行ったよ。ついて来るかい?
「当然だろう」
立ち上がり、屋敷を出るところにリィルとティアがいた。
「……行って参ります」
「ああ」
「よかったねー、しろ」
「はい」
二人に小さく会釈をしてから、アレクの用意した馬車に乗り込んだ。
揺られて着いた先は、ミショナの街の中心近く。
先ほど、行気が広がってきた方向だ。
そこに朱翼がいるのだろう。
胸の鼓動が跳ね上がるのに、思わず白抜炙は胸を押さえる。
「どうしたんだい?」
横で足を組み、肘をついて窓の外を眺めていたアレクが笑み交じりに問いかけてくる。
仲の良い相手ではないが、緊張をほぐすためにその言葉に答えた。
「……いや。自分がこれほど揺らぐとは思わなくてな」
「なるほど?」
特にどう感じているのか見せないまま、アレクは再び外に目を向ける。
馬車が止まり、先に蒼将が降りた。
白抜炙は降りる前に少し、馬車の『外』に意識を向ける。
幾つかの輝きが、そこに見えた。
風の色が強い気配、土の色が強い気配、常に体内で練気されて美しく巡る気配。
少し小さな、しかし濃密な陰に寄った五行気の気配。
それぞれが誰なのかが、分かる。
懐かしい仲間たちの。
かつて寝食を共にし、笑い、軽口を叩き合った仲間たちの気配だ。
その中央に。
―――輝くような陽の火気を秘めた、美しい気配が、あった。
朱翼。
それを見た時、最初に湧き上がったのは感謝だった。
絆を深めた仲間たちが……朱翼と共に在り、彼女を助けてくれたこと。
何より、生き残ってくれていたことに。
その次に押し寄せてきた感情は、もう、自分でもどういう気持ちなのかが、分からなかった。
朱翼の気配に、魅入りながら馬車を降り。
杖を突きながら歩いていくと、彼女が動いた。
烏に、押し出されたような不自然な動きの後に、ためらうような足取りで近づいてくる。
「約束通り、連れてきたよ」
アレクが一言短く告げ、横に避ける。
ゆっくりと、手で触れられる距離まで近づくと……先に口を開いたのは朱翼だった。
「……白抜炙?」
密やかに聞こえた肉声に。
白抜炙は、自然に微笑みを浮かべていた。
※※※
「朱翼」
その声を聞いた瞬間。
涙が浮かんだ。
白抜炙は、痩せていた。
褐色の肌や肩幅、背丈は同じはずなのに粗野な印象が薄れている。
自在に振るわれていたはずの杖も、武の為でなく歩く体を支えるために使われている。
変わっていないのは、その名前の由来である白い髪と、顔立ち。
間近に見上げる痩けた頬に、朱翼はそっと指先で触れた。
固く閉じた瞳を閉じた顔は、記憶の中にある寝顔と同じだった。
「目が……見えないのですか……?」
頬に触れたその指先に、白抜炙がそっと掌を重ねてくれる。
「見えなくなった」
掠れた声音は、耳に馴染んだもの。
だけど、少し優しい気がするのは、気のせいだろうか。
「だが今は」
するりと指先から手を離して逆に朱翼の頬に手を伸ばすと、白抜炙は微笑む。
「より良く見える目を、得た」
もともと分厚くざらりとした硬い感触を持つ手は、染み付いた式粉と指先のタコが増えていた。
刺紋の鍛錬を、していたのだろう。
どれだけそれを真剣にやっていたのか、手を見れば分かるほどに。
「約束しただろう? ―――錆揮を救うと」
「……はい」
お互いに、あまり言葉は出ない。
でも、これだけは言わないと。
他の皆もこの再会を喜んでいるはずなのに、朱翼に譲ってくれたのだから。
「もう一つの約束も……守ってくれますか?」
涙をこらえて、微笑みを返しながら告げると。
白抜炙は無言のまま杖から手を離し。
ーーー力強く、朱翼を抱きしめてくれた。
その温もりが、痩せた体が、何よりも愛しくて。
朱翼は最後になんとか一言だけ呟いて、その胸元に顔を埋めた。
「お帰りなさいーーー白抜炙」
※※※
かつて〝藍龍騎〟の命により編纂された倭正書記には、こう記されていたという。
不楽十三年、虎の月
倭繋国邪龍鎮魂の巫女、封地にて太極の紋士と再会す。
記されし事象、あまりにも荒唐無稽故に偽書として焚書に処され。
現在、その記述は写本としての断片すら残されていない。
三年半、お付き合いいただいた方、いらっしゃれば誠にありがとうございました。




