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第三章 勤勉という名の悲喜劇 その2

 午後三時過ぎ、自宅を出た尚一は、徒歩で駅に向かい、北宿行きの電車に乗った。サングラスを掛けた隅井戸も何食わぬ顔をして同じ車両に乗る。そして予想通り尚一は北宿の駅で降りた。北宿西口の改札を出て、そのまま祇園町という繁華街に向かった。大きく「祇園」と書かれたアーチ状の看板の下をくぐり、さらに 奥へ入って行く。路地を右手に折れ、狭い通りを行くと、区役所通りに出た。その通りを左に曲がってしばらく行くと、また路地が現れる。そこは小さな飲み屋が集まっている事で有名な金色街だ。尚一は、その一画の真ん中辺りで立ち止まってきょろきょろと左右に人影がない事を確認してから、幅の狭い階段に消えて行った。

隅井戸は階段の入口のところに、目立たない小さな看板を発見した。

「CLUB NEXT SIDE」

 クラブ・ネクスト・サイド? どういう名前だ? 次の面? アナログレコードの裏面の事か? 隅井戸は、この辺りの店には入った事がない。聞いた事はあったが、中には怖い店もあるような噂を聞いた事もあって、敷居を高くしていたのだ。だから 今も、尚一の後を追って入るべきかどうか、少し躊躇した。だが、これは仕事なのだ。隅井戸は一度だけ軽く深呼吸をしてから階段に足をかけた。

 階段を上がったところに赤い扉があり、その扉を開くと、そこは外とは別世界だった。古い建物なのに、洒落たバーといった感じにリフォームされ、さぞかしこだわりを持ったオーナーがやっている店なのだろうなと思わせた。店内の客が一斉に隅井戸の方を見た。カウンターの中には美形の女性が二人。その後ろには洋酒を中心に、様々なボトルがずらりと並んでいる。カウンターの客は、男が一人と女が三人。常連客同志と見えて、仲良く談笑している。ボックスの二人はカップルなのだろうか、四人掛けの席に、恋人同士のように並んで掛けている。あるいは、女性は店のホステスなのか? その辺りの事は、隅井戸には分からなかった。

隅井戸はこういう賑やかな店は苦手だ。いつもは事務所の近くの地味なショットバーで一人静かにバーボンウイスキーをロックで飲むか、そうでなければ、駅前にある立ち飲み屋の片隅で、顔見知りの常連客に混じって安焼酎を水で割ったグラスを黙って傾ける。そういう飲み方しか知らないのだ。女がいる店には、若い頃に何度か行った事はあるが、最近は、とんとご無沙汰させてもらっている。家に帰れば愛する妻が待っているのに、何故飲み屋の女のために無駄金をばら撒かなければならないのか、理解に苦しむ。

 それはともかく、今は依頼人のオーダーに沿った調査が最優先だ。尚一がこの店に通っている事だけは確かなようだが、それがこの店の従業員目当てなのか、あるいはこの店で出会った客同士で恋愛ごっこを楽しんでいるのか。だが、不思議な事に、先に入ったはずの尚一の姿は、カウンター席にもボックス席にも、何処にも見えなかった。

「いらっしゃいませ。お客様、初めて拝見するお顔ですわね」

カウンターの中の背の高い女が色気のあるハスキーボイスで言った。隅井戸は黙って頷いた。

「あら、寡黙な方だこと。お飲物はどうなさいます?」

 女は店の料金システムを説明した。隅井戸はこの店に通う予定もないので、取りあえずバーボン・ロックをショットでと注文した。肉厚のグラスに氷が投げ込まれ、ケンタッキーのトウモロコシ酒が注がれた。隅井戸の前には、ロックグラスとともに、小さなカゴに入った乾きもの一式が並んだ。

「お客様、なかなかの男前ですわね。ナイスミドル・イケメンって言うのかしらね」

飽くまでも軽口で客を楽しませようとする女の努力は認めるが、出来れば俺はほっといて欲しいのだがね。心の中ではそう思ったが。ここは仕事だ、なんとかして尚一の所在を聞き出さねばならない、隅井戸はそう考えて、自分はこういう所には来慣れた遊び人だと言う芝居をする事にした。

「君たちこそ、イケ女じゃないか。俺は、鼻が利くんだ。いい女の匂いがしたから、ここの扉を開けてみたんだ」

「まぁ、お上手だこと。そんなクールな事言われたのは初めてですわイケジョだなんて、お客さん、面白い方」

そう言って女はあからさまに笑った。

「ところでさっき、俺が来るすぐ前に、男が一人で来たかと思ったんだが」

「あら、お客さん、尚ちゃんのお知り合い?」

「いや、そう言うわけでもないんだが、この店に彼が入って行くのを見て、俺の探知機が働いたのでね」

「まぁ、格好いい台詞。探知機が働いた、だなんてお客さん、作家さんかなにか?」

「……そんな事はどうでもいい。その尚ちゃんという人は、この店の中にいないような気がするんだが」

「いやぁ、まるで刑事さんみたい。あ。お客さん、もしかして刑事さんなの?」

「馬鹿な。俺が刑事であるはずがない。俺はしがない酒好きのサラリーマンだ」

「きゃぁ! ハード・ボイドゥド・ダドって言う人みたい!」

 それにしてもこの女、調子がいいけれども、なんてハスキーで低い声なんだ。こいつはとんでもない酒飲みでヘビースモーカーなんだろうな。それで喉を潰したに違いない。美人かも知れないが、俺の手におえる女ではなさそうだな。隅井戸はそう思って、カウンターの中のもう一人の女に目をやった。こういう所で働く女の感度は鋭い。

「あら、お客さん、あの子の方がお好みなの? 私じゃだめなのね。じゃぁ、仕方ないわ」

女は「ユキちゃん」と声をかけてもう一人の女を呼んだ。別にそう言う意味で見たわけでもないのだが、向こうは一見の客である俺を常連に迎え入れようと、次の作戦に出たわけだ。

「ユキちゃん、こちら初めての方。あなたに興味津々のようよ」

「あらぁ、初めまして、ユキです。よろしくね」

 そう自己紹介されて悪い気はしない。隅井戸は飲みかけのグラスを持ち上げて、乾杯の仕草をした。

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