DtD 1
DtD - Her story1
朔日結加はクラスの中で浮いていた。
もっとも、担任は自分のクラスで浮いている子がいることに気づきもしないし、結加の両親も知らないことだ。しかしクラスメートは誰もが不文律としてそれを知っていた。
昼食はいつも一人でとった。結加の周りだけドーナツ状の無人地帯が現れた。
結加が不良だとか、何かイタイ行動をとるわけでもない。成績は学年で10位くらいだから、かなり優秀といえるだろう。中学2年では学級委員も経験している。教師の受けも良好だった。
結加の学校は県内随一のお嬢様学校だった。
小学校の教師すべてに秀才の太鼓判を押されていた結加は、親の希望するままに小中高一貫校を受験し、中学一年から転入した。
クラスで強い立場にあったのは、最初から確固たるトモダチ関係が出来上がっていた付属小出身の女の子たちだった。上履きに画鋲セッティングがリアルにありえそうな女子オンリーの花園には、中学の最初から陰湿な気配が立ち込めていた。
最初に血祭りにあげられたのは、肌が浅黒くて小柄なKという子(外部転入組)だった。
その子がクラスの実力者グループ(なぜか全員が判で押したようにキラキラしたオシャレな子たちだった)から無視されはじめると、クラス全体が同調した。
彼女は「手乗り猿」と綽名された。手乗り猿のロッカーだけ荒らされ、鞄がゴミ箱に突っ込まれ、外を歩いているとミカンの皮が投げつけられた。
それでも手乗り猿は明るく振舞っていた。教師にも相談しなかった。
おそらくそれがいけなかったのだろう。手乗り猿のガードが固いと見て取ったキラキラグループは、結加に話しかけてきた。
結加は真面目なガリ勉キャラとみなされていた。
クラスに馴染めないでいた結加は、キラキラグループの誘惑が天の助けにも思えた。
キラキラグループの思惑ははっきりしていた。それに気づかないほど、結加は鈍感ではなかった。悩んだが、結局はイジメの御先棒を担ぐことになった。
手乗り猿の心理的ガードがいかに鉄の固さを誇っても、苦しいのには違いなかっただろう。正面突破が無理ならば、ギリシャの昔からトロイの木馬が有効だった。
結加はオトモダチを装って近づき、まんまと手乗り猿の信頼を勝ち得た。手乗り猿の家族構成から生理予定日まで、調べ上げたことは情報共有アプリで加害者全員が知ることとなった。
具体的なデータを得て、入念な人格攻撃がはじまった。
親友の裏切りを知った手乗り猿は不登校になった。
これは結加が恐れていた展開だった。
イジメのターゲットがいなくなれば、仲間内から新ターゲットがセレクトされる。この学校という狭い世界では、スケープゴートが常に必要なのだから。
もちろん、次のターゲットは結加本人だった。
無視はまだよかった。気のせいかと気をもむほどに、かすかに低く聞こえる心無い悪口が、本当に聞こえたことなのか、それとも結加の心が生み出した幻聴なのか判断できないのが最も苦しかった。
結加が瞬く間に人間嫌いになったのは自然な流れだった。うつむいて、これまで以上に本の世界に身を寄せるようになった。
本の中に登場する理想化された人間関係は、現実には存在しなかった。現実の人間の、あらゆる行為に利己主義の表れがみえた。
テレビをつければ、どこかの被災者の健気な笑顔がクローズアップで映っていた。まるで、いつもニコニコうれしいふりをしていなくてはならないかのように。
「かのように」じゃない。確実に「そうでなければならない」のだ。
だって、どんなに辛いことが身の上に降りかかっても、被災者は健気に頑張り続けることを期待されてるんだから。辛そうな顔をみせるのは「大人げない」ことであり、撮影しているテレビ局や視聴者にとっては「迷惑なこと」なのだから。その空気を読んで、どんな心の叫びが内心に渦巻いていたとしても、それを隠さなければならないのだから。
結加は世間の求める「がんばろう」同調圧力も嫌いだったし――他人と対立したくないばかりに自分を押さえつけてでも笑う人のいることはもっと憎々しかった。
その笑いの根底には、誰かの望む空気に背くことで仲間外れになりたくない、傷つきたくない、という利己主義が見え隠れしているから。それは思いやりと同義ですか? そうでしょうね。でもその根底には、他人へのおもねりが隠されていた。
スタンダードに外れる行為はすべてあやうい。正しいと世間に見なされているものは無限に正しい。だからそれに反する者はイジメられる。
普段から世間で「正義」とされていることに従う太鼓持ちたちは、それになんの疑問も抱かずに、本当の気持ちを抑圧し、ひたすら「思いやり」の功徳を積み上げる。
天に届かんばかりの思いやりの真下で、善人たちは溜まりに溜まった我慢のマグマを煮えたぎらせ、攻撃してもよい場合にだけ正義に反する「悪人」を一斉に袋叩きにする。どうして善人どもがチャンスを見逃すだろう。
相手にごく僅かでも非があれば、その非を建前に何をしても許される。なぜなら正義だから。罰を下すのが善であるかのようによってたかっていじめつけ、善人たちは気持ちよく得意になれるのだ。
世に稀に生息する正義感が強いといわれる人ですら、結局のところ人生の至上命題は自分の利益だけで、全ての行動原理がそれに結びついている。
イジメの発生を察知した第三者は、たとえその人がどれだけ正義感が強いとしても、たいていは用心深く傍観的な態度をとる。集団でいじめる加害側を糾弾しないのは善で、イジメの和を乱すことは空気を読まない行為、すなわち悪であることを知っているから。
――偽善、ここに極まれり。
それにしても、なぜそこまでできるのか?
なぜなら、安全保障の輪から外れた者は、もはや「空気」という統一的価値観を一切疑問もなく受け入れられる「自称」善人たちに反抗する術を持たない。だからいくらイジメても害にならない。イジメられる本人を除いては。
これ以上このことを考え続ければ、取り返しがつかなくなることを聡明な結加は知っていた。人間の隠し持つこの深淵は、結加を殺すだろうことを予感していた。それでも、掘り下げるのをやめられなかった。
身体に障害がある人を差別するのは悪だ。人種や性別の違いで迫害するのも悪だ。だがイジメは善だ。
善悪は、ある行為がその集団内で公認されているか否かによって決まる。コミュニケーション能力に優れ、要領よく多数派の集団を形成して孤立を回避できる強者にとり、イジメはまったく不利益にならない。
一方、例えば人種差別のようなある集団間の差別は、集団内の強者にも弱者と等しく実害が降りかかる。だから人種差別は強者によって「公認された差別」となったのだ。
単純に自明なこと――それは、数の力こそが正義、という真理。多数派が正義で少数派は悪。その善性を民主主義が担保している。民主主義とは、少なくとも戦後の日本人にとっては、誰も否定できない公認された「正義」だからだ。
中学3年の春、結加は薄笑いの気配が漂う噂話を聞に挟んだ。
「手乗り猿が死んだんだってよ」
「マジで? 超ヤバいじゃん」
クラスには眉をひそめる者もいた。しかしキラキラグループが「エンドったの? ウケる南無ー」と変顔しつつ両手を合わせるに至り、様子見層も手堅く故人をワライモノにしはじめた。
「とりあえず、おつハムニダー」「ログアウトしましたw」
結加は教室窓際最後部で、震えながら耳をふさいでいた。
イジメる側もイジメられる側も、等しく陰険で下劣な利己主義を隠し持っている。結加にはそれが徹底的に見えてしまった。
はっきりと、目の奥が痛むような鮮烈な光の下に、これからの偽善に満ちた人生航路が果ての果てまで映し出された。
強迫観念に近い熱心さで空気を読み、長いものに巻かれまくり、事なかれ主義を真面目にコツコツと実践し続けなければならない全生涯が、そのどろどろした汚らしい細部は依然隠されたまま、大部においてもう見えてしまった。
聖徳太子の「和をもって尊しと為す」を実践しているだけだと自分に言い聞かせ、流れに逆らわず、議論を避け、疑問を持たず、ひたすら空気の濃い方へ濃い方へと口をパクパクさせて追いすがる卑劣な人生。
そして、そうした集団に依存する態度によって招かれる、いかなる結果にも責任を持たずに老いてゆく。それが結加の、あるいはほとんど全ての人の将来だった。
その未来を変えることはできない。
自論を曲げず、世間の嘲りに耐え続けることは――美しいまま敗北することは――とても難しいことだろうから。
結加は自分がそれほど強くないことを知っていた。
よって、美しくいるためには速やかな死しかないことは、結加にとって論理的に当然の帰結だった。
つまり結加は15歳になったばかりの身で死を願っていたのだ。
◆
結加は電車通学だ。
西武池袋線のとある駅のホームで電車を待っていた。
学校という苦行の場を離れても平和は訪れない。結加の脳裏に手乗り猿の声がよみがえった。
「わたしたち、親友だよね?」
この問いにどう答えたのか、結加にはどしても思い出せなかった。
ふと視線を上げると、駅ビルに入居した大手コーヒーチェーン店が目に入った。何度か手乗り猿と訪れた店だ。
(仕方がなかったの。許してKちゃん)
視線を落として、次の瞬間、膝から力が抜けそうになった。黄色い点字ブロックの欠けている部分に、プリクラが半ばまで挟まっていた。
顔半分で切れていたが、間違いなく手乗り猿の――Kちゃんの固い笑顔だった。あのプリクラは一枚も使わずに自宅の机の引き出しにしまっている。ということは、これはKちゃんのプリクラだ。
どこか結加のすぐそばから、壊れた機械からキーキーと漏れ出るような、人間味の失せた声がした。
「な・ん・で――」
驚いたことに、それは結加の喉から出た声だった。
2番ホームにぃー快速急行ぉー飯能行きの電車がーまいーります、と放送が流れた。
音の方を見ると、電車が近づいていた。
(飛び込んじゃおうか)
心の内でささやきを聞いた。
(どうせ遅かれ早かれあなたは死ぬ。ならば、どうして今死んではいけないの?)
それを禁じる思想の声は、結加の心のどこからも響いてはこなかった。
電車が近づく。
ホームの椅子に腰かけていた人たちが一斉に立ち上がった。風に煽られないように参考書のページを手で押さえた高校生、一心不乱にスマホをいじる主婦っぽい女性、そして薄くなった髪の毛を黒い炎のように頭上に立ち昇らせた壮年男性。そのおじさんの顔には、疲れの色がありありと浮かんでいた。
「いや……」
結加は思わず一歩退いていた。
彼らの立居振舞そのものが、結加に「信じろ、さもなくば狂え」と言っていた。青臭い非現実的なタワゴトには終止符を打って俺たちの仲間になれ、と熱心に差し招いていた。
(そりゃそうだわ、自分を騙して信じてしまえば楽になるでしょ。でも、あんなザマをさらして生きる価値があるの? どうせこのホームにいる人たちはことごとく、100年もしないうちに一人残らず死に絶えるのに)
「いや……」
(勉強、就職、結婚、子育て、老後――このくだらないトロッコ列車の末路には、結局のところ真っ黒な虚無が待ち受けているのに。わたしの子供も、そのずっと先の子孫も死ぬ。宇宙の歴史から見たら一瞬のうちに、人類のあらゆる痕跡もきれいに消え去る。太陽も宇宙も永遠のものじゃない。いずれ燃え尽きるのに)
世代から世代へと、おおむねにおいて順繰りに規則正しく訪れる「死」の存在が、いままでになくはっきりと、実在のリアリティをもって結加の心をかすめていった。それは去っても、結加の身体の芯に恐怖と大いなる虚しさを残していった。
それは身動きを忘れるほどの衝撃だった。
死の姿をこれほど間近にはっきりと見たことは、未だかつてなかった。普通の健康な人ならば、何十年もあとに訪れるはずの、死の厳粛な不可避さが結加の心を打った。
(わたしは死ぬ! 必ず死ぬんだ!)
目の前で電車がゆっくりと停止し、ドアが開いた。動かない結加を追い越して、後ろの人が電車に乗ってゆく。
ほとんど茫然の体で、結加も機械的に動いた。締め出される直前に電車に乗ることができた。
背後でドアが閉まった。
息苦しさのあまり手すりを握ると、その鏡のような金属パイプの表面が溶けて、銀色の涙を流しているように見えてぎょっとした。
反射的に手を離したとき、電車が揺れて足がもつれた。
金属パイプが溶けたように見えたは電車の窓から差し込む光がみせたいたずらだった。
今になって心臓が痛むほど激しく拍動していた。安堵のあまり膝から力が抜けて床に落ちそうだった。
結加は心底からこう思った。
(死ななくてよかった……)
生きていく力が不思議と湧いているのを感じた。
(なぜ? どうして?)
駅のホームには死にいざなう力でもあるのか。それとも、電車という乗り物が含む、目的や目標といったイメージが心から死を遠ざけ、焼けただれた内面を少しだけ健やかにしてくれたのか。それは結加にもわからなかった。