第一章 隅井戸武探偵事務所
古ぼけた大理石の壁を持つ廊下は、昼間でも電灯が点けられている。普通のオフィスビルの廊下なら、細長い蛍光灯ランプが何本も取り付けられて明々と空間全体を照らしているのだろうが、このビルが建てられた時代には、まだそのような蛍光灯ランプは存在していなかった。そう高くはない天井の数メートルおきに白熱灯が据え付けられていて、白熱灯のカバーは丸くて白い摩りガラスで作られている。アンティークなインテリアを好む人間なら、とても好感を持ってこのランプの下を歩いたであろうが、残念ながらこのビルの住人の中には誰一人そのような趣向を持った人物はいない。単純に古いビルだから仕方がない、安い賃料で入っているのだから、廊下くらいは我慢しなきゃあなと、せいぜいそのくらいの経済観念を持っている程度である。
この薄暗い廊下の突き当たりに、磨りガラスがはめ込まれた古びたドアがある。その取っ手は丸く加工され、鈍い黄金色の真鍮で出来た手合いのドアだ。磨りガラスには時代がかったレタリング文字で事務所の名前が記されている。
「隅井戸武探偵事務所」
扉を開いて室内に入ると、まず入口の直ぐ左側には木製の外套掛けが佇んでいる。この部屋の住人がこだわって置いているのだが、使う者はほとんどいない。ドアを開けて入った正面には大きく開口部が開かれているため、廊下とは違い部屋の中は比較的明るいはずなのだが、それでも陰気な印象を与えるのは、部屋全体が煙草の煙で茶色にくすんで変色しているからなのか、それとも部屋に置かれた調度品の古めかしさのせいなのだろうか。大きな窓のすぐ前には木製のどっしりしたワークデスクが据えられているが、その天板部分にはさまざまな書籍やファイル、書類が山のように積み上げられているために、ワークデスクの体を成していない。高層ビルのようになったファイルと窓の間からインデアンの狼煙よろしく、一本の煙が舞い上がっている。その煙は、デスクに据えられたこれもまた木製のワークチェアに尻を押し込んでデスクに足を投げ出している痩せた中年の男から吐き出されていた。
隅井戸武は今年四十一歳になった。五年前までは警備会社に勤めていたのだが、上司との反りが合わず、そもそも警備会社になど勤めたくなかったのだと言い捨てて辞職した。青年時代の武には夢があった。刑事になって世の中を変えていくのだ、そう思っていた。だが、これは決して聖人のような崇高な気持ちでそう思っていたのではなく、中学時代に読んだ本にかぶれていたのだ。ハードボイルド小説のバイブル、「マルタの鷹」や「長いお別れ」にのめり込み、世の中に探偵ほど格好いい職業はないなと思った。後には八十七分署シリーズにも毒された。「探偵もいいが、刑事もいいかも知れない」そんな子供の憧れはいつしか夢に変わった。だが、刑事になるためには公務員試験に通らなければならないし、仮に警察官になったとしても最初はお巡りさんであって、いきなり刑事にはなれない。その上、刑事になったところでここは日本、架空の街で活躍するキャレラ刑事になれるわけでもないなと考えた武は、よりイージーな選択をしてしまった。それが警備員という仕事だった。
愛空警備保障という会社は、総勢二百人という中規模の会社だったが、近代的な経営手腕を発揮する若き起業家反町が経営をしているかなりユニークな警備会社だった。反町はいわゆる大手企業オーナーの御曹司であり、父親のコネクションを最大限に利用してこの警備会社を経営していた。警察をリタイアした腕利きの元刑事を何人もスタッフに迎え、父親の人脈を活かして手に入れた大手優良企業ばかりをクライアントに、高額な契約を長期間に亘って交わしていた。業務のほとんどは、企業VIPのセキュリティ、すなわちSPだったり、銀行の現金輸送車の警護だったりで、深夜ビルの見回りのようなベタな業務は請け負っていなかった。最近では重役レベルの住居を守るホームセキュリティー等も始めてはいるが、概ねドラマに出て来るようなクールな仕事を専門としていた 。
隅井戸武はこの会社に十三年間勤めた。だが、十年目に係長へと昇進した直後、警察から天下ってきた元警視正を上司に持つことになった。この近藤という天下り男があまりにも利己的で、正義よりも自分の地位の安定を、部下の育成よりも自分の老後を、重視するような人物であったために、正義感の強い武とは常に摩擦を起こしていた。
ある日、近藤部長が自ら請け負った得意先のVIP警護の依頼を手配し忘れて、先方の重役から直接反町社長にクレームの電話が入った。社長からの苦言を受けた近藤は、全て部下の山下課長に押し付けてしまった。依頼を受けた直後に山下に指示を出したのに、山下がそれを遂行し忘れたようなのだと弁明したのだ。会社と契約先に損害を被らせたとして、山下は懲戒処分となり、三ヶ月の減給となった。山下とは長い付き合いで、そのようなミスを犯すような人物ではないことをよく知っている隅井戸は、山下を問いただした所、やはり全ては近藤の責任である事を知った。隅井戸は直接近藤に詰め寄ってその罪を咎めたところ、のらりくらりとかわされた。その後、何かにつけてパワハラすれすれの嫌ごとを隅井戸に押し付けてくるようになった。しばらくは無視していたが、あまりにもしつこく続くので、遂に我慢しかねて近藤を殴りつけてしまった。近藤は警察時代に腕を慣らしてきたとはいえ所詮ロートル、腕には自身のある若い隅井戸の方が一枚上手だった。隅井戸のアッパーカットが近藤の顎をとらえ、近藤は事務所の床の上に蛙のようにのびて気絶した。しかし事務所の中では、どういうわけか床に転がった近藤に同情する者が多く、遂に隅井戸の方が悪者にされてしまった。近藤との長い確執や不正の事実、最近のパワハラに近いやり口について、反町社長と話し合った結果、反町は隅井戸が語る内容を全て承諾した上で、大人の判断を下した。結局、隅井戸はそれなりの退職金を手に会社を辞めることになったのだ。もともと俺は警備員になどなるつもりはなかったのだ、俺はこれを機会に探偵になるんだと宣言をして隅井戸は警備会社を去った。
隅井戸武探偵事務所の電話が鳴る。この事務所の電話は未だにダイヤル式の黒電話だ。昔ながらのこの電話が格好いいと信じているのだ。電話なんか通話が出来ればいいと、武は思っている。近頃はプッシュ式がどうだとか、IP電話が安いだとか、セキュリティがどうしたとか、転送がなんだとか、いろいろあるというが、俺の事務所にはそんなモノはいらない。マーロウが電話料金を気にしていたか? キャレラ警部がピ、ポ、パとかやっていたか? だが、留守番機能だけは必要だ。黒電話には留守録機能はないので、携帯電話に転送されるように契約している。何しろ一人でやっているから、事務所は留守がちであるし、秘書を雇うほどの余裕はないからだ。
「隅井戸武探偵事務所。はい。はい。分かりました。明日、一時。お待ちしていますよ」
どうやら調査の依頼らしい。既婚婦人、声の感じからすると四十五歳から五十歳の間。冷静を装ってはいるが、声は上ずっていた。おそらく旦那が浮気でもしたのだろう。その浮気を突き止めて欲しいという依頼なのだろう。まぁ、俺はそれで飯が食えているのだから仕方がない。浮気調査なんか出来るかと断ってしまっては、今の日本じゃ到底探偵事務所などやっていられない。俺はしがない町の探偵なんだ。イサム・スミイド、名前の音が似てはいるが、所詮、サム・スペードにはなれない。