第24節:災厄の去り際
空気が、静かに張り詰めていた。
ノミで木を穿つ音だけが稀に響いては、余韻を残して消えていく。
ルフはまばたきすら出来ないまま白抜炙の刻紋する様子を見つめていた。
―――信じられない。
彼の才能は、初めにその腕前を見た時から分かっていた。
だが、ここまでとは。
師に対して火熾の符を預ける選択をした後から……近くにいる仲間の存在を知った時から。
白抜炙は鬼気迫るほどの集中力を見せ始めたのだ。
決して焦っている、というわけではない。
ーーー言うなれば、入魂。
まるで命を削り、紋を刻むことだけに注ぐかのような。
彼を駆り立てるだけの絆が、そこには存在するのだろう。
頭に手ぬぐいを巻き瞼を閉じた青年は、あぐらをかいて袖を抜いて上半身を晒していた。
褐色肌の頬をつぅ、と流れた汗が顎先を伝って落ちる音すらも、遠く感じるほどに。
寒気と戦慄を伴う、圧を発していた白抜炙は、カ、と最後の一打ちを終えて顔を上げた。
「出来ました。見ていただけますか?」
フゥ、と大きく息を吐いた白抜炙の体からは、内に籠った熱のせいで薄い湯気が上がっている。
「……」
「どうされました?」
青ざめたまま動けないルフに、白抜炙は首を傾げてみせる。
―――どうした、ですって?
ルフは、じわりとこみ上げた怒りと嫉妬を抑えながら、低く唸る。
「……見る必要は、ないわね」
「どういう意味です?」
彼は、自分の為していることが自覚できていないのだろう。
汗を拭い、袖に腕を通す白抜炙に唇を噛んでから、ルフは事実を認めた。
「……あなたはもう、私の領分を越えたからよ」
彼の刻んでいた紋に改めて目を向ける。
五行紋の組み合わせによって、二つの行効果を合わせる技術。
一つの行で複雑かつ強力な紋を刻む者も希少だが、合わせ紋を刻む力はもはや才の領分なのだ。
それを。
この短時間で。
これほどの。
「―――予想以上、だねぇ」
「!」
横にぬるりと現れた気配にルフが目を向ける。
そこにホツマが立っていた。
彼女は白抜炙の刻紋に目を向けて笑みを浮かべている。
「アンタに朗報だよ、白」
「何でしょう」
ホツマに対して問い返した白抜炙は、続く言葉を聞いて口元を引き締めた。
「雛が帰ったよ」
「……朱翼は上手くやりましたか?」
「どうだろうねぇ」
からかうように笑みを深めてはぐらかしたホツマは、乗らない相手に興ざめしたのか軽く肩を竦めた。
「面白くないねぇ。肩に力が入り過ぎだ。……会いたいかい?」
「……」
問うまでもない、そして答えるまでもない話だった。
「最後の試しさね。―――陽木陰水の結界。これを打つために四方符を作りな」
「四方符……」
「土地を蝕む風溺病を癒すことは、総意さね。使えるようになったなら、力を貸すに否はにだろう?」
ホツマの退廃的な美貌に浮かぶ笑みに、白抜炙は一つうなずいた。
「分かりました」
「それの出来が良けりゃ、アタイの役目も終わりだねぇ」
短い時間だったねぇ、と小さく言った師は、ルフの内心などお見通しなのだろう。
また消える直前に、耳元で小さく囁かれた。
「才と鬼気ってのは恐ろしいねぇ……惑わず精進しなよ」
※※※
アレクは相棒である翼竜、藍樹に乗って山の頂上近くに着いた。
突き出した崖上に座禅を組んでいる一人の老人を見て降下すると、藍樹を滞空させたまま彼に声をかける。
「須安翁」
「……準備は整っている」
「流石だね」
須安が街の方を指さすのに目を向けると。
―――そこに、街を囲う巨大な星配結界が描かれていた。
青空のもと、意味がわからずとも美しさすら感じるそれを見回して、アレクは呆れすら覚えた。
「雛の周りには、化け物しかいないな……」
ホツマ、白抜炙、須安、那牟命そして朱翼自身。
話を聞けば聞くだけ、アレクは得体の知れない何かが裏で蠢いている気配を感じるのだ。
「全ては救世のために」
決して弟子たちの前に顔を見せぬままに、何を考えているのか分からない老師は別れたアレクは、そのままミショナの街へ戻った。
少しして屋敷の庭に降り立つと、その場に二人の人物が現れる。
ティアを腕に抱いたリィルの姿を見て、アレクは飛び降りてから声をかけた。
「疫病は治まると思う?」
「……彼女なら、可能だろう」
ボソリと呟いたリィルに、アレクは常からの疑問を投げかけた。
「君はなぜ玉帝が神子を弑したのか、その理由を知っているのかい?」
―――その問いかけに、ドス黒い殺気がこちらに向かって吹き付けてきた。
藍樹が身構えるほどに強烈なそれを受けて、アレクは目を細める。
―――やはり。
かつて、世界を揺るがした神子の処刑。
和繋国を建国した那牟命を排除する使命を与えられた自分の周りに現れる、恐らくは前帝国に関わりがあると思われる魑魅魍魎。
中でも飛び抜けて奇妙なのが、この二人組だった。
須安とホツマ……この二人は底知れぬものの行動の指針がはっきりとしていた。
しかし、この二人は。
「りーる」
腕の中のティアは、いまだに本調子ではないのだろう。
青ざめた顔のまま彼女が呼びかけると、殺気が消え失せる。
『それに触れるのは、命を縮めるよ、アレク』
リィルの肩の上でくつろいでいるヴァルがあくび交じりに言い、アレクは苦笑した。
「深掘りする気はないさ」
その態度だけで、証拠としては十分である。
彼は知っている。
そして、動機はおそらく報復の意味が含まれているのだろう。
―――ティアは、殺されたはずの神子だ。
カンに近いが、アレクはそれをほとんど確信していた。
リィル・カースティン。
その名を持つ騎士の話を、よく知っていたからだ。
かつて皇国に所属しており、大公爵だった父親を殺害して失踪した暗黒騎士。
その後、追っ手となった皇国軍を、黒龍を従えた竜騎士として尽く壊滅させて行方知れずになった男。
―――まさか、神子の従者になっているとは思わなかったが。
生きていることも驚きだが、その後数十年経っても神子と共に年を取っていない理由も不明。
謎だらけではあるが、把握できていれば問題はない。
アレクが那牟命を殺害するのを、邪魔さえしなければ。
報復が目的なのであれば、むしろ戦力になる可能性さえあった。
「さて、今日の午後だね。……あの子は、君たちの期待通りに上手くやるかな」
アレクが風に目を細めながら呟いた言葉に、応える者はなかった。
※※※
―――師の御技。
敷かれた陣の前に立った朱翼は、結界の全容を探りながらそれに気づいた。
歌樹の枯葉を陣の上に撒く作業は仲間たちが担ってくれている。
枯葉の量が自分たちが運べる程度でいい、という理由が、陣を見て分かった。
五行気の増幅を行う結界の凄まじさは、鈴虫の羽根の微かな一鳴りすら捉えて街中に響かせそうなほどだったのだ。
さらに歌樹の実を四方に配置したのだが、その前にすでに符が置かれていた。
白抜炙のもの、だ。
「……」
もうすぐ、会える。
これを自分が成功させさえすれば。
「姉さん」
近くにいた錆揮が、目を閉じた朱翼に心配そうに声をかけてきた。
「……大丈夫です」
緊張は、していないと言えば嘘になる。
もし失敗したら、とここに来る前は考えていた。
だが、この状況はむしろ。
「全く、失敗のしようがありませんから」
この胸に渦巻く感情の全てが、自分を揺らがせてなお、失敗する気はしなかった。
《鷹の衆》として過ごした日々を、その後の激動を、全て内包した自分の胸の内に在る、憎しみや愛しさ。
それらとは別の冷たい自分が、あるいは別の想いを抱く自分が。
須安の結界と、白抜炙の符。
この二つが揃って自分を補助してくれることに、全幅の信頼を寄せている。
やがて全ての準備が終わり、風溺病を鎮めるための儀式が始まった。
アレクを含むこの街の有力者と仲間たちが見守る前で、朱翼は指先で式粉を掬い、自分の腕に紋を描く。
「陽青に星を呑む」
呪を口にしながら右腕の手首の中央から肘に向かってまっすぐ黒い線を引くと、引かれた線が薄い黒光を発した。
最初の直線に交わる様にさらに数条の線を描くと、それらも同様に黒光を放つ。
「辰星より木を生ず」
ごく基本の紋跡。
しかし結界に繋がるためにはそれで十分だ。
続いて、逆の腕に水の紋。
「陰黒に星を呑む。太白より水を生ず」
言霊と同時に、黒と白の紋を描いた腕を、それぞれ東と西の方角に向けた。
「―――顕現」
腕に描いた光と線が青と黒に色を変え、朱翼の掌に木気と水気が生じた。
それを足元に描かれた結界紋に足先から流し込み、全容を把握しながら呪を口にする。
「木気膨して陽配に座し、水気膨して陰配に座すを望む」
両腕を正面に戻して掌を重ねた朱翼は、行気が街全体に行き渡るのと同時に循環させ始めた。
龍脈より流れ込む強大な力が朱翼の肉体を通る際に溢れ出て、外套と髪をはためかせた。
風が生じ、自身を中心に周りに広がり始めると、それに対して抵抗を感じた。
フプタトゥフ、と呼ばれた悪魔……風溺病を誘発する乾きが、湿りと生命の気配に対して抵抗を見せているかのように。
―――去りなさい。
心の中でつぶやきながら、朱翼は最後の言葉を口にした。
「星配、我に従い正と成せーーー《星配、変容》」
その瞬間。
ボッ、と周りにある建物すら吹き飛ばすほどの暴風がほんのわずかの間、生じた。
渦を巻きながらミショナの街に広がっていき、結界の中にある五行気を塗り替えながら陣の中を暴れ回り……唐突に収まる。
「……終わりました」
朱翼がアレクの顔を見ると、あの暴風の中、腕を組んだまま微動だにしなかった金髪の青年は、軽く頭を掻いた。
「凄いね。やっぱり、呪紋っていうのは僕の理解を超えるよ」
「貴方が言うと嫌味にしか聞こえませんが」
自身も強大な力を有する将軍が肩をすくめるのに、朱翼ははっきりと告げた。
「約束は果たしました。……白抜炙に、会わせて下さい」
完結分は0時更新です。




