第10節:山師の助言
いつの間に彼女が背後に居たのか、朱翼は全く気がつかなかった。
旅装に身を包んでいるその女性の、頭から被った外套から覗く髪は青色。
碧い瞳が二人の挙動に動じた様子もなくこちらを見据えている。
「誰だ、お前は」
「山師です。里に寄れば商いもしますが。扱うのは、主に薬草」
警戒する朱翼らに、女性は薄く笑った。
「子患は私にとっても厄介な相手ですので、これ以上被害が広がる前にお話に加わらせていただこうかと。魔毒に効く薬は貴重なので」
「薬があるのか?」
白抜炙の言葉に、女性はにっこりと頷く。
「今、屋根に居る人々の命を保証する程度には。これ以上被害が広がれば、少々難しくなりますが」
「何故今まで黙ってた?」
白抜炙が、不意に全身から怒気を放った。
表情こそ変わらないが本気で怒っているのが分かり、朱翼の肌が軽く泡立つ。
しかし女性に動じた様子はなく、彼女は淡々と言葉を続けた。
「どう状況が動くか分からないまま、手の内を晒す訳にもいかなかったので。私の事を信用しろとは言いませんが、時間がないのでしょう? 薬草は提供しましょう。ただしそれは子患を始末した報酬として、です」
朱翼はそれ以上白抜炙が何かを口にする前に一歩前に出て、右手を横に上げて両者の間を遮った。
「話を聞かせて下さい」
「朱翼」
白抜炙の低い声に、朱翼は軽く彼に目を向けた。
「これ以上時間を無駄にするのはお互いの為になりません。違いますか?」
白抜炙は口を閉ざす。
朱翼の意見を受け入れたのだ。
彼は決して平静を失ってはいない。それを知って朱翼は内心安堵した。
目を女性に戻して、朱翼は問いかける。
「性質を逆手に取る、というのは、どういう意味でしょう?」
「雨が来ています」
言われて、朱翼は空気に湿り気が混じり始めている事に気付いた。
遠くに薄雲が見える。
血と子患の泥のような臭いに誤摩化されて朱翼が意識していなかったその気配を、彼女は正確に感じ取っていたらしい。
「この時期の雨は、陽のもの」
続く彼女の言葉に朱翼は相手が言いたい事を悟った。
「雨を利用すれば、水に関して相生結界と同様の効果が得られる、と言う事ですね? そして陰魔は、総じて陽術に弱い」
「同じ水の呪紋でも、それが陽の性質であれば効くかと思いまして」
朱翼はうなずいた。
「感謝します」
「お役に立てたのなら幸いです」
「そこまで気付いていながら、何故自分でやらない?」
白抜炙の鋭い問い掛けに、女性は肩を竦めた。
「私は呪紋士ではありませんので」
「陰陽五行の理に、それだけの理解を持ちながら?」
「薬や毒には、魔物の害に効能があるものも多く存在します。理に通じなければ正しくそれらを処方出来ませんから」
白抜炙は、次に朱翼に訊いた。
「効くと思うか?」
「分かりません。殺す事は出来ないでしょうが、雨を疎んで群れが散る可能性はあります。雨に土の気を加えれば、多少なり動きを鈍らす事も。少なくとも、現状取りうる中では最善の手かと」
白抜炙は即座に決断した様子で、符を取り出した。
土の符だ。
「試してみよう」
言って、白抜炙は屋根の四方に土の符を置いた。
朱翼は、屋根の中央で土の基線を腕に引き、次いで拳を握る。
「結」
朱翼の呪力に反応し、四つの黄色い光が天に伸びる。
その光を柱として、四角い箱の様に半透明の壁と天蓋が屋根の上を覆った。
村を覆うような大規模なものと比べれば他愛ない結界だが、土の性質を雨に混ぜる程度なら補強にはなる。
朱翼はそのまま白の式粉を親指で舐めとった。
まずは水行の呪。発光する基線に、紋を重ねてゆく。
「陽黒星呑.螢惑水生」
次いで土行の呪。右中指で赤の式粉を舐め、左腕に紋を描く。
「陽黄星呑.太白土生」
両手に水土の二紋を描き、朱翼はそれぞれの方位に腕を振った。
「顕現」
二つの燐光が色を変えて混じり合い、暗黄色に成るのを見て朱翼は両腕を天に掲げた。
「散形粘成ーーー《雨燕》」
朱翼の両腕に宿る暗黄の光が揺れるように波打ち、大気を震わせる。
緩やかに迫っていた薄い暗雲が、不意に解けるように天を流れた。
暗雲は、濃さを増しながら朱翼の頭上に渦を巻いてゆく。
埃と血と、腐った水と。
それらの臭いを含んだ空気が渦を巻いて風が服の裾と髪を揺らすと、臭いを撃ち抜くような鋭い雨が降って地面を叩き始めた。
たちまち雨は勢いを増して村を濡らして行くが、屋根の上だけは張った土の結界が呪紋による雨を弾いている。
雨は土気を含む為に粘度が高く、ゆっくりと結界の表面を流れ落ちていた。
「効いているな」
村の中心、眼下の広場を確認して白抜炙が言った。
朱翼からも子患が群れから解けて、鼠似の本性を現しているのが見えた。
雨に打たれる痛みに、金切り声で叫んでいる。
しかし、その雨が不意に止んだ。
まるで払ったように一瞬にして雨が消え去り、周囲を静寂が包む。
「どうした、朱翼」
白抜炙の問いかけに、朱翼は目を見開いたまま答える。
「術式が、何者かにかき消されました」
朱翼が言う間に、今度は白抜炙が屋根に置いた符が弾け飛んで結界も消える。
「一体、何が起こってる?」
困惑する二人を他所に、体色を暗褐色に変えて苦しんでいた子患の様子が変わり始めた。
子患らは一斉にどろりと溶け落ちたかと思うとそのまま寄り集まり、群れを形成し始める。
それも目の前で苦しんでいたモノだけでなく、村全体から同様に溶け落ちた子患が広場に集まってきた。
「[場]の陰金気が、異常な程に高まっています」
朱翼が緊張しながらも、白抜炙に告げた。
「このままでは『大禍』が……」
朱翼の言葉に、白抜炙も顔色を変えた。
[場]に一つの気が集まりすぎた状態を、大過、と呼ぶ。
五行気を星に例え、星配が偏る、とも言われるその状態は[場]の陰陽が極端に乱れている事を示している。
陰に極端に寄った星配は、大きな災厄を顕わす。
それを『大禍』と呼ぶのだ。
どのような災厄が起こるのかは分からない。
だが、天変地異に等しい状況になる事は、古くより言い伝えられている。
が、白抜炙らの懸念も、目の前の現実的な脅威によって中断せざるを得ない。
寄り集まった子患は屋根に届く程に肥大化していた。
村の中にどれほど居たのか、呆れる程に体積を増したそれは、もはや下級の水魔とは思えない程の邪気を備えており、一匹の巨大な鼠の姿を成していた。
「ギュゥガァァアアア!」
子患が吼え、村人達からどよめくような恐怖の声が漏れた。
「良くない状況ですね」
それまで黙っていた女性がどこか暢気な様子で言うのに、白抜炙は無理矢理笑んで見せた。
「好都合だ。一ヶ所に集まってくれりゃあ、むしろ始末しやすい」
それは強がりだと、朱翼には分かった。
木符を構えはしたものの、白抜炙はこれほどに巨大な陰気の塊に対抗出来る程の符術を習得している訳ではないだろう。
それは、朱翼も同様だ。
だがやるしかない。朱翼達が諦めてしまえば、全員が殺される。
朱翼が肚を決めるのと同時に、白抜炙の腰袋の中で風信の符が澄んだ音を鳴らした。
『子らよ。傾聴せよ 」
朱翼の耳に、馴染み深い抑揚のない声音が響いた。
「師父……?」
朱翼の呟きに答える事なく、須安は淡々と告げる。
『陰とて道理なり。どれほど巨大なれども、陰陽両儀、五行八卦の理に抗う事叶わず』
子患の頭上から、何かが舞い降りて来た。
それは、小さな種。
ちゃぷん、と水に転げるような音を立てて子患の中に入り込んだ種は、汚泥に沈むように落ちて行く。
『この一見、汝らにとって百聞より実り多きもの。今、遥か高みに見えよう我が術すらも、始極混沌に至る道程である事を心に刻み、刮目せよ』
子患に入り込んだ種が、淡く黒光を放った。
『木生ーーー』
唯、一声。
呪紋ですらない、符術を行使する為の起呪が呟かれた途端。
種から、弾け飛ぶような勢いで無数の枝が伸びた。
炸裂した爆風に、朱翼の頭に巻いた布がほつれて流れる。
白抜炙が朱翼に目を向けて来たが、朱翼はすぐさま布を手で押さえて直した。
その間も、彼女自身は子患から目は離さない。
巨大な子患は、断末魔すら上げる事なく無数の枝に刺し貫かれた後、幹を形成しようと捻れて巻き上がる枝に喰われて消滅する。
飛散した滴までも伸ばした枝で喰らい尽くした大樹は、奇妙に捻れ上がった威容を示した直後に枯れ果て、葉屑となって散じた。
雨に濡れた大気に、清涼な木の香りが流れて消える。
風信の符が今度はどこか暢気な声を運んで来た。
『皆、大丈夫~? 今から迎えに行くから待っててねぇ』
「御頭……」
白抜炙の呟きに。
「マダさま?」
「真陀様だ」
「先程の声は、須安翁か?」
「助かった」
「鷹の衆が助けて下された……!」
徐々に村人達も我を取り戻し、やがてざわめきが大きな歓声になった。
その歓声を背で聞きながら、白抜炙が誰にも気付かれないよう小さく安堵の息を吐くのを、朱翼は見ていた。