第四章 失踪 その4
「おう、兄ちゃん、今日も出足が早いね!」
「けどな、さっさとお母ちゃんとこに帰った方がいいよ」
酔っ払いオヤジの挨拶はこんなものだ。まだ陽が暮れて間もないというのに、狭い居酒屋の店内はすでに満席状態で、かろうじてカウンターの端から二番目の席が空いていた。総一郎は座面が赤いビニールの丸椅子に座って、ビールと串カツ盛りを注文した。店に入ったときに戯言の挨拶をしてきたサラリーマンは連れと常連客がまじりあって、わぁっと盛り上がっている。総一郎はビールをグラスに注いで静かに口に近付けた。
「お兄さん、若いのにもうくたびれているのかい?」
いちばん端で一人焼酎を飲んでいた妙な男が声をかけてきた。
「はい? いやぁ、くたびれてなぞ……」
「むふふ。仕事が厭になってるのじゃないのかい? 顔に書いているよ」
「か、顔に?」
男は少し風変わりだった。印象はホームレスだ。隣に座るときに、ちょっと厭だなぁと思ったもの。しかし、とくに臭ってくることもなく、浮浪者というわけでもないらしい。黄色く変色した白シャツの上に黒いジャケットをはおり、太いズボンは麻なのか綿なのかよく分からないがとにかくよれよれのパジャマのようだ。髪がのばし放題で、これが浮浪者と見間違えさせるのだが、口髭を伸ばし、顎には無精髭。頭の上には黒いハットを乗せている。もう少し清潔にすれば、見方によっては格好良く見えるのに。総一郎はそう思う。
「そうだ。お前は、どう見てもくたびれている」
「こんな店で安酒を飲む連中なんて、みんな多かれ少なかれ、そんなものじゃないですか?」
「まぁ、そうかもしれないな」
「だが……」
男は話を継いだ。
「お前さんみたいな若いのが、仲間も引き連れず一人で、しかも騒ぎもせずオヤジのように飲んでいる。これはとても珍しいことだぞ」
「そ、そうですかね? みんな、僕みたいのは一人で飲みに来ない?」
「だいたいはな。何か問題を抱えていない限りはな、お前さんみたいに」
この男、本当に分かって言っているのか、適当なことを言っているただの酔っ払いなのか、総一郎は用心しながら男の話に耳を傾けた。
「もしな、お前さんさえよければ、いい方法を教えてやってもいいのだぞ」
「いい方法……なんのです?」
「処世術じゃ」
「処世術って……錬金術みたいな?」
「なに!? 錬金術は金を生む中世の手品じゃ。俺は真面目に言っているぞ」
「分かりました、ごめんなさい」
「お前さんはな、会社という組織の中で、もしくは、社会という世間の中で、思い通りにならない処遇を悩んでいるのだろう?」
「おじさん、なんだか難しいことを言いますね」
「うるさい、黙って聞け。たとえば、自分だけつまらない仕事をさせられている。自分だけ仲間から外されてしまっている。自分だけ出世街道から外れてしまっている。こんなことじゃないのか?」
「! その通りです。おじさん、よく分かりますね」
「当たり前だ。わしはそういう人間を山のように見てきたからな」
「なるほど。もしかして、おじさんは大手企業の偉いさん? だったりして」
「まぁ、そうではないが、そんなものだな」
「どっちなんですか?」
「どっちでもいい。そんなことより、お前さん、気をつけいよ」
「気をつける? 何にです?」
「そういう弱った心につけ込む輩がいるからな」
「大丈夫ですよ、そんなものには僕は引っかかりません」
二時間後、総一郎はすっかりいい気持になって店を出た。あの男はいつの間にか姿を消していた。今出た店は裏通りの路地にある。家に帰る電車はまだ走っているから、駅のある表通りに向かう。路地を出る手前の壁に浮浪者が寄っかかっている。一瞬、さっきのあの男かと思ったが、こっちは本当の浮浪者だった。避けようと思った拍子に足元が滑ってよろめいた。総一郎は、浮浪者のいる壁に激突した。
「おおーっと危ない。こりゃぁ、だいぶん酔っちゃったのかな」
思わずそう言いながら浮浪者に接触することだけは避けようとしたら、すぐ傍にいる形になった浮浪者が総一郎を見つめていた。総一郎はギョッとして体制を立て直そうとしていると、浮浪者の顔が近付いてきた。
「な、なんだ? やめろよ」
浮浪者はさらに顔を近寄せてきて言った。
「……もるす、たなとす、だれ」
総一郎は浮浪者を突き飛ばした。
「……もるす、たなとす、だれ」
浮浪者はもう一度言って壁を伝ってずりおちた。
翌朝、自分のベッドの上で目を覚ました総一郎は、昨夜はそんなに呑んだつもりもなかったのに、どうしたことなのだろう、すっかり酔って、家に帰ったことも覚えていない、そう思った。先に起きて朝食の準備をしている紀久子が振り向いて言った。
「おはよう。コーヒー飲む?」
「ああ、おはよう。昨日は……すまなかった」
「あら? どうかしたの? 昨夜はなんだかさっさと眠ったわね」
総一郎は、うん、と言っただけで、新聞を開いてコーヒーを飲んだ。新聞の一面には、「乗用車が歩道に乗り上げて小学生死亡」というタイトルが大きく目立っていた。
総一郎は、通勤中に、イヤホーンで音楽を聴きながら電車に乗る。その日も何気なくいつもの音楽を鳴らしていたのだが、妙な声が聞こえた気がした。「ん?」そう思ったが、雑音か何かだろうといにしていなかった。ところが、午後になってから、また声がした。仕事中でイヤホーンも付けていないのにだ。
それからは頻繁に同じような奇妙な声が頭の中でする。気のせいだろうと思った。次には幻聴だと思った。だが、やがて、その声は本当に頭の中で響いていると分かった。何を言っているのかはよく分からない。日本の言葉ではないのだ。どこか外国の、それも古い時代の言葉。ラテン語なのか、ギリシア語なのか、英語とフランス語の一部分しか習っていない総一郎には、何語であるかさえ分からない。だが、何かを直接総一郎の脳に語りかけているようだ。もごもごもごと言ってるように思えるときと、もう少し明確に聞こえる時がある。
大手流通会社への出荷を終えて休憩している時に、また聞こえた。今度はかなりはっきりと聞こえた。
「mors tanatos dare」
そう聞こえた。総一郎は、昨夜の浮浪者を思い出した。あいつも何か言っていた「もるす、たなとす、だれ」たしかそう。もるす、たなとす、だれ……いったいなんだこれは。頭の中で聞こえているのはあいつの言った言葉なのか?
翌日も同じように頭の中で声がする。声は常に聞こえるわけではない。朝、昼前、昼食後、三時ごろ、夕方、そんな思い出したような間隔で聞こえる。だから気がおかしくなってしまうほどではない。医者に行こうかとも思ったが、いやいや、こんなものは病気ではない。やはり気のせいなのだろう。そう思って三日ほど過ごしたが、四日目くらいから、よりはっきりとした意思が伝わってきた。
「やれ。殺せ。殺せ」
この時、すでに総一郎は普通の状態ではなくなっていたのだろうと思う。普通の精神状態なら、間違いなく精神科に走ったことだろう。だが総一郎は黙って耐えていた。自分は変じゃない。大丈夫だ。おかしくなったわけではない。自分自身に言い聞かせ、声がしない間は普通に仕事をこなし、普通を装って家に帰った。家に帰ると紀久子が何か言いたそうな顔をしていたが、総一郎は黙って飯を食った。それからなにも言わずに眠って、朝には会社に行った。その翌日、ついに頭の中の声に従いそうになっている自分を発見して、会社を早退し、どこかに逃げようと思った。そしてついに家には帰らなかった。




