第二章 不本意な依頼人 その1
実にばかばかしい。日本の探偵仕事の大半は浮気調査か人物の素行調査である。そんなことは百も承知でこの仕事を始めたのには違いないが。それにしても今回のはひど過ぎる。
隅井戸武は気持ちを沈めながら薄暗い廊下を辿り、事務所のドアを開けた。腹立ち紛れにドアを蹴飛ばしそうになったが、いけない、いけない、これは自分の事務所なのだ。自分の事務所を傷つけてどうする。壊れでもしたらいっそう馬鹿げたことになるだけだ。武はデスクの前まで行き、椅子に座ろうとしたが、一瞬動きを止めた。もしや? まさかそんなことはないとは思ったが、念のためにデスクの下を覗き込んだ。うむ、大丈夫なようだ。いや待てよ。ファイルケースの下は大丈夫か? 引き出しの中は? 応接用のソファの下はどうだ? ゴミ箱の中は? 武は細心の注意を払いながら、しかし素早く、怪しいと思われるすべての場所を確認した。しかし……機敏で注意深いこの俺の動きは……これじゃまるでドリフのコントだな。自分でそう思って思わず吹き出してしまった。どうも昨日の仕事のお蔭で調子が狂ってしまった。まさかと思うような内容だったからな。
昨日は日曜日だったが、依頼人の指定によって業務を行なった。依頼人は五三歳の独身男性。松村洋と名乗った。事務所に来たのは三日前だった。まだ肌寒い春先だというのに額の汗を拭き拭きドアの向こうから顔を突き出した。ぼっこりと下腹を突き出して歩くその姿は肥満のペンギンそのもので、いっそつる禿なら少しは涼しかろうに、頭だけは黒々とカールした天然毛髪を肩まで伸ばしているのだった。
「僕の可愛がっているペットが行方不明になってしまったんだ」
松村は今にも泣きそうな情けない表情で話し始めた。
「ミィちゃんは僕の命よりも大切な子なんです。早くに父を亡くした僕は小さい頃から母と二人暮らしで、真面目に生きてきたんです。なのに、どういう訳だか分からないのだけれども、小学生の頃からずーっとクラスメイトから虐められ続けてきました。進学してクラスメイトの面々が変わると事態も変わるだろうと思っていたのに、中学生になっても、高校生になっても、その時その時のクラスメイトに虐められるのです。そんなときに力になって僕を慰めてくれるのは、女手一人で僕を育ててくれた母親だけでした。ところが、その母も居なくなってしまいました。僕が高校を卒業してスーパーマーケットの社員として働き始め、これで少しは母を楽にさせることが出来ると思っていた矢先、母は仕事帰りにあっけなく亡くなってしまいました」
それはご愁傷様。武はポツリと呟いて松村の言葉を遮った。早口でまくし立てられる面白くもなんとのない話が、この先延々とどこまで続くのかうんざりしはじめていたからだ。だが、松村の母親がどうやって亡くなったのかに興味を持ってしまったのは不覚だった。
「はい? 交通事故? いえ、それが、車とかそんなんじゃなくて……自分で勝手に転けて、頭を打って死んでしまったんですよ。え? 何故そんなことになったのかですって? それ、言わなきゃぁいけませんか? はぁ、参考までにねぇ……母は、実は赤毛駅前のストリップ小屋で働いていたんです」
ここでまた武は松村の言葉に引っかかった。こいつの母親っていうのはいったい……。