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第六章 悪夢からの逃亡者-3

 テツと呼ばれた男は、意外にも若い男だった。まだ三十歳を過ぎたばかりというところか。まだこういう生活をするようになって日が浅いのだろう、全く浮浪者然としていない。まるでキャンプを楽しんでいる若者のようだった。そういう理由で、青いテントの住居も全く年季が入っておらず、マットと毛布、折り畳みの卓袱台、それくらいの道具しかないようだった。そして、そこにはもう一人、こちらもキャンプ場に迷い込んだサラリーマンといった風情の若い男が背中を丸くして膝を曲げて、駄々っ子が拗ねているみたいに耳を抑えて横たわっていた。よく見ると小刻みに震えているのだった。

「この人だよ、この前俺が拾ったのは」

 テツが口火を切った。

「二日前の夜中だな。俺は晩飯にする獲物を手に入れて帰ってくるところだった。その辺まで戻ってきたら、ほら、このちょっと先に、左右に枝を張った大きな木があっただろう?」

「おう、あったあった」

「あの木の下で妙な事をしようとしている奴がいたんだ。それがこの人なんだが……」

「何しとったんや?」

「どこか、コンビニででも買ってきたんだろうな、梱包用の細いビニールの紐を一生懸命に木の枝にぐるぐるくくりつけているんだ」

「ほぉー何しとったんやろな?」

「俺はピンと来たね。だから言ってやった。そんな細い紐じゃぁ、紐が首に食い込んじまって、苦しいばかりだぞって」

「そらまたご親切に」

「ビニールの紐は伸びてしまうし、首に食い込むし、苦しいばかりで死ぬのは無理だと」

「自殺……しようとしてたのか」

今まで黙って聞いていた隅井戸が初めて口を挟んだ。

「そうだ。で、俺は……」

「やめれって言うたんやな?」

「違う。もっと太いロープがあるから、くれてやるって言った」

「そらぁ何を言うねんな」

「うん。俺も考えた末にそう言ったのだ」

「ほぉ、そうなんか?」

「死のうとしてる人間の心は、もう死ぬことだけに入り込んでしまっている。だから、止めるようなことをいっても無駄だ。だから……」

「流石。伊達に探偵をしている訳ではないようだな、隅井戸さん」

「へー! そんなもんかいなぁ?」

「で、俺はロープを取りについて来いと言って、ここへ連れてきた」

「だが、ここに連れてきた途端に、急に泣き出したり、うわあぁーっと叫んだり、とにかく普通じゃない。そこで俺は、とにかく座らせて、とっておきの焼酎を薬だと言って生のままで飲ませた。こいつは、結構いい暮らしをしてるんだろうな、こんなきつい安酒なんか飲みつけていないんだろう。ふにゃふにゃ言いながら眠ってしまった」

「で、名前は聞いたのか?」

「いや。口を聞かないんだ。酒を飲んでいる間も、もるとか、もれとか、うぉおおおとか、理解出来ないうめき声を上げるだけで、何かを聞き出そうとしても無理だった。だから、こいつが眠ってから持ち物を調べるつもりだったが、俺も眠っちまって」

「翌日は……昨日だな、どうなった?」

「昨日からずーっとこんな感じだ。飯も食わない。丸くなってブツブツ言ったり、震えたり、耳を抑えて呻いたり。そして疲れて眠ってしまう。糞にも行かねーぞ」

 こういう場合、空に閉じ篭っている人間を引っ張り出すには、無理やりイエス、ノーを聞き出そうとしても無駄だ。自由に語らせるオープン・クエスチョンがふさわしい。さらに、共感出来るように、同じ問題を抱えているとか、共通の人間を知っているとかいう情報が有効だ。探偵業をしているうちに自然に身についたやり方で、隅井戸は横たわっている彼の背中に声を掛けた。

「あの男はなんて言ったんだ?」

隅井戸はこの辺りにヒントがあるだろうと、山を張って居酒屋で仕入れた男の話を振ってみた。

「あの、黒ずくめの男だよ。あいつと話したんだろう?」

「し、知っているんですか?」

当たり。横たわった身体はそのままに、少しだけこちらを向いて、彼が口を開いた。

「ああ。俺も会ってみた」

「あいつは、あいつは……僕に何を……したんだ?」

「何を……しただって?」

「あんたは、あの黒ずくめの男と、居酒屋で話したんだろう?」

「そうじゃない。あの男じゃない。外に居たんだ……、道端に居た……、あいつ……」

「なんだって?」

その言葉で隅井戸は萬田の顔を思い出した。

「萬田が……あの浮浪者が、何か言ったのか?」

男はまた黙り込んだ。黙り込んでまた両耳を抑えた。両耳を抑え、膝を曲げて身体を縮めて「ううう」と唸り声を上げた。

「何だ? 苦しいのか? どうした?」

「もるす……たなとす……」

隅井戸は、はっとした。どこかで聞いたことがある。あれは……萬田だ。あの時、萬田が口にした言葉だ。俺にはよく聞こえなかったが、多分、萬田も、もるす、たなとす、と言ったのだ。この男も、萬田から同じ言葉を聞いたのに違いない。


男の名前は、やはり亀居総一郎だった。財布の中に入っている免許証でそれが分かった。総一郎は、しばらくうめき声を上げていたが、再び、ぽつりぽつりと話し出した。あの居酒屋で飲んだ帰りに、路地で転びそうになり、その時にすぐ横にいた浮浪者から呪文のような言葉を聞かされた。そしてその翌日から、奇妙な幻聴が頭の中に響くようになったと。二日ほど気のせいだと思って我慢していたが、ついに三日目にははっきりとした声が頭の中で聞こえるようになった。その声は「殺せ、殺せ」と、総一郎を殺人者にしようとしている、総一郎はそう言うのだ。

「ぼ、僕は……頭がおかしくなったんです。誰かが僕を人殺しにしようとしている。あの、頭の中の声で」

「頭の中の声は、なんて言ってたんだ?」

「今もまだ聞こえる。殺せ、殺せ、殺せ!」

「殺せ……それだけか?」

「言葉は……それだけ。だけど、僕の身体が、足が、勝手にどこかに連れて行こうとする!」

「あかん、こいつ、イカレてるわ」

「足が……勝手に動く?」

「だ、だけど、僕は……そんな、そんな、人殺しなど、人殺しなんかしたくない!」

「そら、そんなことしたらあきまへん。ポリさんに捕まりまんがな」

「ちょ、ちょっと、菅野さん、黙っててもらえますか?」

「す、すんまへん。お口、チャック!やな」

「それで?」

「そ、それで……僕は、逃げようとした。」

「何から?」

「この、この忌々しい、頭の中の声から!」

「頭の中の声から?」

「そ、そないなこと! ……あ、すんまへん、お口チャック!」

「頭の中の声から逃げるためには……耳から聞こえるんじゃないんだ。頭の中で言ってるんだ! だから、だから! もう、頭を潰すか……」

「あ痛ぁ!」

「もう、死ぬしかないと……思いました」

「それで首吊りを!」

「だけど、この人に、テツさんに止められてしまった」

「隅井戸さん、僕は、僕は、どうしたらこの悪夢から逃げることが出来るんです?」


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