第23節:帰路にて
道羅は、倒れた許嫁に歩み寄ってえぐれた地面に膝をついた。
優しくその頭を抱え上げ、小さく名を呼ぶ。
「謝治……」
しかしその呼びかけに、ぐったりと青白い顔をしている彼女は目を開かない。
呼吸はしているようで、胸もとが規則正しく上下していた。
「生きている……」
道羅は安堵したように息を吐いたが、その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいた。
そのまま不意に顔を伏せ、彼女の頬に擦り寄る。
髪が垂れて表情は見えなくなったが、震える声が朱翼の耳にかすかに届いた。
「この……大馬鹿者が……」
清浄な空気に満ちた洞穴の中で、その光景は美しいものと、朱翼の目には映った。
周りの仲間たちも、安堵の表情を見せて目を見かわしている。
「姉さん?」
そこで、こちらに近づいてきた錆揮が驚いたような声を上げた。
朱翼は、首をかしげながら彼の方へと目を向ける。
「どうしました、錆揮?」
弟は、わずかにためらうような様子を見せた後に、おずおずと問いかけてきた。
「……何で、泣いてるの?」
「え?」
問われて、朱翼は驚いた。
自分の頬に手を当てて、さらに混乱に見舞われる。
彼の言う通り、涙の気配が手に触れたのだ。
しかも、自分の頬が緩んでいるのが分かる。
ーーー朱翼は、笑いながら泣いていた。
「確かに珍しいねぇ」
無陀が言いながら、ニヤニヤと笑みを浮かべて茶化してくる。
彼はぐったりしている肩の上の一葉を軽く手で支えていた。
「お前さんもご苦労さんだったねぇ、一葉」
「キュイ……」
小竜が小さく鳴いたところで、巨大な円柱がまた黄色く明滅し始める。
ふたたび姿を見せた朧な者たちが賞賛を口にした。
『見事なり』『見事なり』『素晴らしき炎の子』『まこと、見事なり……』
そうしてふたたび、ゆらり、と最後の影が円柱のうちに浮かび上がり、優しげな声音で語りかけてきた。
『炎の子。陽の極みを体得せし汝に、心より祝福を』
「祝福だと……?」
謝治を抱いた道羅が不穏な声を上げると、女性の影は軽く手を上げるような仕草を見せた。
『血族なれば、解せよ。炎の子の再来は、我らが悲願。其を導くは、我らが使命なり』
そうして、ぽう、と陽土の輝きが二人の須弥の民を包み込んだ。
「……癒しの呪紋」
『是』
朱翼の呟きに女性の影が応える。
はるか過去に紋の描き方すら失われたはずの古紋は、みるみる内に二人の傷を癒し、その身に活力をみなぎらせた。
「……まさか」
自身の雷に焼かれた怪我が跡形もなくなったことに驚きを隠せないのか、道羅が呆然と口を開けた。
『炎の子よ。汝に、道を示さん』
「貴女は、謝治を修羅としたことを、試し、と言いましたね」
朱翼は道羅から目を離すと、円柱を見上げた。
「それは、何の為に」
『必要であればこそ。……御子よ。堕ちたる神の都へ』
そう言って、影は南方へと指を向けた。
『九頭龍王が御子を弑した由すらも、その地にて。望む答えを求めるならば』
「堕ちたる神の都……?」
『我らはふたたび、眠りへ。いづれ、最後の役目の時まで……』
朱翼が微かに眉根を寄せるのに応えず、円柱の影は薄れていく。
『炎の子。ゆめゆめ忘れぬよう。……全ては汝に託されし想いゆえに、そこに在ることを』
そうして古の民は姿を消し、朱翼たちは地上へと戻った。
※※※
朝露が姿を消す頃合い。
当初の目的である歌樹の葉を得、瘴揮に懐いた艶牙という旅づれを増やして朱翼たちは須弥の里に戻った。
まだ涼しい風の中、草地を踏んだ朱翼らを待っていたのか、長が家の入り口に立っている。
「無事の戻りに、心より祝福を」
「はい。……何も知らされず、危うく死にかけましたが」
朱翼が応えると、長は無表情のまま道羅に目を向けた。
「意味を問う」
「謝治の愚行と、そう育てた長らの責ぞ。そして謝治の命を救いし恩人もまた、炎の子らよ」
道羅の不敵な笑みに何を思ったのか、長は謝治に意識を傾ける。
彼女は、うつむいて肩を縮こめた。
「……何が起こった」
道羅が内容を語ると、長は低く唸る。
「朱翼は、紛れもなく炎の子であると俺が証明しよう」
道羅の言葉に、長はこちらに目を向けた。
彼の瞳を朱翼は黙って見返す。
その瞳はあくまでも静かな色をたたえており、やがて深く息を吐いた。
そのまま、長は膝を折って首を垂れる。
「数々のご無礼、伏して許しを請う」
「……?」
「ただ頭を下げるだけで済ませるには、少しばかり物騒だったねぇ」
朱翼が驚いて目を見開くと、無陀が代わりに口を開いた。
長は顔を上げると道羅に目を配る。
「貴殿が真に炎の子たれば、守るは我らのお役目。禊ぐに、我らの内にて最も精強なる者を侍従に」
「お爺様……!?」
「必要であれば、孫娘の命も諸共に」
長の言葉に、朱翼は微かに眉根を寄せる。
助けた命を、容易く奪えという。
道羅と違い、彼の落ち着きは知性と豪胆によるものではないのだと悟ってしまった。
長が持つのは、狂信だ。
道羅の述べたとおり、信仰に凝り固まり……己の頭で考える事を放棄しているのだ。
朱翼は僅かに思考した。
「それは、彼女の処遇を私の一存に委ねる、という意味でよろしいですか?」
「是。試練越えし炎の子たれば、我らにとって炎の主と同義ゆえ」
「では、許します」
朱翼の即答に、長は訝しげな顔をした。
「神への大逆を、お許しになると?」
「私は、人です。ただ、自らの目的のために懸命であるだけの」
長には、分からないだろう。
それでも朱翼は伝えなければならない。
「神は共に在るもの、と、そう貴方がたの教えには在る。それを真に解しているのは道羅のみです」
「侍従として、目に叶う者でありましたか」
「ええ」
朱翼は長から目を外し、道羅を見る。
「道羅」
「なんだ」
「問います。共に来ますか? ……決めるのは、貴方自身です」
その言葉に長が衝撃を受けたように目を見開き、道羅がニヤリと笑う。
「仲間にするか否かは、貴様が決めるのではないのか?」
「仲間と思えばこそ、問うています」
道羅はほんの数日、一緒にいただけの相手だ。
しかし彼の心根は真っ直ぐで、好ましいものだった。
「颯にも言いましたが。私が求めているのは臣下ではないのです」
朱翼は、道羅に向ける表情を和らげる。
「仲間の意思は尊重するもの。違いますか?」
「否」
よく晴れた空を見上げて、満足そうに目を閉じた道羅は、答えを口にした。
「ーーー俺は、里に残る」
「なんと……!?」
長は、せわしなく朱翼と道羅の顔を見比べる。
何が起こっているのか本当に分からないのだろう。
謝治もその答えに顔を跳ね上げて、ジッと精悍な青年の顔を見つめていた。
「分かりました」
「いずれ、本当に俺の力を欲する時があれば、改めて呼んでくれ。まだ己を鍛えねばならぬことも理解したし……その間に、謝治に子をくれてやらねばならぬ」
「子……?」
呆けた顔をしている謝治に、目を落とした道羅は鼻を鳴らした。
「母とは、強き者だ。村の女どもを見ても、また炎の主が朱翼を遣わしたことを聞いてもな」
許嫁の顔を見下ろして、腕組みをした次期長である青年は言葉を重ねる。
「貴様は、もう少し強き心を持て」
「……御意」
失態を犯したことから、謝治は道羅から見捨てられるかもしれない、と思っていたのだろう。
再び顔を伏せて小さく呟いた彼女は、それでも嬉しげに頬を緩めていた。
それまでの、頑なだった彼女のままでは見捨てられていただろう……しかし少なくとも、自分の間違いを認めることが出来るようにはなったのだ。
そんな二人の空気に、唐突に弥終が水を差した。
「花は愛でろ、花は」
「ッ……いきなり何をしおるか!」
ゴン、と短く持った槌頭で後頭部を叩かれた道羅が拳を突き上げたが、ひょい、と避けられた。
「仲が良いねぇ」
「どうでも良いけど、長が状況理解出来てないみたいよ」
無陀がニヤニヤと顎の無精髭を撫で、烏が小さく肩をすくめる。
その横で。
錆揮が謝治の顔を見上げていた。
※※※
神は共に在る、と。
颯や道羅と姉の関係を見て、錆揮はその言葉の正しい形とはこういうものなのだろう、と考えていた。
―――だが、自分はどうなのだろう?
姉は、炎の主の子であるという。
では、その弟である自分は。
朱色の髪も持たず、言うなれば外れ者。
だが、世を見回せば。
自分と同じ姿をした者のほうが遥かに多い……姉と同じ者など一人もいないのだ。
この女性も、と。
隣にいる謝治のほうこそ、本来はこの里の中では多数派であるはずなのだ。
正しい在り方をしていると感じる者の方が、数が少なく。
自分や彼女のように過つ者の数が多いのであれば。
―――正しさって、何だ?
錆揮には、その疑問の答えが出なかった。
「ショーキ」
すると、不意に足元に寝そべっていた艶牙が話しかけてきた。
「なに?」
「ニオイがクラい」
どんどん、こちらの思考が陰に籠っているのを察したのだろう。
獣の感覚は鋭いのだ。
「……よく分かんないから」
姉と二人で白拔炙に拾われた時は、力が強ければどうにかなると思っていた。
でも実際に力を得ても、その大きさに振り回されて。
そうなってなお、権力という名の力と、大衆という姿の見えない数多くの力には、結局敵わないのだ。
「オレは、誰を目指すべきなんだろう」
姉らのようになりたい、と思う。
だが、なれるのだろうか。
しかしその問いかけに、艶牙はことも無げに答えを返した。
「ヒトはヒト。オイラはオイラ。ショーキはショーキだろ」
「……どういう意味?」
「ジブンは、ダレかにはなれない。ジブンをカサねる。チチウエはそういった」
何が言いたいのかも分からない……しかし迷いのない艶牙の言葉は、ポタリと胸に一滴落ちた。
「……自分を重ねる」
納得した、あるいは、共感した、などの話ではないが、頭に残った。
そして小さく、黒いものも残る。
答えが胸にある様子の艶牙自身もまた、姉らと同じような存在である、という事実が。
無陀や、烏や、弥終は。
特別ではないように見えて、亡んだ大国で羅刹と呼ばれた頭領の側近だった三人なのだ。
自分だけが、何もない。
そして他に何もない者が、仲間内にはいないのだ。
この里を訪れて、謝治や自分の状況を見て一つ分かったことは。
―――平凡な存在であれば、間違うことが許される、ということだけだった。
話を終えた朱翼たちに付き従いながら、最初に道羅たちと出会った場所まで送られ。
「では、またいずれ」
笑みを浮かべた彼に送られて、街への帰路に着いた。
次は21時更新です。後2話で完結です。