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DtD  作者: 逍蕾花実
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DtD 3

DtD - Her story3


 どうも時間感覚がおかしくなっているようだった。

 もう何日もの時間が経過しているような気がしたが、夢が覚める気配はなかった。

 不思議なことにお腹が空くわけでもないし、眠くなるわけでもない。夕日に照らされる凪の海のように、どこかもの憂げな塊が心の底に重たく居座り、肉体的な感覚を薄れさせているようだった。


 両親の二十年も前の行動をつぶさに観察させられるのには飽き飽きしていた。

 そこで結加はこの奇妙に変貌した世界そのものに興味を向けはじめた。


 つまらない試みだけど、とりあえず体の向きを変えることに意識を集中した。すると時間と空間から成る時空が新たな様相をみせていることに否応なく気づかされた。

 指先が何かの圧力を感じた。

 これまでの三次元的な世界の捉え方に加え、もう一つの次元がそこには確固として存在していた。

 それは「時間」だった。

 

 力をこめて時を縮めると、時は速やかに濃密になった。

 この感覚はどんなに言葉を尽くして説明しても、円と同面積の正方形を求める様なもので、どうしても近似的なところまでしか伝えることはできない。生まれつき腕の欠けた人に、腕の動かし方を伝えるようなものだ。

 

(時が見える……)


 それは単なる人間には絶対に到達不可能な知覚様式だった。


 人間は時間というものを直感的にとらえる術を持たない。過去にあったことは、ただ記憶にある(もしくは物証がある)というだけで実際に過去に移動できるわけではない。当たり前だが、現時点に過去の時点は存在していないのだから。

 未来のある時点で自分が死ぬことは誰でも知っているが、ただその時点が必ず来ることを知っているだけで、その未来の時点は現時点に存在していない。

 未来は単なる「予想」に過ぎず、それが100%確実に起こるようなことでも存在しない。

 現時点という切片の外の「時」は全て、「記憶」か「予想」の中に存在するだけ。無限に短い狭間の世界で人は生きている。その外のことはなにも知覚できない。

 

 時間とはなんなんだろう。時はこの宇宙の全物質を過去へと置き去りにして、いっさい手を触れることのできない過去にFIXしたオブジェクトに変貌させてしまう。どうやって?

 時は未来の物質を現時点にたぐり寄せて干渉できるようにしてくれる。どうやって?

 結加にはその疑問がばかばかしく感じられた。


 (こんな簡単なことがわからなかっただなんて!)


 以前の自分が、夜空に浮かぶ月に手を伸ばして、それをつかめないことを訝しむ猿のように滑稽に思えた。


 時は過去から未来に流れるものだと思っていたが、そんな単純なものではなかった。

 人間は時から切り離されて生きてきた。時間はとらえようとしたその瞬間に手のなかで崩れ、微塵の霞みとなって記憶の彼方に飛散してゆく定めだった。

 結加が投げ込まれたこの世界では、時は手に取ることができた。

 いまの結加は「時の種族」だった。


 結加は空間と社会から離れて歴史の中を泳ぐ能力に夢中になった。

 意識の翼を一振りすると時が薄く圧縮され、両親の姿がぼやけてみるみる小さくなっていった。そしてパッと別の大人に変化した。


 それは若かりし頃のおじいちゃんだった。

 やはり逆回しで工場とアパートの間を往復していた。アパートではお婆ちゃんがちょこまかと忙しげに家事を繰り返していた。

 祖父母がお見合いをして、若返り、学生を経て子供に戻った。


 そしてまた青年が出現した。

 青年は結婚し、軍艦に乗り、田舎のわらぶき屋根の下で模型の船を組み立てる少年に返った。

 その次はもうまったく見知らぬ男女の連続だった。男の容貌は痩せて貧相になり、小学生のように小柄な女たちは色あせた和服を身にまとっていた。

 人生のハイライトがサブリミナルな速さで訪れては、別の人生がはじまった。人生は変わり映えのしない農作業の連続に変貌し、江戸時代の奥深くへと突入したことがわかった。

 

 一つの人生が過ぎ去ると次のがはじまり、その人生も過ぎ去って次のに移った。

 ときには翼を休めて、ある時代をつぶさに眺めた。

 現代の日本人とはあまり似ていない人たちが、現代の日本人と同じように欺瞞の人生を歩んでいるのを知った。素朴な村の生活にすら「政治」があった。名主様にへりくだり、公認の正義には疑問も持たずに平伏し、行商人にはつらく当たり、よそ者を排斥した。転がり込んできた遠い親戚の子をいじめて、自分の子とは食事の量に差をつけるのも目撃した。

 時代が変わっても人の心は変わらなかった。


 見知らぬ男女が肌を合わせる場面にでくわし、慌てて過去に潜ることも数回あった。興味がないといえば嘘になるけど、ご先祖様の秘め事をのぞき見する気にはどうしてもなれなかった。


 長い年月が経った気がした。

 10年? 20年?

 もっとかもしれなかったが、時の捉え方が本質的に変わってしまった今となってはあまり気にならなかった。

 時間には、単純極まりない三次元的メタファーとしての距離=量はなかった。

 

 寿命が短くなったのか、さらに男女の入れ替わりが早くなっていた。衣服が織物から毛皮に変化し、土器をつくり、縄で模様をつけていた。

 狩猟採集の時代に入っていた。

 

 いきなり風景が一変した。ご先祖様がどこか遠くに移住したようだった。

 身を引いて天に視点を移すと、彼らがユーラシア大陸に渡ったことがわかった。北極の氷冠が大きく南に張り出していた。


 生活はますます単調で見るに耐えないものになっていった。

 子供や夫、妻があっけなく死んでゆく。現代人の感じやすい心ならば、苦悩と絶望のあまり自ら死を選ぶような過酷な出来事を、彼らは何でもないことのように乗り越えていた。

 その短く厳しい人生は「生きる」という課題をこなすだけで精一杯で、死を想うなど想像もできない贅沢のようだった。


 ひもじいと泣く子供に食べさせて、自らは水だけを飲む親の姿。家族を守るために戦い斃れた父親の亡骸。

 豊かさと教育から徹底的に見放され、それでも能力の限りを尽くして生き続ける彼らの健気さを――結加は直視することができなかった。

 彼らの生活を自分の甘ったれた態度に引き寄せて考えると、恥ずかしくて仕方がなかった。

 これほどの努力と献身の果て――山と積みあがった無上の愛と真摯な願いの遺産の天辺で――結加たちの世代が「空しい」だの「だりー」だの文句を垂れて勝手気ままに振舞っていたことを悟ったからだ。


 結加の心に痛みが走った。


 (勇者なんかじゃない。戦って戦って、傷ついても生き続けることが勇気なのに。Kちゃん……)

  

 結加は地表に意識の焦点を切り替えた。

 googleマップを地球俯瞰視点から拡大するようなお手軽さで、地表すれすれに視点が舞い降りた。

 時間を思い切って緩めると、ぼさぼさの髪に動物の骨を刺し、子供を膝に乗せ母親が写真のように動作の途中で静止した。


 (過去を変えられれば……)


 結加は親子に手を伸ばした。

 何の抵抗もなく、結加の手は子供の頭を通り抜けた。一切干渉はできなかった。

 時間の種族でも、過去を変えることはできない。死は一度きり、宇宙はその変更を認めない。Kちゃんの死も一度きりのものなのだ。


 もう一度子供を見やると、母親を見上げてあどけなく微笑んでいた。短く厳しい将来のことなど、まるで知らずに。


 結加は肩を落として時間の彼方へ先を急いだ。

 ご先祖様の顔は広くなり、額は後退して、瞳はどこを見てるのかよくわからない黒目がちなものになっていった。石器を手放し火を忘れ、洞窟を離れてサバンナをさまよい、木の上に棲家を移した。


 類人猿に分岐していた人類はチンパンジーと合流し、系統樹のさらに根元深くへ潜っていった。

 人類は四つ足のイタチのような艶々した毛皮の生物を経て、みすぼらしいネズミ様の生物へと転落した。太陽と月は時間の圧縮によって天空にかかる眩しいアーチに変じ、地軸のゆっくりとしたブレに合わせて上下に揺れていた。

 地球の大陸は離合集散を経て次第に小さくなり、結加の目に太陽の光は僅かだが青みを増しているように思えた。

 

 ご先祖様は海に戻り、白っぽい魚に縮んだ。そして魚がパッと消え、力なく波間に揺れる半透明の粒へと姿を変えた。

 この多細胞生物の時代は長く続いた。

 地球は何度か氷に閉ざされ、時には沸騰せんばかりに熱を帯びた。多細胞生物は氷や熱を逃れて海底の熱水噴出孔や地下深くの鉱水に逃れた。環境が良くなるとさっそく広い海に帰るものの、また激しい変動に追い立てられて暗い待避所に逆戻りしたりを繰り返した。


 終わりの見えない旅は続く。

 結加の胸に恐怖が兆した。


 (これは走馬灯なのだろうか。もしかすると知らないうちに命が尽きて、いま召されているところなのか。この旅の果てには何があるんだろう。一番最初の祖先に行きついたら、Uターンしてまたもとの時代に戻るのかな。それとも、宇宙の始めにまっすぐ飛び込んで無に帰する? 死ぬってこと? いやだ!)


 絶対に死にたくなかった。鎖をつなぐ一つの環――無数の平凡な環の一つに戻れれば、これ以上の喜びはない。

 想像を絶する幸運なのか必然なのか知らないが、結果論的に一度として途切れず続いてきた命の連鎖。時の回廊に響く、ご先祖様たちの哀切に近い真摯な願いを目撃したいま、生活に驚異がないなんて二度と考えないだろう。

 生きていることは驚異、自分が存在することそのものが驚異なのだ。生そのものが尊かった。


 (こんな当たり前のことにどうして気づかなかったのかな。誰の仕業にせよ、これは「当たり前」を悟らせるための、わたしに対する特別の配慮なのかもしれない)


 結加はハッとして周りを見回した。

 玲瓏たる思考がどこかから結加の意識に注がれたような気がしたからだ。


 (この一方通行の旅から逃れる術がないことと、生きることは何の関係もない。人生の苦楽や長さも問題じゃない。なら、この旅の行方がどこかなんて関係ないじゃない。死ぬまでは生きているし、生きているうちは死んでない)


 目が覚めるような認識だった。

 これは結局のところ新しい自己欺瞞なのかもしれない。そんな疑惑は拭えなかったが、それでも気分的に少し楽になった。

 

 険しいスペクトルの光をまき散らす若い太陽の周りを巡る原始の地球は、高温高圧の大気をまとい、赤黒い雲の渦巻く惑星に変貌していた。


 その荒々しい原始の海には生物――ある有機化合物を複製する機能をもつ分子の集まり――が、生物と物質の狭間で、必死にカオスから秩序を編み出していた。震える分子の鎖――それが究極の祖先の姿だった。

 周囲には同じように誕生のチャンスをつかまえた“生物”たちが群れて、試行錯誤の果てに未来を切り開こうとしていた。結加のご先祖様は、そんな競争相手の中で新参でも古参でもなく、優れているわけでも強くいわけでもない一群に属しているようだった。

 

 

 

 ミクロの世界に焦点を合わせていた結加は、月が落ちてくることに気付かなかった。

 分子の鎖が解け、結加の目の前でアミノ酸が海水に溶けた。そして、いきなり白熱した光に視界が満たされた。

 

 すぐさま海が復活した。

 地球は月を失い、太陽の周りを巡っていた。

 海中には、さっきまでより多様で豊かな生物がうようよしていた。

 結加に繋がらない、失われた生物たちだ。

 

 それらの見慣れぬ生物も消え去り、地球から岩石の雨が宇宙に飛び去った。周りにガスが立ち込め、太陽の輝きがガスの向こうに赤くかすんでいく。

 そして、結加は暗闇の中に取り残された。

 太陽が生まれる前の時代がはじまったのだ。

 

 空間は捉えどころがなくなり、そんな中で時間だけが確かだった。


 (孤独だ。わたしは孤独だ)


 寄る辺ない心細さが忍び寄ってきた。

 血のつながった類縁は絶え、ひとりぼっちだった。


 結加は恐怖を振り切るかのように勢いをつけ、時間の奥、向こう、果て……人間の三次元的な空間表現ではどうやっても説明できない方向へと突進していった。

 

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