第二章 不本意な依頼人 その2
「ストリップ小屋って、あなたのお母様は劇場の事務をやっていたってことだな?」
「事務員かって? ち、違いますよ、ストリップ小屋の仕事と言えば、踊り子でしょう、もちろん。母は、僕が物心ついた頃には既に踊り子をしていて、それから亡くなるまで実に二十年間も踊り子を続けていたんです。母はそれは立派ぁなストリッパー、踊り子さんを映す鏡、玄人中の苦労人なんです、もちろん。文字通り身体ひとつで僕を育ててくれたんです」
踊り子? ストリッパーを二十年も? 武には目の前にいるデブオタクの母親の姿がどうしても想像できなかった。今の話を信じるとすれば、まさかこの男は母親似ということもあるまいが……。思いながらも頭の中では腹の突き出たペンギンがいやらしい下着を脱いでいく様子を思い描いてしまっていた。思わずぶるぶると首を振り、我に帰ってみると、太った男が汗を拭き拭き話し続けているのだった。
「だけど、あの日、踊り子生活二十年のお祝い公演があって、帰り間際にストリップ小屋で、支配人とカップ酒で少しだけ乾杯したそうです。母はお酒好きでしたが、それほど強くはない。なのに、お祝いということで、“カップ大酌”って日本酒を頑張って全部飲んでしまったんですね。支配人の話では、小屋を出るときは上機嫌だったそうです。お酒のせいなんでしょうね。もちろん、いつもなら全部着替えてから小屋を出るのに、その日はスカートの下にガーターベルトを中途半端につけたままだったようです。小屋から歩いて一分もしないうちに、ガーターベルトが尻から外れてしまい、足元にずり落ちた黒いガーターベルトにピンヒールが引っかかって、体制を立て直そうとバランスを取った拍子にもう片方のピンヒールまで絡まってしまって、そのまま顔面から地面に。打ち所が悪かったみたいで……母はピンヒールが大好きだったんです。あんなに歩きにくいもの、どうして!」
松村はそこで嗚咽を洩らした。中年男の嗚咽ほど、哀しくて汚いものはない。ポケットから取り出したヨレヨレのティッシュでブヒーッと洟をかんでからも松村の話は続いた。
武が母親の年齢を尋ねると、享年四十五歳だったそうだ。松村の話はあまりにも緩慢でしかも長いので、かいつまんで言うと、こんなことだった。母を亡くしてからは、一人暮らしを続けた。嫁を探すどころか、そもそも結婚など一瞬でも考えたことすらないという。もちろん、こんな男に惚れる女も居ないだろうがと、武は心の中で毒づいた。
しかし、一人暮らしとは寂しいもので、女も酒もやらない松村は、何かに心の拠り所を求めたかったのだという。それで飼い始めたのが、「ミィちゃん」というペットだった。ペットショップでミィちゃんを見つけた時、松村はこれこそが自分が求めていた命の絆だと思ったそうだ。ペットが命の絆とは、どういうことかと尋ねると、自分をこの世に留め置いてくれる存在であると答えた。ペットが自分の命をこの世に留め置く絆とは、ちと大げさ過ぎるような気もするが、まぁ、ペット愛好家とはそのようなものなのであろう。要は、そのくらい、自分の命と同じくらい、いや、自分の命よりも大事な家族であると言いたいわけである。しかし、ちょっと待てよ。武は思った。松村の母親が死んだのは、高校を卒業してまもなくだと言った。その後しばらく一人暮らしを続けて、その内にミィちゃんを飼い始めたというのだから、ずいぶんと寿命の長いペットなんだなぁ。うん? 松村は確か五十三歳だと言った。母親が死んで二年後に飼い始めたとしても、二十歳くらいか。二十歳から五十三歳の今まで、つまり三十三年。長過ぎる。
「ああ、そうか、今のミィちゃんは二代目とか三代目のミィちゃんなんだな?」
「まさか! 違います違います。そんなことはないです。僕にはミィちゃんの代わりなど、二代目三代目など、有り得ない!」
松村はそう言ってまた泣いた。
ミィちゃんがいつ、どこで、どうして居なくなってしまったのか、それだけを話してくれればいいのだが、松村があまりにも熱心に話し出すし、聞いているうちに面白くなってつい続けさせてしまったが、本当に長い前置きである。ようやく、捜索を始める上で重要な要件を聞き出す時間になった。
「普段は家の中で飼っているんです。ええ、放し飼い、もちろんです。可愛いミィちゃんを檻になんて入れるものですか。寝室で僕と一緒に寝起きし、キッチンで一緒に食事をし、リビングで一緒にテレビを見るんです。だけど、一生家の中というのもかわいそうじゃありませんか。せめてひと月に一度くらいは、広い野原で遊ばせてやりたい、そう思うのが親心というものだと思いませんか?」
ばかだなぁ。犬とかだったらそうかも知れないけれども、ミィちゃん……猫なんてものはなぁ、家の中こそが天国なんだよ。下手に外に連れ出してもさ、歩きやしないし、暗いところに逃げ込んでしまう、それが猫科の習性なんじゃないのか。これはペットと全く縁がない武が知っている数少ないペットの知識だった。
「マンションのベランダで水浴びさせたり、日向ぼっこさせたりはしていますとも、もちろん。その上で、せめてひと月に一度、休日くらいには外に連れ出したいのですよ、それがいけませんか?」
「いや、いけないなんて誰も言っていませんよ、もちろん」
武は男の口癖を真似て言ってみた。こういうものは感染ってしまうものなのだ。
さて、先週の日曜のことらしい。ミィちゃんが行方知れずになったのは。いつも、日曜日の夕方、ミイちゃんを公園に連れ出すのだという。そういうのは、気持ちのいい昼間がいいのではないのかと言うと、いや、昼間はダメだと答えた。日光が強過ぎるし、何より昼間だと人が多過ぎる。夕方陽が落ちてからが気温もいいし日差しもない、日曜のその時間だと人通りも少ないからいいのだそうだ。
いつも行く暁山公園は、男の家から五キロほど離れたところにあり、公園の中央に大きな池があるのだそうだ。それはまるでセントラル・パークみたいだなとつい口を滑らした。すると男もすかさず、そうなんです。ニューヨークのセントラル・パークは理想ですね! と生き生きとして答えた。あんなお誂え向きの公園は、なかなか日本にはないんです、もちろん。男は言った。
「いつもと同じように、ミィちゃんをケージに入れて、自慢の巨漢SUV車に乗せて公園まで運んだんですが……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、その巨漢SUV車ってなんだ?」
「ああ、つまりランドクルーザーのでかいやつ」
そうか、この男、案外アウト・ドア派な部分もある訳か。
「それで?」
「はい、いつもと同じように池の湖畔まで車を乗り入れて……そこは、これが出来るから便利でいいんです。それで、ミィちゃんを車から降ろして、いつものように池で遊ばせていたんです」
「日が暮れて、月明かりの下で優雅に水浴びをしているミィちゃんの姿は、それは美しいものなんです。僕なんかそれに惚れ惚れしているってこともありますよ。ああ、鎖はちゃんとつけますとも、もちろん。大事なミィちゃんがどこかに泳いでいかないとも限りませんから。ミィちゃんが水浴びをしている間、僕は月明かりの下で本を読むんです。どんな本かって? そりゃぁ、いろいろ。時間はたっぷりあるわけですから。だけど、こないだは、僕、少し寝不足が続いていて……僕が悪いんです。本を読みながら、ついうたた寝してしまったのです。どのくらい眠ってしまったんだろう。たぶん、三十分も眠ってないはずなのですが……気が付けば、ミィちゃんの姿が見えないんです。あれ? 水中に潜ってしまったのかな? そう思って長く伸ばした鎖を手繰り寄せました。そしたら、そしたら……ううっ! どういう具合か、鎖が外れてしまっていて、首輪の中味が、ミィちゃんが、空っぽなんです! いないんですよ。僕は名前を呼んでみました。何度も何度も。普段は僕が名前を呼ぶと、僕の方に来るんですよ。ミィちゃん、賢いから。名前を呼べば、僕の所にちゃんとやって来て、甘えるんですよ。それなのに。それなのに……。ミィちゃんは来てくれなかった。鎖が外れたのなんか初めてですから、本人も驚いてしまったのではないでしょうか。それか、広い池の中で迷子にでもなってしまったのか。僕から逃げるなんて、考えられない!」
「ミィちゃん、ミィちゃーん! って、何度も何度も叫びました。もう、人目も何もないですよ。……幸い周りには誰もいませんでしたけれど。それから僕は、名前を呼びながらいつまでもそこで待ち続けました。一晩中。だけど、とうとう、ミィちゃんは帰って来ませんでした。そして夜が明けてしまったんです。
とりあえず、その日は……月曜日ですから、仕事に行きましたとも。だけど、ミィちゃんが消えてしまった後で、仕事なんか手につくわけがない。僕は今もスーパーマーケットで働いているんですけど、ああ、今はもう副店長になっていますけどね。頭に霞がかかったようで、店内を歩いていてもカートにぶつかるわ、客の足に躓くわ、野菜売り場に肉を並べてしまうわ、レジではお客さんの持ち物や、髪が薄くなった男性の頭にまでバーコード・スキャナーを当ててしまうわ、もう散々でした。僕は店長にお願いして、しばらくお店を休むことにしたんです。それで、翌日から毎日毎日ミィちゃんを探し続けているんですけど、未だに見つからず。そこで、新聞の片隅に出ていたこの事務所に電話したと、こういうことなんです」
一通りのことを喋り終えた松村は、武の顔をぐいっと見つめて「お願いします! ミィちゃんを探し出してください、必ず見つけてください!」と嘆願した。
「ペット捜索は、簡単なようで難しいんです。動物というものは、人間が想像もしない行動をとるものなんです。動物の習性をよく知った上で捜索をしないと、まず見つからない。見つかったとしても巧く保護出来ない。だから、ペット探しはお安くないですよ。基本料金十万円。それに必要経費。場合に寄ってはエキストラ料金……これは何か特別な作業が加わった時ですが……これだけの費用が掛かりますが、よろしいですか?」
武が伝える料金に対して、全く問題ない、僕には母が遺してくれた財産があるから、松村はそう言い残して事務所を去った。