第12節:ふたひらの出会い
洞穴を進み始めて、一日。
実はこの洞穴は、実はさほど広くはないのではないかと朱翼は考えていた。
幾つかある枝道はすぐに回帰しており、一番天井の高い方向以外はあらかた歩き尽くしていた。
広い方向へ向かわなかったのは、その先が大きく広がっていて時間がかかり過ぎるのではという危惧からだったが、どうも失敗だったようだ。
干し肉を食み、少し眠って疲れが取れるかと思ったが、思った以上に湿気で体温が奪われている。
冷えた体を温める為に、地に紋を描いて暖気の術式を起こした。
符があれば、と朱翼は思う。
火の符は荷物の中だ。
最も得意とする術式であるために、身につける必要性をあまり感じていなかったからだが、やはり慢心は怖い。
不測の事態に対する自分の考えは、まだ甘いのだと朱翼は思った。
「失態、ですね。次があれば、気を付けましょう」
指先の痺れも取れて軽く服は乾いたが、この場所では強い火紋術は使えない。
生乾きの服を纏った重い体を上げて、朱翼は広い通路を目指した。
やはり最初に辿り着いた時よりも、早く感じる。
広くなった通路を慎重に進むうちに、朱翼は行く先の五行気が変化しているのを視て、足を止めた。
「木気が……?」
この先には、何らかの結界が敷かれているのではないか、と朱翼は思った。
陽木陰水の土地からさらに北に登る事で陰水の気が強まっている土地で、木気が盛えるのはおかしい。
しかし広い通路は一本道で、その結界に踏み込まない限りは先に進む事が出来なかった。
悪意は感じない。
おそらくは相生結界であり、であれば、この地に封じられているのは火の神に属する存在、とまで思い至ったところで、朱翼は眉根を寄せた。
「いえ、違いますね」
独り言であっても、言葉を発するのは重要だと、師は言っていた。
黙るというのは、呪を封じる行為であり、理を考える上では言葉に乗せる事が重要。
そう、師は言っていた。
「木気が盛え、結界があるからといって、見える事象を決めつけてはならない……」
何故自分が、火に類する存在が封じられていると思ったのか。
それは、道羅達の仕える神が『炎の主』だからだという刷り込みのせいだ。
気配から、結界の種類は分からない。
陰水の地で、火に属する存在を慰撫する為に木気を盛えさせるというのは、遠回りに過ぎる。
「そもそも、神を封じる為に陰水の気を吸うような大規模な結界があれば、この地に至るまでに察せられる筈……」
旅をしていて、陰水の乱れは感じなかった。
とすれば、木気が盛える理由は、水生木、つまり陰水の気が木気に転じている、と思い至り。
「須弥の民は、風雷の民」
火の神に仕える風と雷……即ち、木行の民だ。
「この先に封じられているのは……道羅達の祖先……?」
聖域だと、道羅は言っていた。
とすれば、墓なのか。
あるいは、元より天で神に仕えていたという彼らもまた、神の一族であったという事なのか。
故にこそ、この地に結界を持って封じる事が。
朱翼は、自分の考えに瑕疵がないか、もう一度考え直してから。
再び慎重に、結界の中に足を踏み入れた。
※※※
錆揮は、森にいた。
聖域に入る直前、凝した金気を散らすには一昼夜かかるという道羅に、無陀らの許可を得て近くを探っているのだ。
姉の行方を、ただ座して待つのは、錆揮には出来なかった。
探るのは夜までという条件を付けられ、森の上空を今、颯が舞っている。
何かあれば、符で狼煙を上げる手筈だった。
生い茂る木々で錆揮自身の姿は颯からは見えない。
錆揮は短刀を手に、深く息を吸い込んで呪を唱えた。
「五行星呑……」
黒黄の紋が全身に浮かび上がり、錆揮は全能感と共に、大きく視界が拓けたように感じた。
五行気の地の胎動から天の流転、木々の老若から下生えの活衰までもが視える。
高揚する意識を深呼吸を繰り返して静め、錆揮は意識を凝らした。
入口の位置から、聖域とやらは地下にある。
五行気の流れだけに意識を集中し、錆揮は姉の気配を探して―――。
不意に、ざらりとした異質さを感じて眼下に向けていた顔を跳ね上げた。
見つめる先は、すぐ側の下生えと蔦に覆われた木々の間。
普段なら暗闇としか思えないそこに、錆揮は『土行の気配』を見た。
「陰魔……?」
呟いた途端に、それは下生えの間から飛び出して来た。
紋によって強化された脚力でもギリギリでそれの爪が肩を掠める。
大きくはないが、速い。
一瞬姿を見せたそれは茶色の毛並みに覆われ、角度によって五色の光沢を見せる牙を備えていた。
すぐにまた下生えに突っ込み、木陰を縫って音もなく回り込むそれを。
錆揮は正確に目で追いながら、姿勢を整えた。
腰の符を意識するが、紋を使っている事を知られるのは避けたい。
木立を背に敵を警戒しながら、錆揮が迷う間に。
再び飛び出したそれが、今度は真正面から牙を剥いて襲ってくる。
「オレは……!」
錆揮は、ギリ、と歯を噛み締め。
―――姉さんを助けられないなら、オレには何の意味もないんだ……。
姉を、白抜炙と再び会わせる為に。
自分のせいで壊れてしまったモノを取り戻す贖罪だけを目的に、錆揮は生き長らえているのだから。
こんな所で、負けている訳にはいかない。
錆揮は目の前に迫る牙を、短刀を振るって迎え撃った。
相手の大きく開いた口を裂くつもりの攻撃は、相手が噛み合わせた牙によって受けられる。
宙を舞っていた敵の勢いで、木立に背中を叩きつけられ、て錆揮は息が詰まった。
が、短刀を意地で握り締めて手放さない。
「グルルルル……」
「ぐうぅぅ……!」
紋の力で短刀を支える錆揮と、牙で短刀をもぎ取ろうとするそれ―――四つ足の獣の目が、合う。
瞳が、牙と同じ五色に艶めくそれは、獣魔と呼ばれる上位の陰魔。
しかし、強烈な意思に反して獣魔は幼い個体のようだった。
錆揮と変わらぬ体躯の獣と、しばし拮抗し。
その間に、槍が割り込んで短刀ごと獣の頭を上に弾き飛ばした。
『!?』
錆揮が驚くのと同様に、獣が驚いたのも分かる。
獣は宙で反転して着地すると、地に伏せて槍の持ち主を威嚇した。
「あんた、誰だ」
見たことのない男だった。
銀髪に質素な黒衣を纏い、背筋が凍るほど美しく精悍な顔立ち。
だがその顔の右半分は無残な火傷跡に覆われ、右目が龍のような細く赤い虹彩と、黒白の半転した瞳になっている。
そして纏う気配が、目の前の獣など問題にならないほどに異質だった。
陰転、陽転する五行気が、到底人とは思えない程に濃密に体内を巡っている。
黒衣の男は、まるで表情を動かさないままに、獣を見た。
「……獣の子。お前は、相争うべきではない者と争っている」
黒衣の男の言葉に警戒を解かないままに、獣が唸り声を立てた。
「……お前はこの者と対話をせねばならない。そうする事が、必要だ」




