第九章 予想外の敵-3
それは確かに紗季なのか? 見覚えのある黒いワンピース。ああ、このワンピースは去年の結婚記念日にイタリアンレストランで食事をした時に着ていたものに違いない。胸元にはあのときと同じ黒いオニキスのネックレスを付けている。だが、ドレスの中はとても紗季とは思えない。ドレスから伸びている手や足の皮膚。それは緑色のコケだかウロコだか分からないようなゴワゴワした得体のしれない皮膚だ。その皮膚からはひび割れて赤い繊維のようなものが幾本も飛び出している。ドレスの上に乗っかっている顔。長く伸ばした髪は、確かに紗季のようでもあるが、髪が乱れて覆っている顔は、手足と同じ緑色の皮膚に蜥蜴のような眼が怪しく光り、真ん中に二つ空いた空虚な穴が閉じたり開いたりしている。口は真っ赤な口内を見せながら左右に耳まで割けている。
いや、違う。こんな化物が紗季であるはずがない。
隅井戸武は五年前に妻と一緒になった。妻紗季は、優しさという言葉と共に生まれてきたような女だ。偶然不動産屋の前で出会い、隅井戸の事務所開業に尽くしてくれた。他人には飽くまでも優しく、俺に対してだけ甘えてくる女、紗季。
紗季は赤ん坊の時分、孤児院の前に捨てられていた。両親のことは何も分からない。孤児院で育てられ、園長の子供として成長した。小さい頃から苦労を重ねて、心優しい、思いやり深い人間に育った。
俺の紗季。紗季は俺のために存在している。そして俺も紗季がいるから生きている。紗季。紗季。俺だけの、あの優しい紗季。
部屋の灯りが突然点灯したので、化物は一瞬目が眩んだ。もうダメかと思った隅井戸が顔を上げると、安倍が化物を突き飛ばしていた。そして、化物だと思っていたのは、紗季だった。だが、紗季の顔は死人が甦ったかのような異様な質感で、緑の皮膚がさらに青白く光り、かっと見開いた目は血走って、口は大きく裂けている。隅井度は、もう一度思う。これは、紗季なのか? 本当に紗季なのか?
「おのれぇ、汚い神の手先が何をしに来た?」
この世のものとは思えない声が、紗季の喉から溢れ出た。
「うるさい。俺はお前を探し続けていたのだ。今夜ここで会えるとはな」
安倍は獣と言葉を交わして時間を稼ぎながら、背中に負ったザックの中から長剣を取り出した。相手の動きを注意深く見定めながら、ゆっくりと長剣を鞘から抜いていく。
「屁たれのお前に何が出来る。わしに手出しをしたところで、なんの意味がある? わしの代わりなどいくらでもいるのだ。そもそもこの世は我らのものだったのだ」
紗季の口からこぼれ出るおぞましい唸りともつかない声が、終わるか終わらないかという狭間に、安倍は長剣を突き出そうと、下手に構えた。
「ぐぅおぅ!」
安倍が動くより先に、化物は瞬時に飛び上がって天井に貼り付いた。天井に黒い紗季のドレスが貼り付いた。手足があった場所からは、不気味な蜘蛛の脚のような長い四肢が伸びて、その四肢で天井にしがみついている。頭部についた悍ましい首がギリギリギリと音を立てて回転した。阿倍に向けられた顔の、半分を占めるかと思われるほど耳まで裂けた口がカッと開いて、紫色の体液を吐き出した。咄嗟に安倍は避けたが、紫色の体液は床に拡がって、じりりりりと床の表面を焦がした。硫酸か? 安倍はどういう術を使ったのか分からないが、重力に逆らうかのようにふわりと宙に浮いて、そのまま天地を逆にした。化物の真似をして天井に逆立ち状態で立ち上がる安倍は、長剣を振りかざした。化物は黒いドレスの下に伸びた足を、瞬時にさらに長く伸ばし、安倍の足を払う。同時にまた紫の液体を吐きながらバサッと床に飛び降りる。安倍も負けじと、化物の吐瀉物を避けて、床に舞い降りた。
隅井戸は安倍と化物の死闘を黙って見ていたが、化物が床に飛び降りたのをきっかけに、偶然手に触れたダイニングチェアを持ち上げ、化物に投げつける。化物は軽く体を交わして長い四肢で壁を伝って移動する。安倍は再び長剣を振りかざして追いかける。狭い部屋の中で、二回、三回、長剣を振り回した安倍は、化物を隅に追い詰め、下手に構えた剣先を付き出した。瞬間フリーズしたように動きが止まってしまった化物の顔に、しまったという表情が現れ、同時に安倍の長剣が化物の喉を突いた。
「ぐぉおおおおおおー」
喉から血を噴出しながら叫ぶ化物。その顔がぶるんぶるんとブレては紗季の顔が現れる。紗季かと思うと再び化物が出現する。ぶるん、ぶるるん。次第に紗季の顔である秒数が長くなり、遂には化物の姿は紗季に変化した。
「な、何をするんだ! これは、これは……俺の妻だ!」
隅井戸は事の成り行きにしばらく身体が硬直して声も出なかったのだが、ついに叫ぶことが出来た。崩れ落ちる紗季。その紗季に飛びつき、倒れる身体を抱きしめる。紗季。紗季だよな? どうしたんだ。どうなっちまったんだ?
遂に床に倒れ込んだ紗季。肩が上へ下へ動きながら、激しく息を漏らしている。先ほどまでの恐ろしい形相は完全に姿を消し、元通り紗季のものに戻っている。そしてその喉には長剣が突き刺さっているのだ。
「紗季! 紗季!」
「ぐぅるるるる……い、いさ……む……」
「安倍! これは……これはどういうことなんだ!」
「気の毒だが……これが奥さんの正体だったんだ。紗季さんと名乗っているのか? こいつが、あの祭壇で、悪魔の契りをやっていたんだ」
「そ、そんな!」
安倍は言った。
「こいつは、暗黒太斎の復活を目論む暗黒教団から日本に送り込まれた“契り女官”だ。暗黒太斎を目覚めさせるその時が来るまで、普通の人間として人類の中に潜り込み、少しずつ準備を進めていたのだろう。そして間もなくその時が訪れようとしていた。だが、思わぬ偶然であんたが俺をここに連れてきてくれた。流石の悪魔も予想していなかっただろうな」
紗季は孤児だ。両親については本人すら何一つ知らない。どこから来た、どんな人物が母であり父だったのか。あるいは両親は、その暗黒太斎の教団に属した者であったかもしれない。紗季はその子として教団に手を貸すために、両親が日本に連れて来たのかもしれない。だが。だが、隅井戸が知っている紗季は、そんな妖しい存在ではない。普通の人間、いや普通以上に優しさと慈しみを知っている、女神のような存在だったはずだ。
「ぐぅるるるる……あなた……ご、ごめん……」
紗季は化物とも紗季ともつかない声色で、小さな一言を漏らした。
「ごめん……なさい……」
その次にひと呼吸した後、剣が突き刺さった喉元から、ごぼごぼと緑の血液が溢れ出て息絶えた。




