プロローグ
桜舞う季節。僕は23歳になり、大学を卒業して故郷へと電車で帰ってきた。
僕の故郷は富士山のふもとにある工業都市。
故郷に近づくにつれ、富士山はその姿を徐々に表にしていく。
こう改めて富士山を見てみるとやはり壮大としか言い表し様のない山である。
朝の東海道本線は珍しい程に混雑していた。
何故かというと今日は県内で一斉に高校の入学式があるからだ。
新入生と思われる真新しい制服を着てそわそわしている学生達。
化粧をしてめかしこんだ気合の入った保護者。
僕自身もスーツを着て、これから始まる新生活のこと思い巡らせ緊張していた。
僕は関東のとある国立大学の理学部数学科の大学を出て、静岡県の高等学校教員採用試験に合格し、新任の数学教師として4年ぶりに母校へ帰ってきたのだった。
もし「今の僕」が「4年前の僕」に会って「4年後の僕は新任の教員として母校に帰ってくるんだよ」と話すことができたとしたら、「4年前の僕」は絶対に「今の僕」の言葉を信用しないだろう。
なぜなら、高校時代の僕は主観ではあるが恐らく学校中でもトップクラスの学校嫌いであったからだ。
僕は高校時代クラスメイトの誰ともほとんど口を利かず、専ら携帯音楽プレイヤーのイヤホンで耳を塞ぎ一人で読書や勉強に没頭しているという変わり者であった。
別に好き好んで一人でいたというわけではない。
小中学校時代は自然と友達ができたし、そう孤独な学校生活を送っていたというわけではなかった。
ただ何となく、その時代は新しい友達というものを上手く作れなかったのだ。
それは急速に子供から大人へと変わっていく過度期だったからかもしれない。
人と上手く関われなかったし、上手く喋れなかった。
そんな僕が高校教師になるなんて、「4年前の僕」には一切の想像がつかなかっただろう。
高校時代の僕はクラスではいつも一人ぼっちであった。
かといって、僕の居場所がこの学校で全くどこにも無かったかというとそうではない。
母校は県下有数の進学校であったが、文武両道という校風のため、部活動は全員強制加入であった。
僕は吹奏楽部に所属しており、コントラバス(見た目はバイオリンを人間以上の大きさに巨大化させたようなものである)奏者であった。
吹奏楽部には、中学時代からの親友がいた。
親友の名は昭平といい、高校でも成績優秀、生徒会長を務める程の優等生であった。
昭平には朋子という女の子と付き合っていた。昭平と朋子は家が近所で幼馴染であり、朋子は抜群のルックス、スタイルに恵まれ、誰もが羨ましがるようなカップルであった。
朋子もまた吹奏楽部員であり、昭平はサックス奏者、朋子はフルート奏者であった。
吹奏楽部では、僕と昭平、そして朋子の三人でいることが多かった。
三人で放課後の部室に入りびたり、たわいもない話をしたり、曲を三人で自由に気の済むまでアンサンブルしてみたり。
僕はそんな三人で部室に残っている時が学校で唯一、楽しい時であった。
昭平とは昔から不思議と馬が合っていた。
彼の冗談は面白かったし、彼の物事に対する考え方は僕にとって斬新で、新鮮なものに感じた。
また、彼自身も、おそらく僕にどこか友達として惹かれるところがあったのだろう。
僕と彼は、中学時代、自然に親友となり、自然と同じ高校に進学し、彼の誘いで、同じ部活動に入った。
彼の存在は大きかった。もし彼がいなければ、高校時代の僕は恐らく完全に孤独であり、精神を病んで不登校になっていたかもしれない。
一方で朋子はというと、中学時代、僕は全く彼女と話したことが無かった。
高校になってから昭平を介して彼女と話すようになったが、僕は彼女の本質が掴めなかった。
彼女は人を褒め、人を良い気持ちにさせることが得意であった。
彼女の人気の理由は、見た目だけでなく、この能力にもあったのだろう。
しかし、僕には彼女がいつも彼女自身の本当の感情を殺し、相手が喜ぶ答えを選んで会話をしているように思えた。
彼女はまた、何か相手に求められたら、何事でも相手の要求を受け入れてしまう、つまり相手の要求を断れない人だった。
彼女は中学時代、その弱さに付け込まれることが多かったようだ。
昭平は昔から弱い者いじめを嫌う、正義感の強いタイプであった。
おそらく彼は朋子の美しさに惹かれるだけでなく、彼女の弱さに、庇護欲が駆り立てられ、彼女と付き合っていたのだろう。
電車は母校の最寄り駅へと到着した。
たくさんの学生もまた電車を下りていく。
僕は学生に交じり、母校の方向へと歩を進める。
通学路を歩く。
田舎だ。
周りの景色は4年前と全くと言っていいほど変わっておらず、僕は自分が急に高校時代にタイムスリップしたかのような錯覚になる。
忘れていた感情、言葉にできなかった当時の想いがよみがえって来る。
徒歩で数分歩き、母校についた。
僕はそのまま正面玄関から校舎に入り、職員室へ行こうと思っていた。
しかし、右手に吹奏楽部の部室が見える。
僕は立ち止まり、その部室のほうを見た。
そこにいた二人の男女の吹奏楽部員。
二人は楽器を持ち、部室の前の階段に並んで座り、何かを話し込んでいる。
僕はその二人が昭平と朋子であるような錯覚に襲われた。
口が塩辛い。
僕ははっとした。
いつの間にか僕は涙を流していたのだ。
僕は涙をスーツの袖でぬぐった。
そして自分にしか聞こえないように小さく呟いた。
「昭平、朋子、僕は帰って来た。でも君たちは、もう…帰らない…いや、帰れないんだな」
僕は涙をぬぐって前を見た。
目の前を二枚の桜の花びらが舞い落ちていった。