第21節:陽の極み
朱翼が目を開くと、場の陰気はほとんど失せていた。
ほとんど、というのは、まだアースラの姿が謝治に戻っていなかったからだ。
ふた周りほど小さくはなっているものの、未だに彼女の魂は亡者に拘束されている。
「何故……」
朱翼は疑問を覚えた。
陰陽結界は、反転の理。
世界の根底を成すそれを、場に顕現する結界だ。
白抜炙の符を使い、完全な形で発現した理がなぜ影響しないのか。
朱翼の漏らした声に、振り向いた黒衣の男が答えた。
「……憑いている者たちが、陽転に抗っている」
アースラをよく見ると、彼女の体から土の陰気が立ち上っていた。
外気に触れたそばから陽転しているが、体そのものに影響が及んでいない。
アースラの大きさが、今も少しずつ縮み続けているということは……亡者が、己の蓄えた土の気を使って、どうにかアースラの肉体を保っているのだ。
「このまま待てば……」
しかし、その目論見は甘かった。
アースラが、不意に大きく宙に飛び上がったのだ。
グゥルォオオオオオオオ!! と猛るアースラから最大規模の暴風が生じて、見る間にアースラの体を包み込む竜巻と化して荒れ狂い始める。
「……!」
いきなり生じた風に体ごと吹き飛ばされそうになるのを、朱翼は顔を腕で庇いながらこらえた。
「おぉ!?」
宙にいた無陀が、気を乱すほどの呪紋の威力に自身の紋の影響を消されて落下する。
周囲に散った仲間たちも、朱翼よりも近くで受けたあまりの暴風に身を守るのが精一杯で、動けなくなっていた。
いつ、暴風が全てを引き裂く刃と化すかもしれない状況だった。
そうなれば、仲間たちが怪我をし、それが死を招くかもしれない。
どうにかしなければ、と思う朱翼の耳に、さらに、か細く高い音が聞こえた。
吹き荒れる暴風に混じる声は、謝治の魂が上げる悲鳴。
分を超えた自身の呪紋の威力に、ついに引き裂かれそうになっているのだ。
「時間が……」
ーーーこのままでは、謝治を救えない。
暴風で亡者が力を使い果たすのを待っていては、彼女の魂は失われる。
焦りを覚える朱翼に、いつの間にか側に来ていた黒衣の男が言った。
「……諦めるのか?」
彼の表情は、ひどく冷たいものだった。
興味があるのかないのかも分からない顔のまま、チラリと徐々に大きさを増して洞穴内の全てを呑み込まんとする竜巻に目を向ける。
陰陽結界でも、散じ切れなかった陰気。
それに抗する手段を、朱翼は持っていない。
「救えぬままに、ここで果てるか」
「それは、出来ません」
黒衣の男の言葉に、朱翼は必死で考える。
諦めはしない。
自分に何か、まだ出来る事はないのか。
今から一体、どんな手が残されているのか。
このまま待ち、ただ勝つ事に意味はない。
謝治を救うために、自分には何が出来るのか、と。
そんな朱翼の脳裏に浮かんだのは、白抜炙の姿だった。
かつて大禍の中で、錆揮を救うために大陽紋を血で描いた、白抜炙の、真剣な横顔。
「陽の……」
陽気が極まれば、気配そのものに浄化の力が宿る。
陰の極みが、大禍と化すように。
ーーー私に浄化の法を使えないのなら、浄化が出来る存在を喚べば?
朱翼が思いついたのは、招来呪だった。
幻鐘から、やり方そのものは習っている。
元より在る者を式とする方策は、契約を結ぶほどの陰魔に出会っていないから行使はしなかったが……五行気から霊を作り出す使役の法は上手く使えた。
場の陽気を固めて式を成し、アースラの本体に打ち込めば、亡者の陰気から勢いを削ぎ、結界の効果を届かせることが出来るかもしれない。
「……あの暴風を、散らす事は出来ますか?」
そばにいる黒衣の男に尋ねると、彼は槍を持ち上げた。
「アースラごと殺して良ければな」
「では、吹き散らさずとも、近くに道を穿つ事は」
朱翼の問いかけに、黒衣の男は小さくうなずいた。
可能だという事だろう。
朱翼は両手を下ろして、砂が入らないよう目を細める。
初めて試す事を、連続で行う。
うまくいかない可能性の方が高かった。
だが、やらなければ謝治が死ぬ。
それは彼女を想う道羅に、朱翼自身が白抜炙と【鷹の衆】や村の人々を失った時と同じ気持ちを与える事と同義だった。
ーーー目の前で、二度と、あんな想いは。
朱翼は指先で、腰に下げた布から式粉を舐める。
この一度で、成功させなければならない。
陽気そのものは、場に溢れるほどに満ちている。
符による陰陽結界が、必要な陽の場を作り出しているのだから。
朱翼は、まず招来紋を描いた。
「陰陽五行に星を呑む……」
その将来紋の上に、場の陽気を集めて練り上げる紋を、自身の望みを形とする大陽を重ねるように描いていく。
脳裏にある、御頭の、そして白抜炙が描いた錆揮の血紋から、見取ったその理を写し鏡に。
繊細で、狂いの一つも許さないであろう、その紋を。
「陽の極みに座する火を、顕し招きて霊と成す」
描い切った紋を描いた左腕を、南へと振り払った。
僅かな沈黙の後に、手の中に陽気を凝縮し始める。
成功……朱翼は手応えを覚えた。
基礎と成したのは、火行招来呪だ。
木火土の内、最も陽気としての性質を強く秘める、己が最も操る事を得意とする呪紋。
「っ……」
だが、これで終わりではない。
朱翼は気配に目を凝らし、体内に巡らせ、己の力の限りに手に向かって送り続ける。
そして、凝じて、凝じて、凝じた陽気が弾け飛ぶ寸前まで圧された時。
朱翼の脳裏に、光り輝く鳥が……それが天より降り来たる幻影が、浮かんだ。
「!?ーーー至高より降り来たりませ!」
それが何なのか、朱翼には分からなかったが……口をついて出たのは、まるでその鳥から与えられたような知らない呪紋。
陽気が形となる。
朱翼の腕を巻き込むように、光の欠片が渦を巻き始めた。
まるで彼女の意思とは無関係に、紋そのものがさらに陽気を求めて、朱翼ごと吸い尽くすように腕に向かって集まっていく。
「ぐ……ぅ……!」
朱翼は、必死で暴走しかけている紋を制御しながら、結びの呪を口にした。
「我、形取るは、無二なる名ーーー汝、陽鳥なり……!」
結びと共に。
光が、形となって朱翼の前に顕現した。




