第14節:艶牙の先行き
朱翼が結界を抜けた先は、さらに広い円蓋の空間だった。
頭上を見上げると巨大で透明な緑の木の根が垂れ下がり、またその根は、円蓋そのものの支柱であるかのように八方に広がって洞窟の地面まで達している。
それまでと違うのは、光苔ではなく木の根自体が光っており、まるで昼のように緑の光で空間の中を明るく照らしている事だった。
円蓋の空間は、湿り気を一切帯びていなかった。
「呪紋……」
朱翼は、その呪紋が何なのかを知っていた。
『光輝』と呼ばれる木行の上位刻紋であり、刻んだ対象が黒陽の恵みを取り込んで、周囲が暗くなると発光する紋である。
師から、刻紋士の到達点の一つとして教えられた紋だった。
「……美しいですね」
自分には未だ扱う事の出来ない紋、その輝きに朱翼は自分の状況も忘れて感動してしまった。
緑の光は、柔らかでありながら神秘的だ。
青い光は荘厳ではあるが冷徹で、赤い光は優美であるが苛烈を感じさせる。
しかし優しさを象徴するようなその緑の光は、まるでこの場所が愛で祝福された場所であるかのように感じさせてくれるものだった。
この場所は、地面までもが光苔で覆われ、同種の淡い光を放っている。
光苔はこの場所の陽光で育ち、洞窟の中に拡散していったのだろう。
そして、朱翼の目にはそれら自然と呪紋の合わさった奇跡のような造形物の他に、一つ、奇妙なものが映っていた。
その光の祝福の中央に座す、黄水晶のように澄んだ巨大な円柱。
円柱から感じる呪力は、今まで見たこともないような奇妙なものだった。
多くの存在が入り混じっていながら、意思のぶつかり合いがない……生命の奔流のような龍脈とは違う、穏やかな気配だ。
「これは、何なのでしょう?」
習った事はない、と思った。
未知のそれをつぶさに観察するが、その穏やかな円柱はただそこに在るだけで、緩く明滅しながら休息しているように見える。
封じられている、にしては強制的な気配もなく、力を蓄えているようにも見えない。
正しく、ただそこに座している。
近づくか、やめるか。
円柱に阻まれて向こう側は見えない。
回り込む前に、朱翼は服を乾かそうと思った。
暖気の紋を地面に描き、慎重に起呪を口にした。
この場は木気が満ち満ちている。
先ほどと同じように紋を起こしては熱量が増えすぎるからだ。
しかし、朱翼が火の紋を行使した途端に、空間が震えた。
「ーーー!?」
朱翼が驚きと共に身構える中、緑の輝きが失せてゆき、代わりに中央の円柱が明滅をやめて輝きを増していった。
「……一体」
何が、と口にする前に、凛、と声が響いた。
『誰そ、在るや……?』
※※※
「たかい! こわい! おろせ!」
「暴れんなバカ! それこそ落ちるぞ!」
「全く、うるせーってーのよ……」
錆揮達は、颯の風切に乗って道羅達の元へと向かっていた。
艶牙との出会いで、仕方なく探索を中断したのだが、艶牙が飛んでいる事に怯えて爪を立てて来るので、錆揮は苛立っていた。
「もう着くってのよ。降りるからちゃんと掴まっとかないと落ちるのよ」
「アオオオオオオオオオオッ!?」
「だから暴れんな!」
不意に急降下した颯に、艶牙が吠えた。
錆揮は風切に縛り付けた縄を片手で握り、しがみ付いてくる艶牙を抱えながら、降下の時に体に掛かる奇妙な感覚に耐えていた。
これは慣れない。
騒ぎたくなる艶牙の気持ちも分かるが、大人しくしていて欲しい。
地面にたどり着いて錆揮が艶牙を地面に下ろすと、獣はぐったりと倒れ込んだ。
「その獣は何かねぇ? 昼飯かねぇ?」
降下した風切を見て、木にもたれて昼寝していた無陀が顎をこすりながら近づいてきた。
同じく寝ていたらしい小竜の一葉が、無陀の肩を上で大きくあくびをしている。
のほほんとした彼の言葉に、艶牙が毛を逆だてた。
「オイラを食うつもりか!? そのつもりでツレてきたのか!」
「そんな訳ないだろ……」
本当に子どもそのものの艶牙が起き上がりもしないままに言うのに、錆揮はうんざりと答えた。
「……あいつの事は、言うなよ」
なだめるフリをしながら錆揮は艶牙に釘を刺した。
あの割り込んできた黒衣の男からは、とんでもない気配がした。
うかつに言いつけを破るべきではない、と錆揮が感じたように艶牙もそれを感じていたのか、毛を逆だてるのをやめて、耳と尻尾を垂れさせて目でうなずく。
集まって来た面々に、錆揮は黒衣の男の事は伏せて説明した。
説明を受けた無陀が面白そうに、艶牙の頭をポンポンと叩く。
一葉も興味があるみたいで、ふんふんと鼻を動かしている。
「へぇー、獣魔ねぇ」
「サワるな、ニンゲン!」
「俺は無陀って名前だねぇ。そう呼んでくれると嬉しいねぇ」
全く動じずに艶牙とじゃれる無陀は放っておいて、錆揮は颯と話す烏に目を向けた。
「透明な緑の巨木?」
「だってのよ。空から見えたってーのよ」
烏に対して、颯は自分が見つけた奇妙なものの話をしていた。
槍を肩に立てかけ、身振りを加えて説明している。
「全体が綺麗な色でよ、宝玉を馬鹿でかくしたような木だったのよ。あんなのが地上にはいっぱいあるのかよ?」
颯は少し興奮した様子だった。
その気持ちは、錆揮にもよく分かる。
「綺麗な木だったよ。でも、あんなのオレも見た事ないよ」
「ふぅん……謝治。それもあなた達は何なのか知っているの?」
黙って話を聞いていた謝治に、烏が問いかけた。
ちなみに道羅と弥終はこの場にいない。入口の封印の前で、解呪の間の見張りをしている。
「紋樹か。歌樹の群生地中心にある巨木だ。根元に呪紋が刻まされていて、上に伸びた幹や枝は澄んだ緑色に変化しているな」
「あなた達の先祖に関係がある?」
「……知らぬ」
道羅に怒鳴られて以来、無表情な謝治の言葉には棘がある。
彼女は道羅に言われた言葉に納得していないのだろう。
信仰に生きるという事がどういう事なのか、錆揮は知らない。
だが、自分に似ているという謝治を、その態度を見る事には意味があるのだと、烏は言った。
風が吹き抜ける中で、それ以上は何も言おうとはしない謝治に、烏は肩を竦める。
「それで、その子をどうするの? 錆揮」
烏は、艶牙を指差した。
相変わらず無陀にじゃれつかれて嫌がっているが、彼の手から逃れられないようだ。
「オイラにさわるなと言ってるだろ! ニンゲン!」
「大人しく無陀と呼べば、すぐにでも離してやるけどねぇ」
どう見ても遊ばれている。
そういえば、無陀は動物が好きなのだった、と錆揮は思い出した。
よく色んな動物を拾ってきては、御頭に怒られて泣く泣く野生に返していた。
もっとも、無闇に撫で回す無陀を動物の方はちっとも懐かず、これ幸いにと姿を消していたが。
懐いているのは、一葉だけだ。
「……出来れば、一緒に連れて行ってやりたいんだけど」
謝治と無陀、温度差の激しい光景になんだか疲れを覚える錆揮だが、彼の言葉に謝治が呻くように反応した。
「聖域に、陰魔を入らせるだと……?」
「獣魔は陰魔ではないわ。人の言葉を解する聡く気高き獣の王よ。……かつては、天界に住まうものであったとも言われるわ」
あなた達と同様にね、と言った烏は、束ねた髪を揺らしながら歩き始めた。
錆揮を視線だけで振り向きながら、手を振る。
「道羅に聞いてくるわ。もし彼が無理だと言ったら、外で待たせるわよ」
「つ、連れて行って良いの?」
「友達になったんでしょう? 獣魔の友人なんて、いいじゃない」
微笑んで、洗練された歩みで消えた烏の背中を、謝治が射殺しそうな目で睨みつけていた。
拳を握りしめて、頬を紅潮させている。
「我らを獣と侮蔑するか……」
「どー考えてもそういう意味じゃねーねぇ」
颯が呆れたように頭を横に振り、どうすればそんな風に捉えられるのかと、錆揮はいっそ感心してしまった。




