DtD 2
DtD - Her story2
結加は部活動をしていない。学校から逃れて一刻も早く家に帰る。それだけが望みだったからだ。
締め切った自宅の中は、この家独特の臭いが満ちていた。どの家でも持っている固有の臭い。結加にはそれが腐臭なのか芳香剤の香りなのか、もう区別できなくなっていた。
テーブルの上のメモを手に取った。
「病院に寄って帰ります。先にごはん食べてね」
結加の両親は共働きだ。兄弟はいない。一人で食べるのはいつものことだった。小学生になってからだから、もう10年近く親とはすれ違いの時間を過ごしている。いわば親とは、朝晩だけ顔を合わせる家の共有者みたいな感じだった。
朔日家は裕福だ。結加にははっきりとはわからないが、世帯収入は1000万円をゆうに超えていると思う。
それでも何かに追い立てられるように働く両親の気持ちが結加にはよくわからなかった。
おそらく、それがお父さんとお母さんの信仰なのだろう、と結加は推測していた。
必ず訪れる死から目を背けるには、何かに熱中するのが最も良い目くらましになるから。仕事と金銭の神の前にひれ伏して、自分をごまかしている。信仰なんて所詮は自己欺瞞の道具なんだ。
家族のため、結加のために働くんだと自分を騙し、他人よりも良い収入と裕福な家庭を自慢し、成績優秀な娘を誇り、健康に気を使い、他人よりも少し長生きしたことを喜びつつ死んでいく。
世俗的な救い! この上なく下らない信仰の救い!
結加はメモ紙を握り潰した。
(あの人たちは、他人と比較しないと幸福を幸福と感じられないんだ。わたしはあの人たちの自己満足のためだけに、いい子でいなくてはならないんだ)
階段をのぼり、自分の部屋に入った。
結加は姿見に映る制服の自分に目をとめた。
立ちくらみのような浮遊感が襲い、またもや気分がどん底まで落ち込んだ。鏡の中の少女は、母親そっくりの顔だった。
制服を脱ぎ捨て、下着だけになった。
傷一つないなめらかな体。若く健康な肉体。
(なんのために生まれてきたのだろう)
結加は暗い気持ちで考えた。
親戚からも近所のおばさんたちからもいい子だと褒められ、うらやましいと褒めそやされて。
この家の前を通る人はきっと、屋根いっぱいにソーラーパネルをのせたこの立派な家の持ち主を羨望のまなざしで見るだろう。理想の家庭のイメージをこの家に見るだろう。
他人にそう思われているかもしれないことに、結加は吐き気を覚えた。
結加は下着を取り去ると全裸で窓の前に立ち、自転車や歩行者が行き交うのをカーテン越しに見つめた。部活帰りらしい男子学生が、退屈そうに通りの壁際を歩いている。
このカーテンを引いたらどうなるだろう。確固とした理想の家庭なんて、常識なんて、狂気と破滅から薄布一枚で隔たっているだけなのに。
結加はカーテンから手を離し、ボフンとベッドに飛び乗った。
自分に破滅するほどの勇気がないのは知っていた。人生において、特別な、普通でない経験など待ち受けていない。くだらない毎日が延々と続くんだ。
(だって、わたしこんなに普通だもん。卑怯者だもん。わたしなんかに奇跡なんか訪れるわけない)
目をつぶると、すぐさまKの浅黒い顔が心に浮かんだ。いまや結加のもとを永久に去った勇者の顔を。
その横顔、笑顔、すねたように口を尖らせた顔、心配そうな顔などがフラッシュバックした。そして、裏切られたことを知ったときの絶望の顔も。息を飲んだKの見開かれた大きな目が、まだわたしを見ていた。
結加は枕に顔を埋め、両耳を手で押さえた。
Kの控え目な笑い声が脳裏によみがえったからだ。
(この責任を一生背負っていかなければならないの?)
「Kのような勇気をください、Kのような勇気をください」
そんな勇気が自分の中に無いことを知りつつ、結加は枕の中に繰り返し願いを注ぎ込んだ。
あるアニメの中の台詞で、「優れている種族の中の秀でていないものと優れていない種族で秀でているものでは後者に敬意がはらわれる」と聞いたことがある。
成績でも容姿でも、結加は間違いなくKより上だった。でも、そんなことに何の意味があるのだろう。優れていることが大切で、劣っている弱者は大切ではない人間なのだろうか。弱者は生きている価値も強者より薄いのだろうか。
結加よりも優れた人は星の数ほどいる。より優れた人と比べれば結加に生きる価値はないのだろうか。ならば人類の中でもっとも優れたただ一人を除いた全人類は、必要のない弱者なのだろうか。
優劣の基準はそもそも何なのか。環境に対する適応度? 進化論的見地に立てばそうかもしれない。
でも、過剰な適応の果てにあるのは滅亡、死そのものだ。長い目で見て誰が優れている、劣っているなどと言えるのは神だけだろう。それなのに人間は弱者を弱者ゆえに差別し、Kのように死に追いやった末に自業自得だと笑いものにするのだ。
人間は残酷だ。ほとんどの人はそれに目をつぶり、自らを善人だと思い込んで生きている。結加は自分の残酷さを痛いほど悟っていた。
(誰もかれも不潔。この世界でまともな人は、生きているのもいとわしい。 ――でも、そう言うわたしも不潔なのよ)
人生の前途には、他者との比較に自己満足しつつ、ひたすら損をしないように如才なく生きる、退屈な未来が待っていることを結加自身が悟っていた。その意味で世界は無意味であると同時に不潔だった。
(本当に無意味ね。この若さも、青春も、全て。神様が生きる意味を啓示してくれればいいのに。それが叶わないのならば、いっそ今すぐ年老いて死にたい……)
枕から顔を上げると、濡れた面を裏返しにした。
家に満ちた臭気の代わりに、草原を渡る風の香りがした。シーツの感触の代わりに、短い草のしっとりと生気にあふれた葉が手に触れた。
「え?」
結加の部屋と草原が重なり合っていた。
瞬きしても消えない。
突然の恐怖が襲った。
(わたし、気が狂ったの?)
右目は草原を、左目は枕を見ていた。
(これが狂気?)
左目をつぶって草原だけを見ようとすると、緑の光景は幻のように消えた。
見えない何かの存在が、現実の外にあったりするのだろうか。
結加は頭を振った。考えてもわからない。
(でも、もしそうなら、この退屈な世界も少しは楽しくなりそうだけどね)
結加は寂しげに笑うとベッドから降りた。
台所で水でも飲もうと思い立ち、服を着ないままドアに手をかけた。
ドアの向こうには、住宅街が広がっていた。とっさにドアを閉じようとしたが、それはなぜか消え失せていた。背後にあったはずの部屋までも。
全裸で道路の真ん中に放り出された。
結加は完全にパニクった。
悲鳴をあげてしゃがみこむ。そんな真似をすれば声にひかれて野次馬が来るに決まっているのに。
人影が近寄るのを察して、結加ははっと身構えてそちらを見た。
若い男が後ろ向きに歩いていた。
どう見てもおかしいヤツだが、結加は気が付かなかった。
「いや!」
胸を隠すべきなのか、下を隠すべきなのか、混乱して手がもつれた。バランスを崩して、最悪なことに尻もちをついた。いや、尻もちをつくはずだった。
生尻は勢いのままにアスファルトにめりこみ、腹から上だけが地面から突き出した状態で安定した。
(なにこれ、なんなの!?)
明らかにおかしいことが他にもあった。
道行く人はだれも結加に感心を払っていない。そのうえ、全員が後ろ向きにせかせかと歩いている。
結加はこれを夢だと結論した。
ベッドで泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまった。それがもっともありそうな仮説だった。
夢ならば何でもありなんだから、裸で街中を練りウォーキングでもしようか、と悪戯っ気が湧いてきた。
(あれ、でもどうすれば立ち上がれるの?)
地面に半分めりこんだまま、結加は人が歩くほどの速さでするすると移動していた。
何の支えもないから力を込められない。手は地面にあっさりと埋もれた。
もがいていると、見覚えがある場所に出た。
そこは数年前に再開発される前の駅前だった。今は取り壊されているが、駅前のイトーヨーカ堂でアイスクリームを買ってもらった記憶が蘇った。
どうやら結加は、さっき通りかかった20代後半くらいの男に引っ張られているようだった。男の移動に合わせて結加も自動的に移動していた。
男は突然立ち止まるといきなり片手を挙げた。
一人の女性が男に近づいて、親しげに会話しはじめた。
その女性は――若い頃のお母さんだった。
(ってことは……つまり)
男は若かりし頃のお父さんだった。
お父さんとお母さんはデートに行っていたようだった。どうやらこの逆回しの世界では、これからデートを楽しむことになるようだが。
子供のようなお父さんの笑顔があまりにも普段のイメージと違って、結加は目を疑った。
(あんなにかわいい笑顔ができるだ、お父さん)
意外な一面だった。
結加は次はどうなるんだろう、と興味を持って二人の様子を眺めた。