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第六章 悪夢からの逃亡者-1

「なぁ、どないしよう、こいつ」

 煤だらけのジャケット、初夏なのに破けた真冬のズボン、右足は穴の空いた革靴、左足は新聞紙を何重にも巻いて紐で止めている。ひょろ長い身体のてっぺんに、垢と誇りでゴワゴワになった頭髪をのせた男が言った。萬田と呼ばれた男は、変色した白いシャツの上によれよれの黒い上着、しわくちゃの黒いズボンを身につけている。起きているのか眠っているのか、半開きのまぶたの下には焦点の定まらない目が泳いでいる。

「萬田はんよぉ、お前はんがどこででもボサーッとしてるから、助けたったんやないかいな。何とか言うたらどうや」

 ようやく萬田の虚ろな目が背の高い男の顔に向けられた。二人は今、繁華街の外れにある小さな公園のベンチに座っている。ベンチの後ろには段ボールで囲われた壁があり、青いビニールテントの四隅が細いロープで引っ張られ、段ボール小屋の屋根になっている。その小屋の中では鼾をかいている男が横たわっている。萬田は背の高い男を見つめながら呟いた。

「……ど、どうして、あ、あの人を……?」

「そやからなぁ、あんたがあいつに何かされよるんとちゃうんかと、思うたんやがな。そうやなかったんか?」

「わ、わしゃ分からん。き、君が悪いことをした」

「もお! わいは、あんたを助けたっただけや。ええ加減なこと言わんといてえな」

「す、菅野。菅野、あの、あの人、殺すのか?」

「アホなこと言わんといてぇな。わいがそんな大それたことしまっかいな。あんたを助けよ思うて、その辺にあったビール瓶で、つい、どついてしもただけやがな。殺すやなんて、そないな恐ろしいこと、言うたらあかんで」

 菅野が飲屋街の路地裏でゴミ箱を覗き込んで晩飯を漁っていると、道にへたり込んでいる萬田の姿を見つけた。またどこかで酒が残った瓶にでもありついて酔っているのかな、大丈夫なのかなと思って近づいて行くと、妙に気取ったスーツを着た兄ちゃんが萬田の上にかがみ込んで何か悪さをしようとしている。そう思った菅野は、そこら辺にあったビール瓶で見知らぬ男を後ろから殴りつけたのだった。ぶっ倒れた男を見た萬田が、男を指差しながら、あーあー! と騒ぐので、警察にでも来られたら厄介だと思い、気絶した男を酔いつぶれた男に装い、背中に負ぶって公園まで戻って来たのだった。

 二人がぼそぼそ話しているうちに、後ろの鼾が止まった。段ボール小屋の中で横たわっているのは、隅井戸武、しがない探偵家業を細々と営んでいる男だ。

 隅井戸が目を開けると真っ青な空がおぼろげに見えた。何か臭うな。そう思いながら両手を動かしてみた。大丈夫だ、何ともない。俺はどうしたのだ? 確か、居酒屋の前の路地を歩いて……次第に視力が戻ってきたので天井をよく見ると、上は青空ではなく、青いビニールテントだった。この狭いスペースには、様々な物が置かれている。小さなテレビ、炊飯器、書物、きちんと畳まれた衣類。誰かの部屋らしい。外で誰かが喋っている。隅井戸はゆっくりと身体を起こして足下に出口を発見した。四つ這いになってこの汗臭い小さな部屋を出た。

 部屋の外はどこかの公園らしかった。辺りはすっかり暗くなっていて、賑やかな街の気配も消え、男の話し声以外には、木々を揺する風の音しか聞こえなかった。目の前の汚いベンチで二人の浮浪者が座って話をしている。一人は痩せて細長い身体の、イエス・キリストみたいな容貌の男。もう一人は……こいつは、あの路地で俺が近づいた男だ。何者なのだ? 隅井戸は四つ這いのまま音を立てないようにして、男たちが座っているベンチの後ろから離れようとした。

「お? お客はん、目ぇ覚まさはったみたいやな」

ひょろ長い風体の菅野は素早くベンチを離れて、地面を這って逃げようとしている隅井戸の前に立ちはだかった。

「ちょいと、あんはん、待ちなはれ。あんたわいの連れに、なんかしようとしとったんちゃうんけ?」

男に見つかってしまったのを知った隅井戸は、このまま殴り掛かろうか、それとも様子を見ようかと迷ったが、恐ろしそうな相手でもないのを見て取って、取りあえず後者を選択した。

「お、お前は誰だ? 何なのだ?」

「誰やてか? わいは、わいやこう見えてもまだ人間様やで。そんなことより、あんた、わいの連れに何しよったんや?」

 この大阪弁の男、悪い奴ではなさそうだ。もう一人の正体を調べねばならないし、もしかしたら何かが分かるかも知れないな。隅井戸は、ここはこいつらに調子を合わせてみようと思った。

「俺は私立探偵、隅井戸武だ」


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