第10節:裏切り
夜も深くなり、虫の音色と風の音だけが響く中。
木の根を枕にしていた朱翼は、毛布を剥いで身を起こした。
祭壇石の辺りは空を覆う木がない為、満天の星空が見える。
肌寒さを感じるのは、元々豊富な水の気が夜になって盛えているからだろう。
「どうした」
火の消えた焚き木の側で、持ち回りの張り番をしていた道羅の問いかけに、朱翼は目を向けた。
「眠れぬのか」
「ええ」
何処か頭の中がざわめいていて、目が冴えている。
気が付けば、幾度も祭壇石に目を向けている自分がいた。
「この祭壇は、どのような意図で置かれているのですか?」
「祖先の鎮魂の為だ。元来、修弥の民は真にハダシュに住まう民であったらしい。その時に作られたのが、この祭壇石と結界。何故、今住む里へと居を移したのかは伝わっておらぬが、雷紋を継承する者の力が弱まった為であるとも言われているな」
「神を祀るものではない、という事ですか?」
道羅は、祭壇石へと目を向けて、複雑そうな顔で笑みを浮かべた。
「……我ら修弥の民の中にも、神の血は宿っている」
「そうなのですか?」
「修弥の民の始まりは、神に従う天の一族の一つ。つまり颯と同様の存在であった。地に落ち、『炎の主』に従って苦楽を共にしている内に、神と従者の垣根を超える者も現れただろう。……朱翼。貴様が真に神の一族であるとするなら、当然の事と思わんか?」
問われて、朱翼はうなずいた。
「私が神の一族ならば、人と神の間にあるのは、この髪と瞳の色だけあると思えます」
自身の情動の動かなさに、本当に自分は人ではないのかと悩んだ事もあった。
それを違うと言ってくれたのは、白抜炙だ。
「勿論それだけではないのだろうが、神とてさして人と変わりはせぬという事であるならば、祖先を祀るも神を祀るも変わらぬ」
「そういうものですか?」
「俺にとってはな。敬意は払うが、縛られるものではない。……特に颯の話を聞いてからはな」
「掟の意味……」
「そう。神は寄り添うものであると。俺もそう思う。自ら遠くに据えるのではなく、万物に宿る生気の如く、気付けば側に在るのが信仰というもの。生ける神のみの話ではなく、死したる祖先もまた同じであろう。教え継がれ、心に残るものを想う気持ちが信仰であり、長く残す為の掟だ。信仰の有り様とは、それぞれが持つべきものなのだ、とはっきりと理解出来た」
故に朱翼よ、と道羅は語りかける。
「俺は貴様が神であれば良いと思う。であれば、祖先の継いだ想いが実る瞬間に、この俺が立ち会う事が出来るのだからな」
「継いだ想い、ですか?」
道羅が祭壇石をふり仰ぐのに、朱翼も視線を釣られた。
月明かりの中、改めて見る祭壇は、苔むしてなおその役割を終えたようには見えない。
「そうした想いが本当に在るのなら……私に、行く末を教えていただけるでしょうか……」
救世の巫女という言葉の真の意味を。
救世とはいかなるものであるのかを。
ただ白抜炙の側に在りたいと願うだけの小さな自分に……。
と、不意に。
薄く、祭壇石が輝いた気がした。
まるで幻影の炎を纏うように薄く、赤色に揺らいでいるような。
「あれは……」
「朱翼?」
道羅がこちらを見て目を丸くする。
「行気が……」
言われて、朱翼は自分の体もまた、同じ光に包まれている事に気付いた。
光は徐々に濃度を増し、揺らぎと見えたものがはっきりとした形を作る。
呪紋。
その輝きの内に、鋭い女の声が響き渡った。
「《陽炎》!」
「謝治!?」
呪声により、紋が発動する。
道羅の驚いたような呼びかけと共に、仲間たちが起き上がるのが見えたが。
その瞬間に、熱のない炎に視界を包まれて、朱翼の意識が途絶えた。
※※※
「お前、何をした!」
声で目を覚ました錆揮は、姉が呪紋によって姿を消した原因らしい謝治に向かって駆け、押し倒して胸ぐらを掴み上げた。
「姉さんはどこだ!」
「知らぬ。離せ!」
謝治は錆揮の手を掴み、穢らわしいモノを見るような目を向けて無理やり引き剥がそうとした。
「道羅以外に、この身に触れる事を許した覚えはない!」
錆揮は、カッと頭に血が上った。
「お前らの掟なんか、俺の知った事かァ! 五行星呑!」
成人と子どもの体格差、修練の差によって剥がされそうになっていた腕に黒黄色の紋が浮かび上がり、錆揮はそれまでとは比べ物にならない膂力で謝治の喉元を押さえつけた。
「がはッ!」
息を詰まらせ、表情を歪ませる謝治に、高揚感と共に殺意を放ちながら錆揮は低く唸った。
「答えろ……姉さんを何処にやった!」
「それじゃ、答えらんねーねぇ。殺す前に止めるべきだねぇ」
後ろから伸びてきた無陀の手が、ぽん、錆揮の肩を叩き。
烏が正面から、錆揮の目を見つめて腕に手を添える。
「その力は、暗い情動と共に使うべきではないと、知っているでしょう? 錆揮」
二人に諭されて、錆揮は数度、深く呼吸して、ゆっくりと指を引き剥がす。
「五行……星洩……」
黒黄色の紋が、白抜炙の血紋の助けを受けてゆっくりと収まり、烏に活を入れられた謝治が呼吸を取り戻す。
「ごほっ! ごほっ!」
咳き込みながら烏の手を振り払った謝治が後ろに飛び退ろうとするが、烏が足払いを掛けて姿勢を崩させ、その喉元に無陀が刺短刀の切っ先を突きつける。
「動けば突く。喋れば突く。そして呪紋を気配を感じたら突く。大人しくする事だねぇ」
謝治が無陀の無表情に本気を見て取ったのか、悔しげに動きを止めた。
錆揮が周りに目を向けると、槌を構えた弥終と、槍を構えた颯が道羅と対峙していた。
「代わりに喋れば命までは取らない。命までは」
「俺を脅すか」
「先に裏切りを働いたのはそっちだろーよ」
道羅は弥終と睨み合い、ふ、と息を吐く。
「別段、何事も隠そうとはせぬ。朱翼を飛ばしたは、俺の本意ではない」
「なら、何処に飛ばしたのか、教えて貰っても良いかねぇ?」
無陀が謝治から目を離さないまま問いかけ、道羅が答えた。
「ハダシュの地下、我らが聖域に」
「道羅!?」
「突くな、無陀。俺が話す」
まるで自分が裏切りにあったかのように咎めの声を出す謝治に、無陀が刃先に力を込めたのを道羅が制した。
「次はねーねぇ」
「抵抗すれば殺せ。口を開く事くらいは許して貰いたい。我らが目的は達された」
無陀が鼻から息を吐いて頷くと、道羅は謝治に話し掛けた。
「騙し討ちのような真似は恥知らずのする事と心得ろ、謝治。己を情けなく思わぬか」
「道羅こそ、『聖域の事をみだりに口にしてはならぬ』という掟を破るつもりか!」
「別に彼らに伝えて悪いとは思わぬ。貴様が頑固であるは百も承知だが、盲信は愚行よ」
「掟を馬鹿にするか! 道羅!」
謝治に再び殺意が湧いた錆揮は思わず腰の短刀に手を伸ばしたが、烏に目で制されて、ぐっと堪える。
ついに、道羅が吼えた。
「貴様の行なった事がその事態を招いたと理解も出来ぬ愚者か!! 話せば分かる者に対して貴様が行なったは言われた通りの裏切りであろうが! 恥知らずのまま生きると言うのなら俺が殺してくれようぞ!」
獰猛な獣のような本気の殺意を放つ道羅に、謝治が息を呑む。
「道羅……」
「何故、颯の話を聞いて掟の意味を悟らぬか! 神とは盲信するものではないと何故悟れぬのか! だから里の者は息苦しいのだ! 他者への理解を示そうとせず、どうして神の意を悟れると思うのだ! 謝治!」
「わ……我は……」
謝治が自分の胸を抑える。
「ただ、長の言う、『炎の主』の望みを……」
「『炎の子現れし時、聖域にて試練を与えん』。……何も伝えずに危険に赴かせるが試練か。だから意を解せぬと言うのだ。人に寄り添いし神の意思を曲解し、傲慢の内に他者に与えるものを、貴様は試練と思うか」
道羅は、拳を震わせていた。
錆揮には、道羅の言葉がどんな意味を持つのかは分からない。
信じる神など、いないからだ。
だが、神を信じる者同士でありながら、道羅と謝治は違うようだった。
道羅の姿勢は、そして黙って道羅と謝治のやり取りを見守る颯の姿勢は、理を解する者として在ろうとした白抜炙や姉に近いものに思えた。
「『我は汝らと共に在れり』と神は言葉を残してはいないか。神とは教え導くものぞ! 決して、我らを支配監視しておるのではないだろうが! 他者に意思を問い、答えではなく助けを与える者が神である!」
道羅の言葉には理があった。
「……錆揮」
いつの間にか側に来ていた烏が、そっと耳元で囁く。
「この光景を、言葉を、よく覚えておきなさい。人の在り方の真実を道羅は口にしている。私と妹が袂を別けたように、理を解する者と解しない者の差は、自分で意味を考えるかどうかの差なのよ」
意味。
人の在り方の意味。
自分がどう在りたいのか。
どう在るべきなのかを考える事。
「全ては繋がっている。力の在り方の意味も、同じ。考えない者は、力に呑まれるのよ」
言われて、錆揮は悟る。
謝治は、錆揮自身なのだと。
その意味も考えないまま過ぎた力を手にした、錆揮自身が、信仰を盲信する謝治と同じであると、烏は言っているのだ。
錆揮は、感情に任せて紋の力を振るった事を恥じた。
せっかく白抜炙に繋いで貰った命を、無闇に捨て去るような行為だったのだ。
「……ごめん」
「気持ちは、分かるわ。貴方が朱翼を大事に思っている事も、知っている」
烏は微笑み、俯く錆揮の背中を撫でた。
「貴方はまだ幼い。気付いてくれたなら、それで良いのよ」
謝治は、青ざめて顔で押し黙り、道羅が無陀に頭を下げた。
「詫びよう。そして朱翼の元へ案内する」




