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第三章 勤勉という名の悲喜劇 その3

「私も一杯いただいていいかしら?」

隅井戸はいいよと答えながら、こういうのが嫌いなんだ、俺は。何故初対面の女に、なんだっていきなり酒を奢らなければいけないんだ、と内心思った。そんな事より尚一先生だ。いったい何処に消えてしまったのだ。もし奴がここにはいないのなら、俺がここにいる意味はない。すぐにもこの店を出なければ。そう考えたとき、店の奥から肩幅の広い小太りの女性が入ってきた。そうか、この店にはさらに奥があるんだな。尚一は、店の奥に言ったに違いない。小太りの女はしずしずと歩いてきて、空いている俺の隣に座った。隣に座ったその女は結構年増だ。ピンクのジョーゼットの下にはあまり品がいいとは思えない赤いワンピースを着ている。全く似合っていないとしか言いようのないその姿は、中年女の哀しさを物語っていた。何故こんな年増の女性客がこんな店にいるのだろう。旦那にでも連れてこられたのだろうか。

 カウンターの中のユキが言った。

「尚子ちゃん、何にする?」

「水割り」

 それはまぎれもなく男の声だ。何だ、この女は? 隅井戸は注意深く年増女の姿を観察した。何かがおかしい。何かが異様だ。こいつ、男じゃねえか。おっさんが女装してるんじゃないか。隅井戸はそう気がついて、改めて周囲を見渡した。カウンターで先客の男と談笑している三人の女、ボックス席で男としっとりしている女。どれもこれもよく見たら衣装ばかり派手にこしらえた身体の大きな女……いや、こいつらみんな男だ。ここは! 女装バーか?

 気がつくのが遅過ぎる。なんせ隅井戸はこんな異空間に足を踏み入れた事がない。だとすると、隣にいる女装の男、これこそが尚一? 隅井戸は依頼人から預かった尚一の写真を思い返してみた。横顔しか見えないからなんともしがたいが、隣に座っている奴は、どう見ても尚一と似ても似つかない。そうか、写真では禿げていた頭に、こいつはロングヘアのウィッグを着けているのだ。

 人間の顔なんて、髪の毛ひとつで見違える。まして禿頭に長い髪のカツラを乗せられたら、熟知している人間でも誰だか分からなくなる。ロングヘアだと、顔の輪郭まで見えなくなってしまうのだから。だが、下手な変装は、すぐに分かる。どんなに隠そうとも、とてつもなく不自然さが残るからだ。隣の女装男は、ウィッグそのものも人工的で不自然だが、その被り方がまた堂に入ってない。カツラの下の分厚い皮膚に真っ白な粉を叩き付け、アイシャドウ、ノーズシャドウ、ルージュ、ほお紅、どれもこれもがトゥーマッチで、濃過ぎる。男の顔なんて、隠そうとすればするほどくっきりと表に現れてしまうものなのだ。尚子ちゃんと呼ばれた女装者の横顔を見れば見るほど、隅井戸は汚いものを目にしてしまったような嫌悪感に責め立てられるのだった。

 これは、ご婦人にどう報告したものやら。浮気ではないですよ、ご主人は単に女装クラブで女装して楽しんでいるだけでしたよ。そう報告すれば、ご婦人は浮気じゃなかった事に安堵するのだろうか。それとも、夫のとんでもない醜態に、また悩み始めるのだろうか。しかし、そんな事は俺の知った事ではない。俺は捜査によって獲得した事実を、ありのままに依頼者に伝えるしかないのだ。尚一が何故、浮気ではなく、女装クラブで遊ぶようになったのか。女装して遊ぶのが好きなだけなのか、それとも女装して男としけ込むのが好きなのか。男としけ込んだとして、果たしてそれは浮気と呼べるのか。……そんな事は俺の知った事ではない。俺の役目はこれで終わった。女性との浮気ではなかったと。背広に白粉が付いていたのは、浮気相手の女のモノではなく、尚一自身が自分の顔に塗ったくったものが、背広に付いてしまっただけなのだと。そう真実を伝えるしかない。隠しカメラで撮影した証拠写真とともに、明日、依頼人に見せる。そうして俺の仕事が完了する。その後の事は、夫婦で話し合ってもらうしかない。

「あらぁ、イケメンのお兄さん、尚子ちゃんに興味ありなの? ご紹介するわ、こちら尚子ちゃん。そしてこちらは……あら、お名前聞いてなかったわねぇ」

「サム。サム・スペードだ」

「まぁ。格好いいお名前。お兄さん、外人だったのね。通りでなんだか格好いいと思ったわ、きゃははは」

 この店は女装バーだ。本当の名前を名乗る奴などいない。客がサムだと言えば、それで通るのだ。それに、客も店の女も、どいつもこいつも男だ。最初は男よりも女の方が多い店だなと思ったが、そうじゃない。全員、男なんだ。男ばかりの、男が集まる偽りだらけの店なんだ。隅井戸は吐き気を催してきた。

 正直に言おう、隅井戸は思った。俺は外見や産まれ育ちで人を評価はしない。ゲイであろうが、ホモであろうが、レズビアンであろうが、それ自身は単なる性嗜好の問題であって、人格の問題ではない。ゲイだって優秀な人間は山ほどいる。性倒錯は犯罪ではない。好き嫌いの問題だ。だが、この店にいる女装者たちはもしかしたら犯罪者だ。カウンターの中にいる者は仕事なんだし、何よりも、見た目には女性にしか見えないんだからいいとしよう。だが、カウンターよりこちら側にいる奴らはどうだ。薄暗がりの中で最初は分からなかったが、目が慣れて来ると、尚一を含めて、どいつもこいつも化け物じゃないか。まぁ、この変態クラブの中で楽しんでいるだけなら大目に見よう。だが、もし彼らの一人でも、あの姿で表に出るというのなら、俺は即座にリボルバーをぶっ放す。あいつらをこの店から出してはいけない。おぞましいものを世に露出させるのは、倫理の問題どころか、誰がどう考えても犯罪以外の何ものでもない。

 隅井戸が店を出る時に、最初の背の高い女がピンク色の名刺を渡してきた。「CLUB Next Doorオーナー 女装家 菅原祥子」女名でそう書かれていた。「スペードさん、またいらしてね」そう言って見送る菅原を振り返りもせずに、隅井戸は二度と来るものかと心の中で思った。

 翌朝、事務所のMacで報告書を作りながら、隅井戸は思った。男の中にも、実は女がいる。自分が理想とする女が棲んでいるものだ。幸いにして現実の中にそんな女を見つける事が出来ればいいのだが、そうじゃない場合、男はどうする? 取りあえず手近な女で満足しておくのか、それとも見つかるまで理想の女を探し続けるのか。もしかしたら、取りあえず手近な女を押さえておいて、その上でまた別の女を捜し続けるのか。これをした時に、取りあえずキープされた側の女は「夫が浮気をしている」と騒ぎ出すのだ。しかし、取りあえずの女を確保しておきながら、本当の理想の女を捜し出したいのにそれが出来ないでいる気弱な男なら? この男が自分の中の理想の女を育て続けているとしたら? こいつはもしかしたら、自分の中の理想の女を自分自身で体現したいと考え始めるのかも知れないな。それが田中尚一ではないのか。浮気も出来ない気弱な男が、理想とはほど遠い女房にすら相手にされないようになって、場合によっては女房に馬鹿にされて虐げられて、そのはけ口として自分の中の理想の女を発動させる。そんな所かも知れないな、ああいう女装クラブに通うような男とは。

 隅井戸は、いったん正直に記載しかけた尚一に関する調査報告の一部を割愛した。あの店が女装クラブである事は婦人には伏せておこう。尚一は、単に趣味的な場末の店に愉しみを求めていた。そう、あそこは素人劇団員が集まる店って事にでもしておこう。白粉の事は、素人劇団員が芝居に使うどうらんって事にでもしておけばいい。尚一が化けている写真は見せないでおいた方がいい。きっとその方が平穏無事な夫婦生活を継続するには相応しい方法だから。その後は……俺の知った事か。

 隅井戸は、仕上がった書類と写真を茶封筒に収め、煙草を吸い殻でいっぱいになっている灰皿に押し付けて火を消した。まぁ、そのくらいの嘘は、人生には必要だろう、一人でにやついてから事務所を後にした。

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