第15節:出自
「人……?」
声が聞こえた水晶の中に、ちらりと人影が浮かんだように見えて、朱翼は眉をひそめた。
『おお……』
と、朱翼の発した言葉に歓喜と驚きの色を帯びた声音が返ってくるが、それは先ほどの声とは違うようだった。
『この気配……』
『神の気配……』
『炎の子が、戻られた……』
いくつも、いくつも、輪唱するような声とともに、水晶の中に人影が浮かんでは消えて行く。
「あなたたちは……?」
こんなものは、見たことも、聞いたこともない。
陰魔の類にしては、負の気配を感じない。
だが、強い呪力のこもった声。
ミショナの街で見た悪龍ほどではないが。
大地に根ざしたような、落ち着きと重みのある気配が。
風に流れた草原のように、さざ波を立てている。
『炎の子……即ち、時、至り……』
最初の声とともに、人影が浮かんでは消えていた水晶が。
女性のような形の影を浮かび上がらせて、留まった。
「私を、知っているのですか?」
朱翼は、相手を知性ある存在と認め。
問いかけた言葉に対して、人影が揺らめくようにうなずいた。
『我ら、炎の主に命を賜れり……遥か悠久へ旅立てる炎の子への標なり……』
「……よく、意味が分かりません」
朱翼が素直に伝えると、人影はさらに言葉を重ねた。
『救世の巫女……太極より万象へ、産み落とされし者と対を成し……万象より出でて、太極へ至る者……』
ゆらり、と人影が手を伸ばし。
朱翼の頭に、その指先を向けた。
『我らが願い、炎の子……主の望み、炎の子……今、真実を汝へと示さん……』
「!」
朱翼は。
不意に黄水晶の人影から伸ばされた呪力の帯を避けようと後ろに飛び退いたが。
あまりの速さにあっけなく囚われ……。
覚えのある感覚に、驚愕する。
ーーーこの、感覚は。
それはかつて、幼い頃。
救世の御子の処刑が行われた時、彼女の人生を脳裏で辿る前に感じたのと、同じものだった。
※※※
それは、1人の女性の記憶だった。
彼女は、天に浮かぶ大陸に住まう民だった。
自らが主人と崇める存在を目にして、彼女は笑う。
その顔は、黒陽の光に隠されて見えないが、その美しい赤い髪の主人は、彼女に対して微笑んでいる。
主人もまた、女性だった。
これより、世界を救う大儀が執り行われる。
主人は、赤い髪の一族の中でも、最も阿納と羅延……すなわち世界に愛された女性だった。
救世の巫女。
しかし、その星を救う大儀の最中に、突然天空の大陸、迦楼羅の大陸を襲う地震。
主人たる女性は動けず、代わりに外を見た彼女が目撃したのは。
別の天空大陸に住まう天帝の軍勢が、迦楼羅の大陸を蹂躙し、地平の向こうから極めて巨大な蛇が大陸に向けて突き進んでくる様だった。
常々、主人の邪魔をしていた天帝は、この段に至ってなお、主人を害しようとしていた。
この世界を遥か未来まで存続させようと、その身を捧げる覚悟を決めていた主人の邪魔をする、憎い敵に。
彼女は吼えるが、為すすべはなく。
蛇によって、迦楼羅の都がある大陸は、地に堕ちた。
曲がりなりにも、彼女らが助かったのは。
大儀を中断し、その甚大なる呪力で大陸を支えた主人のおかげ。
なんの準備もないままでは、大陸を天空に留まらせる事は出来なかったが。
多くの民が、生き残った。
そして代わりに、主人は体を壊し、世界を救うだけの呪力を操るすべを失った。
彼らは、絶望の中で放浪する。
崩壊した大陸の上に留まり続けては、いつまた天帝の手が伸びるか分からなかったからだ。
赤き髪の一族は、大儀を為せなかった事によって終わりの定まりし世界を少しでも支える為に、と。
1人、また1人、柱となるために世界にその身を捧げた。
そして、最後に残った2人のうち、男性であった赤き髪の者がその身を大地に捧げた時。
主人たる女性は、彼の子を身ごもっていた。
産み落とされた最後の赤子は……黒髪だった。
赤き髪の血を継ぐのは、その二つ前に生まれた、赤き髪の幼子のみとなる。
主人は、ハダシュの森に、彼女らの居を構え終えて告げた。
『炎の子を、希望を託し、遥かへ旅立たせる』と。
そうして、彼女は自らの子を手放し、同時に彼女を筆頭とする主人に仕える者たちに志を継がせる。
阿納に次ぐ強大なる不死の龍……蛇馳禍の眷属として、彼女らを奉じ。
彼女らの子に、この地の守りを託し。
自身は、再び『堕ちたる神の都』へと、戻られた。
※※※
黄水晶の女性の記憶を。
そうして我が事のように感じた朱翼は、混乱のあまり動けなくなっていた。
「あれは……」
主人たる女性から生まれ落ちたという、黒髪の赤子。
そして、何も知らない様子で彼女の服の裾をつまんでいた、子ども。
あれらは。
「私と……錆揮」
『是……』
人影は、再び揺らめいて、朱翼に問いかける。
『時は至れり……時の術により、遥かへと旅立てる最後の巫女……』
「あなた方は、救世の巫女というのが何かを、知っているのですね?」
ダハカ、という名前の龍。
その気配は、知っていた。
ーーー学園で、対峙したあの悪龍と、全く同じ気配を持つモノだった。
「その大儀というのが、師の口にした、救世の術、なのですね?」
救世とは。
人を救うのではなく。
この世界、そのものを救うという、意味だった。
だが、分からないことがまだ、いくつもあった。
何故、その大儀を行うことが、世を救うことになるのか。
その大儀を行うための手段は。
しかし、朱翼の問いかけに。
『儀を伝えるは……我らの役目に非ず……我らの役目は、標……そして、試し』
「試し?」
不意に、女性の姿が消えて、再び様々に影が黄水晶に浮く。
『我らが主人に……』
『炎の子よ……先代の巫女の元へ……』
『その資格を有するか否か……』
『儀に耐えうるだけの才覚を……』
『我らに、示せ……』
どうやって、という疑問を、朱翼が口に出す前に。
不意に、黄水晶の向こうから声が聞こえた。
「姉さん!」
「錆揮?」
呼びかけに言葉を返すのと同時に。
黄水晶が、いきなり暗い色合いに染まった。
『示せ』
『示せ』
『示せ』
『我らが希望に見合うだけの才覚を……示せ』
『我らが子孫あり……』
『1人は雷、心根、光輝なり』
『1人は風、心根、暗澹なり』
『蛇馳禍の力を、かの者へ与えん……』
そして。
暗い黄色の光が解き放たれ。
「ぐっ……!?」
黄水晶の向こうから聞こえたくぐもった声は。
謝治のもの、だった。




