第9節:水魔の脅威
村を襲った水魔は、子患という最下級の水魔だった。
流れる水のように低空の気脈を滑る不定形の魔物だが、姿を留めている時は濁った水を固めた鼠のような外見をしている。
大きさは拳程で、群れで活動する為に数が非常に多い。
一回程度なら、噛まれても運が悪くなければ傷口が化膿する程度で済む。
だが、これが複数になると呪われたように傷が重篤化していく。
水魔の類いに襲われると、仮に助かったとしても大半の者が傷から体が腐り落ちるか、仮に傷が大した事がなくとも衰弱し、やがて病に掛かって死に至る事もある。
魔、と呼ばれる所以である。
「川へ向かって走れ!」
村の側にある物見櫓の上から、烏が怒鳴った。
「群れに遮られて来れない者は屋根でも何でも良い、なるべく高く上がれ! 子患は高い所を這えない! 噛まれるな!」
その細い体のどこからと思うような大音量の声に、村の中で逃げ惑っていた何人かがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
村人達の背後から、濁った川のような水流が空中を這いながら追って来る。
子患の群れだ。
多くが群れ集い一体となっているのだろう。
常であれば細い縄のようであるべき水流が、大蛇の如き太さに見えた。
「俺達の後ろへ駆け抜けろ! 振り向くな!」
櫓の下で待ち受けていた白抜炙が、朱翼の横で声を張る。
共に待っていた朱翼は、時機を計って呪紋を描きつつ膝をついた。
村の人々が脇を駆け抜け、その風圧を頬に感じた時点で朱翼は呪紋を発動する。
「《水薙獲》!」
地に叩き付けた掌から放射状に波紋が広がり、視界を塞ぐ程の砂塵を巻き上げて吹き上がった。
子患の群れがその砂塵に突っ込むと、砂塵が水魔を喰らいつく様に包み込み、そのまま押し潰す。
「ギュリキキキッ!」
子患が苦悶するように金切り声を上げて砂塵から逃れようとするが、一度土の術式に捕らえてしまえば水の体を持つモノに抗する術はない。
砂塵に呑まれて濁った泥と化した子患が、地面にぼたぼたと垂れ落ちる。
砂が混ざり泥と化した体では、子患は上手く宙を這えなくなるのだ。
「木生!」
すかさず、白抜炙が鋭く数枚の木符を打った。
泥に突き立った木の符が泥を栄養にして芽吹くと、急速に細い木に成長する。
歪に伸びた木は吸えるだけ泥を吸い尽くすと黒く染まって立ち枯れ、墓標の様に乱立した。
白抜炙が駆け出し、朱翼はそれに続く。
烏は櫓の上で声を上げ続けていた。
「潰し切れねぇな……」
白抜炙が走りながら呟くのに、朱翼は黙って頷いた。
村に近づくと、数匹単位の濁流が無数に村の中を這っているのが見えてくる。
「符で、土の結界を布陣しますか?」
一応朱翼は問う。
結界は特定の呪紋の効果と範囲を強化し、相剋にある呪紋を弱めるものだ。
だが、白抜炙は彼女の問い掛けに首を横に振った。
「張っても効果は薄いだろ。[場]に集った金水の気が思った以上に強ぇ」
それは朱翼も感じていた事だった。
陰の気が強まった[場]では相生よりも相剋が強く顕在する。
即ち、木は土に克ち、土は水に克ち、水は火に克ち、火は金に克ち、そして金は木に克つ。
つまり金水の気が強いこの[場]では、本来相剋する側である火土の気の支配力を、金水の気が受けにくくなるのだ。
土の呪紋である《水薙獲》も本来ならば、子患の群れを吸い尽くしてそのまま汚泥へ返す程度の威力はある筈だが、仕留め切れなかったのはそのせいだろう。
「屋根に乗る」
「はい」
白抜炙は手近な家に向かって跳び、同様に地面を蹴った朱翼を引き上げた。
彼は屋根に逃れた村人達の背に剛身符を張り付けて回りながら、村の外に逃れるように指示を出していく。
符で増強された脚力に追い付ける程には、子患の足は速くない。しかし、誰かを担いで逃げ切れる程に遅くもない。
必然、逃がすのは一人ずつになり、そうして村人を逃がすのにも限界が来た。
符の枚数は無限ではない。
女や子どもを優先し、最後の金剛身符を張った子どもが村の外に逃げるのを見届けてから、白抜炙は残った村人を穀物蔵の上に集めた。
「風信」
村に入る前に二枚に割った木符を取り出し、白抜炙は起呪を唱えた。
声を伝える符だ。片割れを持った烏から返答があった。
「どうだ?」
『逃げて来た人達は全員、無事に確保したわ』
「山まで連れて行け」
『貴方達はどうするの?』
「生き残った連中は、倉の上に集めた。子患は手が出せない筈だ」
『分かった。気をつけて』
烏は無駄口を叩かなかった。
沈黙した符を腰袋に戻し、白抜炙は周囲を見回す。
噛まれた者の数は思った以上に多く、白抜炙が舌打ちした。
今度は二人で、手分けして水の符を怪我人の傷口に張り付けて行く。
「痛んでも、死にたくなければ剥がすな。清浄な水気は魔毒が回るのを遅らせる」
「白抜炙」
声を掛けられてそちらを見ると、トモエは、両腕に無数の小さな噛み傷を付けた長老を抱えていた。
長老はぐったりと体を横たえている。
どうやら、トモエを庇って噛まれたらしい。
「長老」
声を掛けると、長老が目を開いた。
「おお。【鷹の衆】が来てくれたか」
「少し滲みる。口を閉じててくれ」
白抜炙が腕に符を張り付けると、長老は呻いた。
「村を、お助け下され」
長老の目をまっすぐに見て、白抜炙は頷いた。
安心したように再び目を閉じた長老達から少し離れて、朱翼は問い掛けた。
「御頭達を待ちますか? 師父を呼んで来てくれれば……」
「俺達にも、まだ出来る事があるはずだ。これ以上死者が出るのを、御頭達が来るまで黙って見ている訳にはいかねぇだろ」
朱翼には、白抜炙は最大限出来る事をしているように見える。
だが、村の中には既に村人の死体が何人も転がっていた。
朱翼は、時間が経てばさらに死者が増えるかもしれない、という白抜炙の危惧も察していない訳ではない。
「方策はある筈だ。せめて怪我人を守りながら村の外に出せる程度に、水魔の動きが鈍れば」
真剣な目で、白抜炙は眼下を見据えていた。
子患はどこにでも入り込み、斬撃が有効ではない。
弥終の槌のような打撃なら叩き潰せるが、そんな方法で虱潰しにしている余裕はない。
まして、こちらは現状たった二人。
「土の呪紋は効果がありません。陰の[場]では相生よりも相剋が優位ではありますが」
状況が悪過ぎる。
元より、大規模な術式は効果の及ぶ範囲の大きさに反して威力が弱まるものだ。
なのに[場]は陰金水。
金水の気は今、本来相剋関係に在る筈の火土の気すらも呑んでいるのだ。
状況を打開する為には結界によって[場]を整える必要があるが、村に入る前に白抜炙が言ったように、符術用の五行符では強力な結界を敷く事が出来ない。
「木行術ならどうだ?」
水気を使用する木行術ならば、水生木の関係から大規模な術の行使が可能だ。
と、白抜炙は考えたのだろう。
しかし朱翼は、問いかけに首を横に振る。
「小規模な術式ならば有用ですが、村全体に効果を及ぼすような規模になると金剋木の関係からやはり結界が必要です」
五行術を使うのに優位結界を敷く必要があるのと同様に、今の状況で広範囲な木行術を行使する為には相生結界を敷く必要がある。
しかも生剋結界は、五行結界よりも高位に属する術だ。
朱翼の練度では、生剋結界自体を敷く事が出来ない。
「結局、今の状況で一番効果があるのは金水の術か」
白抜炙が怪我人に使用した水の符も、通常より効果が強く、消毒だけでなく軽く沈痛の効果が発現していた。
「はい。ですが子患は」
「分かっている」
子患に、水行術は無意味だ。通常であれば魔に対して同じ性質の術式は効果が薄くとも効かないという事はない。
だが、子患はその体の特性上、水を吸収する。
水を媒体とする術式自体がそもそも無意味なのだ。
「水を吸うのなら、その性質を逆手に取る事は出来ませんか?」
不意に背後から声を掛けられて、二人は構えながら振り向く。
そこに、一人の女性が立っていた。