第三章 勤勉という名の悲喜劇 その1
ギシギシ音を立てているのは、男が深々と腰をかけている古い木製のワークチェアだ。安楽椅子でもないのに、両足をデスクの上に投げ出し、背板に背中を思い切り押し付けてロッキングチェアのように座っているのだ。男の右手にはほとんど灰と化した安煙草だ。分煙・嫌煙時代になって、どこまでも値上がりして行く煙草代をケチるためではなく、男は昔からこのフィルターの付いていないゴールデンバットという名の煙草を愛煙している。いまさら身体を心配してどうする? 煙を吹き出さない男なんて、男じゃない。まして俺のように危険な仕事をこなす男には、こういう時間が大切なのだ。時代に取り残されつつある事にも気づかずに、男はそう考えている。困難な仕事をやっつけるのは、この煙草の美味さを味わうための手順にしか過ぎない。
男がいる部屋の扉には磨りガラスがはめ込まれていて、表側には金色の明朝体文字で「隅井戸武探偵事務所」と書かれている。風変わりな名前だが、親からもらったもので自分でつけた名前ではないので仕方がない。武という名前を、人は「たけし」と読んでしまうが、その度に「いさむと読むのだ」と訂正しなければならないのが面倒臭い。いや、本当は、親は「たけし」と名付けたのだが、戸籍謄本によみがなの欄はない。それを知った武は、警備保障会社に入社した時に、自分で「いさむ」と読み替えて会社に登録したのだった。「すみいどいさむ、イサム・スミイド」、なんの冗談だか分からないが、ハメットが創造した探偵の名前「サム・スペード」に少しだけ似ているのだった。
武が待っているのは、午後からやって来る約束の依頼人だ。夕べから今朝方にかけて、下水道で鰐と格闘するなんているとんでもない事に巻き込まれていた武は疲れ切っていたが、大事な依頼人の仕事を断るわけにはいかない。そんな事をしていては、この事務所が存続出来なくなってしまう。
コンコン。ノックの音が響いた。
「どうぞ。鍵はかかっていない」
扉を開いて部屋に入ってきたのは、今で言う“アラフィフ”、つまり五十代前後のご婦人だ。黒をベースにでかい花柄が入ったワンピースに、やはり黒のマーガレットをはおり、エナメルのハイヒールの中に、すらりとした二本の足を黒いストッキングに包んで収めている。手にはいま外で脱いだのであろうピンクのカシミアコートを持っていた。上流特権階級ではなさそうだが、それなりの暮らしをしている小金持の妻に見えた。
隅井戸は、人間を外見だけで判断するような了見の狭い人間だとは、自分では思っていないが、なんとなくこの顧客は大事にしておいて損はないなと思った。わざわざ立ち上がって婦人を迎え入れ、うやうやしくその手を取って接客用のソファに案内した。どうぞお掛けくださいと促されて、婦人はソファに大きめの尻を落ち着けた。隅井戸は小振りなコーヒーカップに、午後になって淹れ直したコーヒーを注ぎ、シュガーポットを並べて接客テーブルの上に置いた。自分自身も手にカップを持ったまま婦人の斜め向かいに腰を下ろし、ズルッと一口だけコーヒーを飲んだ。さぁどうぞと婦人にコーヒーを奨めた後で、それで? と話のきっかけを作った。
婦人は奨められるままにカップとソースを持ち上げ、胸の前に二つの陶器を掲げたまま数秒固まっていたが、意を決したようにグイと隅井戸の顔を睨みつけた。
「実は……夫の事なのです」
そら来た。やはり、夫の浮気調査だ。男というものは、どんな性格の持ち主であろうが、多かれ少なかれ浮気心を持っている。常に身の回りに網を張って、自分の子孫を産んでくれそうな相手を捜し続ける、それが男というものなのだ。雌は自分自身の腹の中に子を宿す。それも頻繁にではなく、数を限って。何故なら、宿した子を産み落として育てねばならないからだ。一方、雄というものは、自分の腹が痛むわけではない。雌の中に自分の種を蒔いて、雌の腹の中で自分の遺伝子を増やしていく。だからいつでも、何度でも、いやむしろ何度も、少しでもたくさんの種を蒔いた方が、自分の遺伝子を多く世の中に残すことが出来る。これが雄の本能というものだ。こんな本能に支配された雄が、ただ一人の女だけで満足出来るわけがない。むしろ浮気をしないなんてそんな男がいるとしたら、そいつは結構変態なのではないだろうか。雄の本能を持たない雄なんて、純粋な雄ではない。そいつはホモセクシャルか、そう出なければオカマ野郎だ。いや、俺自身はそういう人間に恨みも何も持ってはいないのだが。
婦人は田中真須子と名乗った。夫は中堅どころのソフト開発会社の技術者だという。五十一歳になる夫は尚一という名前で、若い頃から仕事一筋の真面目な夫だったという。子供も二人いるのだが、長男はもう就職して関西で働いている。その下には娘がいて、今は北海道の女子大で寮に住んでいる。だから今は夫婦二人きりの生活で、家族四人で暮らしていた頃のことを思うと、めっきり寂しいのだと婦人は言った。
夫婦水入らずでいいじゃないですかと突っ込んでみると、それがそうでもないのだと言う。元来無口な夫はますます無口になり、話しかけても上の空でテレビばかり見ているので、夫が何を考えているのかよく分からないのだと婦人は言った。子供がいなければ、休日に家族で何処かに行くような事もなくなり、楽しみが何もない。人が減ったからといって、家事仕事が楽になるかというと、そんな事もなく、掃除も洗濯も変わらずするし、夫の食事も作らなければならない。その夫は、食事をしていても愛想のひとつを言うわけでもなく、ただ黙々とテレビを見ながら口を動かしている。仕事の方は順調らしく、週の半分くらいは残業食を食べて帰って来るので、せっかく用意した夕食が無駄になる事も多いのだという。
ところが、この数ヶ月、週末になると夫の仕事が忙しくなりはじめた。それまでは出来るだけ余計な仕事からは逃げたいというタイプだったはずの夫が、金曜日の夜は必ず深夜帰宅になるし、月に一、二回は土曜日の午後からも仕事だと言って出かける事が多くなった。
最初のうちは、珍しい事だなと普通に受け止めていたのだが、ある日、背広の襟元に白い粉が付いていた。何だろうと思って汚れを落とそうと叩いてみて初めて、女性が使うファンデーション、つまり白粉である事に気がついたという。怪しいなと思いつつも、知らん顔をしてやり過ごそうと努めたのだが、同じような事が度重なってきて、いよいよ無視出来なくなってしまった。
ある土曜の午後、夫が仕事だと言って出かけるのを待って、こっそり後をつけてみたらしい。すると、夫はいつもの通勤電車に乗った所までは何も問題はなかったのだが、乗り換えるはずの北宿駅で下車してしまい、繁華街の中に消えてしまったという。そこは日本有数の繁華街で、とりわけ風俗とか、キャバクラとか、男性が適度な価格で遊べる店が乱立するエリアである。婦人は夫の後を追いかけてみたものの、この街の雰囲気に呑まれてしまい、それ以上追いかける事が出来なくなったという。
「夫は、何処かの店の若い女に入れこんでいるのに違いありません。その次も同じように後を追いかけてみたのですが、やはり同じ駅で降りて、繁華街の中に消えて行ったんです。私……あんな所、行った事がないから、もうこれ以上あの人の後を追いかける事なんて出来ない。仮に追いかけてあの人の浮気の現場にでも出くわしてしまったら……私……もうどうしたらいいのか分からないんです」
田中夫人は、そう言って泣き崩れてしまった。だいたいの話は聞けたので、いつまでもめそめそしている婦人を宥めすかして、「後は夫本人の素行調査と尾行しかないですね。もう、私にお任せください」、そう伝えて婦人には引き取ってもらった。こういう仕事は、報酬二十万円と相場が決まっている。ただし、尾行に使った交通費や、店の中まで入り込んだ時の入店料や飲食費は別途必要経費扱いだ。
翌日、隅井戸は田中尚一の身の回りを洗った。洗うといっても尚一を風呂屋に連れて行くわけではない。警察用語で、身辺調査するという意味だ。婦人の陳述通り、尚一は真面目な勤め人だった。ソフト開発の能力には長けていて、これまでも数々のコンピュータゲームソフトを生み出しては会社に利益をもたらしている。人柄は地味ではあるが、社内での評判は、良くもなく悪くもない。つまり、高い技術は持っているが、人間的にはそれほど目立った人物ではないという実像が見えてきた。隅井戸が不思議に思ったのは、それまでに彼が開発してきたゲームの内容だった。技術者というからには堅い仕事だというイメージを抱いていたのだが、尚一が作ったというソフトのほとんどは、アニメの女の子が主人公で、近頃流行の「萌え〜」という言葉を発するようなキャラクターものばかりだった。婦人から預かった尚一の写真、丸顔で眼鏡をかけた禿頭、いわゆるオタク系の人間がそのまま歳を取ったようなその風貌からは想像も出来ないような世界観なのだ。その「萌え〜」という彼女をナンパするゲーム、ナンパした彼女を育成するゲーム、自分自身が彼女に成り代わってナンパされる楽しみをシミュレーションするゲーム、なるほど、若い男の中にはこんな欲望も潜んでいるのだな、そう気がつかせてくれるコンテンツだった。
二週間後、夫が明日の土曜日にまた出かけるようだという連絡を婦人から受けて、隅井戸は準備万端整えて、田中家の近隣で待機した。北宿駅で待つ手もあったが、最初だし、念のために自宅から尾行を始める事にしたのだ。