第11節:聖域
「……ここは」
朱翼が目覚めると、彼女は洞穴の行き止まりに倒れていた。
ぴちゃん、と上から滴る水が頬を打ち、それが目覚めさせたのだと悟る。
洞穴の中は淡い光を放つ光苔に覆われて、暗さに慣れれば歩くのに支障がない程度の明るさがあった。
土が剥き出しの、人の手が入ったとは思われないような洞窟の壁からは、光苔の下を這いずるような形で足元から頭まで無数の何かが表面を覆っている。
「木の根……」
光苔を石裂の先でこそげ取り、朱翼はその正体を知った。
つまりこの洞穴は地下にあるらしい。
ハダシュの歌樹がある辺りに近いからか、冷えた空気は水気を帯びており、滴る水は酷く冷たいものである上に、振り始めの雨の如き頻度で注いでいた。
それを不快に思った朱翼は、外套の中に収めていた頭巾で頭を覆い、外套の前を合わせる。
厚く硬い布地はしばらくの間、体力を奪うその滴りを防いでくれるだろう。
ここがどこであり、いつ出られるかも分からない現状、体力は温存するべきだと朱翼は考えた。
足元も木の根が張り巡り、水がその間に溜まって土をぬかるませ、あるいは水溜りとなっている。
歩きにくいが、ここで待っていても何も始まらないだろう。
行き止まりの壁をつぶさに観察したが呪紋に類するものも刻まれておらず、どういう原理で自分がこの洞穴に飛ばされたのかも彼女には理解出来なかった。
水袋と干し肉、そして式粉を収めた呪具に石裂。
保って三日、と朱翼は判断した。
水は、滴る水を手で受けて舐めてみると、ほんのりと甘みを帯びている。
清浄な水であるならば、深い水溜りがあればその上澄み、あるいは水袋の口を開けて貯めることで飲み水は確保出来そうな塩梅だった。
腹を壊す事が怖いが、式粉を使えばたっぷりと水を含む木の根でも火は起こせるだろう。
「まだ、絶望的な状況とは限らない……」
落ち着け、と朱翼は自分の心臓に言い聞かせた。
冷静であろうとしても不安を感じている自分を、冷静な自分が眺めているように、意識的に考える。
水音以外は静寂に包まれた場所。
だが真の闇ではない。
すぐに曲がり角のある洞穴は、覗き込めば左右に長く続いていそうにも見える。
どこかに出口があるかも知れない。
あえて楽観するのは、混乱するよりも遥かにマシだ、と頭領が言っていた。
「なんとかなる……」
まずはこの場所を把握する事から。
ここを起点とする為に、朱翼は壁に、石裂で大きく×を書いた。
右に進めば、『>』を。左に進めば『<』を。
曲がり角を折れる時は、進む方向に同じ形を刻めば最悪迷いはしない。
未知を進むのは根気がいる。
いつもより長い時間が掛かっていると感じる事も、朱翼は知っていた。
不安を感じればその時点で戻る。
戻れば一度通った道には記号がある。
同じ道程でも、短く感じる筈だ。そうして行動出来る範囲を広げていく。
そう決めて、朱翼はパシャ、と水溜りを踏んで、転けないように慎重に歩き出した。
※※※
「修弥の民が聖域への至るための入口は、歌樹の群生地の中にある」
先へと進みながら道羅が話すのに、烏が首を傾げた。
「朱翼と同じ方法では入れないの?」
歌樹の群生地は言われた通りに湿っていて、ひどく歩きにくい、と錆揮は思った。
張った根が、踏み下ろす先の地面がぬめり、踏ん張ることを余儀なくされる。
慣れない足場は、平時よりも錆揮に疲労を与えていた。
「無理だ。聖域とは本来『炎の主』が邪なる者の目を逃れる為に作り出した隠れ家のようなもの。『炎の主』と同じ純血を持つ神の一族でない限りは、『陽炎』の紋と共鳴する事が叶わぬ」
「その『陽炎』の呪紋が、朱翼を?」
「恐らくは聖域の最奥に」
難しい顔で答える道羅自身も、深く聖域の中を理解している訳ではない様子に錆揮は疲れも合間って苛立った。
「頼りないな」
「返す言葉もないが、聖域に立ち入るは本来は長のみが許された事。俺は一度、謝治と共に長に従い入口の前に立ったに過ぎぬ」
「それが、何で試練になるのかねぇ?」
無陀が顎の無精髭を抜きながら半眼で言い、錆揮も確かにおかしな話だと気付いた。
元が『炎の主』の隠れ家だと言うのなら、罠に類するものはないような場所に思えるのに。
「本来の役割は、だ。そこに、我ら修弥がこの地に残った理由がある」
放浪の民だった修弥の民が疫病を鎮める事で大いなるハダシュに安住を得た、というのは、間違ってはいないが正しくもないのだと。
「安住の地は、故郷を失った紙に従う者達に必要なものではあっただろう。だが『炎の主』にはこの地を去る理由があり、故に去ったのだ。その際に『炎の主』が残した遺産が聖域。『炎の子現れし時、聖域にて試練を与えん』とは、去り際に『炎の主』が残した言葉」
そこで、視界か拓けた。
目の前には森が大地ごと沈んだような斜面があり、道羅は足元を指差しながら背に負った荷物から縄を取り出した。
「この足元に、聖域への入口がある」
根張りの強い木を選び、道羅はそこに縄を掛けた。
重り代わりに荷の肩紐を縄の逆側に結わえ、斜面に放り出す。
道羅は一連の作業を終えて、さらに言葉を重ねた。
「先の文言はこう続くのだ……『生ける者、死せる者、諸共に炎の子の助けとならん。従う事、残す事、諸共に我が願いである』」
道羅は、自身の胸をどん、と叩いた。
「地に残された我らとて、神の願いを受けし一族である」
斜面に掛けられた縄を手掛かりに全員が下に降りる間に、道羅は荷をそのままに腐った倒木や枯葉を退けて、聖域の入口を見つけ出した。
土を固めた符が埋められた地面は、金気を凝しているからか鉄のように固まった一塊の土塊と化している。
その入口に向けて、道羅が語り掛けた。
「……『炎の主』よ。未だ我らの元に心を残しておられるのなら聞くが良い。我が一族の盲信によって為された事柄は、この道羅が、寄り添う御心に掛けて濯ごう」
道羅の言葉に、謝治が静かに顔を伏せる。
「我には分からぬ……」
その呟きに気付いたのは、もしかしたら間近に居た錆揮だけかも知れなかった。




