第9節:卯荒
準備を終えた道羅と謝治を伴って修弥の里を出た朱翼たちは、森へ向かった。
大いなるハダシュと呼ばれるその森を歩いて十数日で、歌樹の群生している場所へたどり着くらしい。
水の気は、幻鐘の言う通りに充ち満ちる程に満ち溢れており、同じくらいの木気がわだかまっていた。
森の中は、騒がしい。
溢れる気配に誘われて、様々な生命が暮らしている上に、それを狙う陰魔もまた、数多く生息しているのだ。
「一匹抜けたぞ!」
最前線の道羅が怒鳴り、同時に木の枝を跳ねるようにこちらへと迫る陰魔の姿が一瞬見えた。
すぐに葉陰に隠れてしまったが、その気配を朱翼の目は捉えている。
「無陀、お願いします」
「お任せだねぇ」
朱翼を中心に四方を警戒していた【鷹の衆】だったが、彼女の言葉に無陀は即座に動いた。
敵の移動する音を捉えていたのか、木の幹を駆け上がって茂みに消えたかと思うと、すぐにぼとりと何かが落ちてくる。
兎に似た緑の毛並みを持つ陰魔、卯荒だ。
土気を食むこの陰魔は、子患と同様に群れで行動する陰魔であり、畑などに現れると不作になると言われている。
また陰魔の例に漏れず非情に獰猛であり、肉食獣のように人や家畜を食い荒らす。
非情に素早く厄介な陰魔だ。
道羅が雷で群れを散らし、漏らした卯荒を各個撃破で討ち取りながら耐えていると、音もなく謝治が
朱翼の横に現れた。
「言われた通りに符を配して来たぞ」
「助かります。道羅、戻って下さい」
「応!」
道羅が戻るのと同時に、朱翼は予め両手に描いていた複合紋を発動させた。
「顕現―――粉形毒成.《黒百舌》」
体調不良を引き起こす猛毒の粉を辺り一帯に生成する結界術だが、この術が最も効力を発揮するのは、木に属する陰魔に対してである。
自身の周囲に火の結界を張って影響を防ぐ外側を、視界が煙るほどの毒粉が舞い、喉を締めたような鳴き声がそこかしこで上がる。
金克木……特上の相克気を含んだ毒を吸い込んだ卯荒の悲鳴は、長くは続かなかった。
術式を閉じてしばらくすると、与えられた形を維持できなくなった毒素が霧散し、結界が消える。
「呪紋士とは、便利な力を使えるな」
「……何ともエゲツない」
地面に落ちた卯荒の死骸は苦しみ抜いたように泡を吹き、白目を剥いて絶命していた。
「襲う相手を間違えたのは、あちらです」
朱翼が無表情に答えると、感心していた道羅はそんな朱翼に目を向けて軽く眉を上げ、謝治は顔をしかめる。
「これだけの命を奪って何の感慨もないか?」
道羅の問いかけに、朱翼は言い返した。
「自分の命と引き換えに、襲って来た相手に慈悲を与えるつもりはありません」
朱翼の答えに、さらに謝治が重ねる。
「陰魔とて森に生きるモノ。彼らなくば地が肥え過ぎる。貴様のやり口は素早くはあるが、好めはせん」
相手が己の実力を超える者であると分かれば、陰魔とて散る。
そう言い募る謝治に、朱翼は頷いた。
「では、次に襲われた時は別の方法を考えましょう」
あっさりと意見を受け入れた朱翼が意外だったのか、不思議そうな顔をする謝治に、烏が口を開いた。
「私達はあなた方ほど森に詳しい訳ではないのよ。里に近い場所に住んでいたから、陰魔は駆除の対象だった。このやり方が理を乱すのなら、それは私達も望むところではないわ」
「暮らしを営むのに、自然の摂理に反するからだろう」
烏の言葉に、道羅が言った。
「気を整えるに、住みやすいよう、地の五行気の有り様を乱すから不具が出るのだ。有り様には全て理があるものよ」
「それは確かにそうだと、俺も思うのよ。ミショナみたいな大きな街は暮らすに便利だけど、なんか不自然なのよ」
道羅の言葉に、颯がうなずいた。
五行気を結界によって安定させた土地は人に住みやすい土地になる。
だが、その地に暮らす獣や生じる陰魔にとってもそうなのか、と言われればまた話が別だと、朱翼は思った。
家、街、都、と人の住む地が大きく広がる程にその違いは顕著になる。
大地という大きな気の流れの中では、人の住まう為に安定された地こそが異質だ。
道羅の口にした不具とは、そうした大きな目で見た時のものなのだ。
「陰魔とて世の営みの一部よ。人もまた自然と共に在るを解せぬ故に、そうした間違いを起こすのだ。流れに添わぬものは、いずれ排される」
「自然と共に在る……」
朱翼は、この大きな森と共に生きる修弥の民である道羅の言葉にある正しさを感じた。
天然自然の中において、人は矮小だ。
大禍一つに【鷹の衆】も皇国軍も諸共に滅んだ。
悪龍を蘇らせようとして、悪龍の気に触れたアジは自滅した。
陰魔にすら、そこに在る為の理がある。
今まで触れてきた狭い世界では学び得なかった事を、道羅は教えてくれた。
「ありがとうございます」
頭を下げた朱翼に、道羅は肩を竦めただけでそれ以上は何も言わなかった。
それから幾度か陰魔に襲われたものの、特に苦戦する事もなく順調に進んだ朱翼らは、やがて少し拓けた場所に出た。
「ここは……」
周囲よりも清浄で静謐な空気が流れている場所だった。
中央に苔むした巨大な石があり、よくよく見ると加工されたものに見える。
「祭壇……ですか?」
五行星配が、周囲の森に比べて安定している。
特に火気は陽気に寄っており、他の星配においても陰気が極端に少なかった。
「古い修弥の祭壇だ。修弥の民だとて、別に全てを自然に委ねているという訳ではない。守るべきものの為に、最小限の行いはする」
「ですが、気の散らし方がどこか優しいようです」
確かに結界ではあるが、陰気を陽転させている訳ではない。
森の中を走る龍脈と結界を繋げ、陰気を流し陽気を取り込む事で清浄な気溜まりを作り出しているようだ。
「こんな結界の貼り方もあるのですね……」
朱翼がその結界の貼り方を覚えようと、周囲に目を走らせていると道羅が空を見上げてから言った。
「今日はここで留まる。歌樹の群生地はすぐそこだ。ここで休み、明日には着く」
道羅の言葉に誰も逆らわず、特に声を掛け合う事もなく全員が野宿の準備を始めた。




