第二章 不本意な依頼人 その4
「ミィーちゃん〜!出ておいで〜」
左手に鶏一羽をぶら下げた松村が、池に向かって懸命に繰り返す。
「ミィちゃん〜、ミィちゃーん、ぱぱでちゅよ〜」
知らない人がこれを見たらなんと思う事だろう。何しろ、松村が片手に持って振り回してているのは、クリスマスのパーティーグッズで見た事があるような、全ての羽根をむしり取られて丸裸の、冗談みたいな鶏なのだ。隅井戸は、出来るだけ松村から離れた所に立って、池の水面を懐中電灯で照らして注視した。水面はさざ波ひとつ立っておらず、鏡のように静かだった。もう一度目で水面を捜索しているうちに、向こう岸が壁になっている事に気がついた。二人が立っている側は遊歩道と池に挟まれた場所で、一面芝生が敷き詰められた広場なのだが、向こう側は小高い丘の下半分がコンクリートで固められた壁のようになっているのだ。その壁の真ん中あたりにぽっかりと半月状の穴が空いている。排水溝だ。直径二メートル足らずの丸い土管が、壁から少し突き出ているといった感じで、その時の雨量によって変わるのだろうが、下三分の一ほどが池の中に飲み込まれている。隅井戸は、松村に合図を送って、顎で排水溝がある方向を指した。
一時間後、胸元までを完全に防水出来る同付き長靴を履き、額にはヘッドライトをつけた奇妙な出で立ちの男二人が、排水溝の前にいた。暁山公園の池は、思ったほど深くはなかったのだ。
「ええー? ここに入るの?」
デブ体型の松村には、こんな狭い穴に自分が入れるとは到底思えないのだった。
「嫌か? あんたの可愛い子ちゃんを探さなくていいのか?」
そう言ってやると、松村は渋々首を縦に振った。
隅井戸がまず、少し頭を下げながら土管の中に入る。その後ろに松村がのろのろと続く。コンクリートで出来ているはずの土管は、内側に入ると、ヌメッとした何ものかが一面に張り付いていて、気持ち悪いことこの上ない。ゴム手袋をしているからよかったものの、そうでなければ身体のバランスをとるために側面に手を当てる事など出来なかっただろう。奥の方からムゥッとする生温い臭いが漂って来るのも嫌な感じだった。額につけたLEDランプのヘッドライトがなければ、一歩も進めないほど、土管の奥は暗闇だ。ヘッドライトはプロ使用というわけでもないのだが、なかなか優秀で、遠いところにまで届く。ダイヤルを切り替えるとランプカバーになっているレンズが広角に変わって、近くの広い範囲を照らし出すことも出来る。隅井戸は、このランプのダイヤルをせわしなく切り替えて、手前を見たり、目を細めて奥を見たりしながらゆっくり進んで行ったミィちゃんが入ったかもしれない形跡を、目を皿のようにして探したが、まだ見つからない。
「隅井戸先生〜、もう戻りましょうよぅ」
へっぴり腰でついて来る松村が情けない声を出した。
「なんか出てきたらどうするんですぅ、先生〜、僕、ここ嫌いですよぅ」
「俺だってこんな気色悪い所歩きたくないわっ。だが、お前さんの大事なミィちゃんを探し出さなくていいのか?」
「そ、そりゃぁそうですけどぉ、もちろん」
土管のトンネルの中の暗闇は、永遠かと思うほど何処までも続いた。もう二百メートルは歩いただろうと思っていたら、不意に風の音が聞こえて、その先が何処か大きな空間と繋がっているのだと分かった。既に池から続く水は細長い水たまりに変わっていた。案の定、土管の排水溝は排水路と呼ぶべき広い空間に出た。足下は一段低くなっていて、おそらくこの大きな排水路は都心まで続く汚水のメイン水路であろうと思われた。隅井戸が広い排水路を調べている間、松村が今まで歩いてきた排水路の終端のところに、何かを見つけて叫んだ。
「ミィちゃん!」
排水路に首を突き出していた隅井戸が振り返ると、松村はヘッドライトを足下の何かに向けて指差していた。赤い紐のようなものが落ちていた。ハーネス状になった赤い首輪だった。相当大きな動物につけられていたものと思われるが、革で出来ていて、見た感じだけでもすっかりくたびれていて、数カ所がぼろぼろになって、もはやハーネスとか首輪には見えなかった。これでは動物の身体を繋ぎ止めておけるはずもない。
「これはミィちゃんにつけていたものなのか?」
松村は大きく頷いてから、手をのばして赤いハーネスを拾い上げた。
「やっぱり……ミィちゃん、ここに迷い込んだんですね」
広い排水路に出てからは、俄然歩きやすくなった。何しろ天井がぐんと高くなったので、頭上を気にして背を丸くしなくても立っていられるからだ。右に行くか左に行くか迷ったが、隅井戸は名探偵の直感に従って、都心に向かう方向である左に向かう事にした。
広い排水路には深さ五十センチほどの汚水がゆったりと流れていた。その流れに沿って歩いて行く。ここに迷い込んだ生き物なら、どっちに向かうだろう。普通なら流れに逆らわずにゆっくりとした流れに乗るだろう、隅井戸はそう思った。奴はこの中に棲むドブ鼠を食って生きながらえているに違いない。ドブ鼠が居そうな場所を探せばいいのだ。
ぴちゃんぴちゃんと水音をさせながら、真っ暗な水路を頭にライトをつけた二人の男が進んで行く。ぴちゃんぴちゃん、ぴちゃんぴちゃん。一言も喋らずに黙々と歩を進める隅井戸の頭の中では、ミィちゃんの心配でもなく、依頼人への不満でもなく、自分自身の想念が空回りしていた。
なんだって俺は今、こんな汚水路を歩いているのだ。輝かしい未来だけを夢見ていた子供時代。探偵や刑事に魅せられていた学生の頃。公務員になることを嫌って自ら選んだ警備会社への道。暗澹たる思いで過ごし、遂には上司を殴りつけてしまった会社員最後の年。全部自分が選んできた道には違いないが、俺は上流に向かわずにどんどん下流に向かってしまっている。気がつけば、今の仕事など、この下水道みたいなものだ。糞のような依頼人、ゴミのような仕事。俺はドブ水に首までどっぷり浸かって、ドブ鼠みたいに働いて、ゲロみたいな人生を歩んでいるのだ。実際には、隅井戸の生活はそこまでひどいものではないのだが、自分自身をストイックに見下すことがハード・ボイルドだと思い込んでいる隅井戸はいつもこんな風に考えているのだった。
「先生、あそこ!」
松村がささやく声に我に返った隅井戸は、彼が指差す方向に目をやった。下水路の先がさらに大きな室に続いていた。じゃぶじゃぶと水を跳ね飛ばしながらその空間に入って行くと、それはドーム状の天井を持った、集会でも開けそうなほど大きな空間だった。おそらくここは、洪水などを防ぐために大量の汚水を一時的に貯水出来るように設計された水槽なのだろう。今はほとんど水がないので、大半の床は渇いており、誰かがここにやって来ているのか、あるいは汚水とともに流れ着いたものなのか、燃え尽きた蝋燭だとか、空き缶だとか、小さなゴミの類いが転がっていた。そしてそのゴミの向こう側、壁面の隅から、焦げ茶色の尻尾のような長い物体が伸びていた。
「な、何だあれは?」
「先生……ミィちゃんですよ! あれがミィちゃんです!」
松村が嬉しそうな声を上げて近寄って行く。
「お、おい待て! あ、あれは……鰐じゃないのか?」
松村が逃がしてしまったペットのミィちゃんはクロコダイルだった。こんなものを街中に解き放してしまうとは、松村はいったいどんな神経をしているのだ。これが世間に知れたら大騒ぎだぞ。ったく! こいつをどうやって連れ戻すつもりなんだ? 俺は嫌だぞ、こんなドブの中でクロコダイルに食われるなんて。
「おい、俺は嫌いなんだ! 爬虫類なんて! よりによって、なんで鰐なんだ?」
「ミィちゃーん、ミィちゃぁん! おいで、一緒に帰ろ!」
なんとかミィちゃんを捕獲してケージに納め、松村の四駆で彼のマンションまで連れ帰った。いったいどうやってこんなモノを家の中で飼育しているのかと思ったら、松村の部屋はまるで動物園の爬虫類館のようだった。ムッとする臭いが立ちこめ、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中に幾つもの水槽が並べられ、気持ちの悪い生き物が佇んでいる。蛇とか蜥蜴、虫みたいな生き物。一方、藁が敷き詰められた水槽の中には餌にでもされるのだろう、ハツカネズミが数匹も縮こまっていた。
「ああ、この子たちはミィちゃんのお友達です。どの子もかわいいでしょう?」
こんな部屋、早くお暇したかった。
「あ、気をつけてくださいね。時々脱走兵が出るんですよほら、そこの赤と黒の蛇。こないだはこの子が逃げ出して参りましたよ。幸い部屋の中からは出ていないことは分かっていたので、見つけ出すことが出来ましたけどね」
「まさか、これって……毒のある奴じゃぁないだろうな」
「ああ、これはヤマカガシといって、毒を出す牙は取っていますよ。そこの物置の下に隠れていたんですよ。」
松村の部屋に比べたら、同じごみ溜めでもここは天国みたいな部屋だ。つい、蛇が隠れていないかなんて思って探してしまったが、そんなものが俺の事務所にいるはずもない。ばかばかしい! あの馬鹿に振り回されてしまったお陰で、俺は神経までいかれてしまったようだな。ふふんと思わず鼻で笑ってから、隅井戸は煙草を口にくわえてブック型のマッチを擦った。