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第四章 失踪 その2

 やっとの事で涙の洪水を止めた紀久子の様子を確認してから、義母は電話帳を持ってきなさいと言ったそうだ。分厚い都内版の電話帳をテーブルの上に置いて、バッグの中から取り出した細いフレームの老眼鏡を掛けてから、義母は電話帳の目次を見た。

「警察は、こういうときにはだめらしいのよ。何か事件が起きてからでないと、警察は動かないの。頼りになりませんことね」

普段刑事ドラマをよく見ている義母は、そんな事を言ったそうだ。義母である亀居静香は、電話帳をアイウエオ順にめくりながら、何かを探した。

「こ、こ、こ……興信所ではだめね。結婚相手を調べるわけじゃないんだから。あなたたちのときに使ったあの興信所では役には立たないわ……。え? あ、なんでもないわ、ひとりごとよ、気にしないで。……うーーーん。た、た、たー……探偵事務所。CIA探偵事務所……ちょっと怖そうだわね。新畑任三郎……これって刑事じゃなかったかしら? し、し、す、す……すみ、隅井戸武探偵事務所」

「…………」

「紀久子さん、これ、どうかしらね。うん、いいじゃない? なんだかやってくれそうだし。この辺りにしときましょう。もう目が疲れてきたし」

「隅井戸……ですか? お義母?」

「そうよ。隅井戸……タケシって名前が格好いいじゃない、ね、ここに電話してみましょう」

義母はそう勝手に決めて、夕べ電話をしてきたのだ。

「あの、ちょっといいですか? 私、タケシではなく、武と書いてイサムと呼んでいただいているのですが……。ま、どうでもいい事ですがね」

夫総一郎が行方不明になったのは一昨日の夜。昨日事務所に電話して来て、今日が三日目であることを頭の中で計算してから武は言った。

「まだ、ひょっこり帰ってこないとも限りませんねえ」

すると女は白い顔をして答えた。

「そうであって欲しいですわ。でも……そうあって欲しいですけど……そうだとすると、今度は、夫が三日間も何処で何をしていたかが気になるわ」

「何が気になるんです?」

「どこか知らない女の所にでも泊まっていたのかと思うと……。むしろ、何か事件にでも巻き込まれてしまって帰って来れない方がいいわ」

女はそう言った。

「それはちょっとばかり、おかしかないですか?」

 隅井戸が言うと、

「いやいや! あの人が知らない女の所でナニしていたなんて、考えるだけでも嫌ですわ」

身体を左右にイヤイヤとゆさぶりながら、亀居紀久子は言った。いずれにしても、即刻調査に入らないと、本当にその旦那が危険にさらされている可能性もあるのだ。隅井戸は、紀久子から総一郎の顔写真を預かり、また連絡すると告げて、取りあえず家に帰した。

 夫が帰らない方がいいだなんて、あの女はどうかしている。何がどうあれ、一刻も早く帰って来て欲しいと願うのが普通の考え方ではないのか? それとも、夫を愛し過ぎる気持ちがそこまで言わせるのだろうか紗季ならどう言うだろう。俺が行方不明にでもなってしまったら心配で気が狂ってしまうのではないだろうか。あいつはそういう女だ。俺にぞっこんだから、仕事のために一日でも帰れなかったりすると、朝まで眠らずに俺を待っている、紗季はそんな女だ。俺が浮気をして遅いのだと分かっていたとしても、その態度は変わらないだろう。いつだって俺の事を心配しているのだ。浮気しているくらいだったら、何か事件に巻き込まれて帰る事が出来ない方がいいだなんて、絶対に思わないはずだ。それが普通の人間というものではないか。


 隅井戸が紗季と結婚したのは五年前だ。警備会社を辞めた後、仕事も探さずぷらぷらしていたときに紗季と出会った。探偵稼業を始めることは決めていたので、特に職探しをするつもりも無かったのだ。事務所にするための適当な物件を探すことだけがやらなければならないことだった。隅井戸が不動産の周旋屋の前に貼っている物件情報を眺めていると、いつの間にいたのか、隅井戸の横で同じように物件情報を見ている女性がいた。隅井戸は、なにげなく「あなたも家をお探しなんですか?」と声をかけてみたのだ。

 普通なら、不動産屋の前で張り紙を見ている冴えない男に声を掛けられたら、逃げて行くに違いない。だが、紗季は違った。隅井戸の質問にまともに答え、自分は家というか、もっと広い建物を探しているのだと言った。

 紗季は孤児院出身だった。今でこそ、孤児院なんて呼称はないそうだが、当時は親のいない子供を引き取る施設を孤児院と呼んだ。国の法律によって、そういう名称が付けられていたのだ。今は児童養護施設という名前に変わり、保護者のいない児童だけでなく、保護者から虐待されている子供とか、何らかの事情で子育てが出来なくなった保護者の児童などが暮らしている。現在でこそ全国に約六百もの養護施設があり、三万人もの児童が保護されているが、紗季が居た頃にはまだまだ施設数も不十分で、心ある人間がボランティアで子供たちを引き取るという私設孤児院も存在していたという。紗季はそんな個人的に運営されている孤児院で暮らした。紗季の親は生きているのか、死んでいるのか、とにかく物心つくかつかないかという年恰好の時に、孤児院入口のところで眠っているところを園長だった奥山に拾われたのだという。

 紗季が拾われた孤児院の名前は、わかば学園という。わかばというのは、奥山園長が事故で亡くしてしまった愛娘の名前だそうだ。若葉という名の娘が三歳の時、母親は胃癌を罹病して逝った。奥山は妻を看取った後、男手一人で若葉を育てていたが、その若葉も小学一年生の時に発達障害の少年に連れ去られてしまった。若葉は気持ちの優しい娘だったから、連れ去られたというよりも、道に迷って困っていた少年を助けようとして、むしろ自分からついていったのだと言うのがもっぱらの見方だった。若葉は少年の手を引いて歩いて行った。大きな川に掛かった橋の上を通りかかったとき、少年が川の畔に何かを見つけたのかも知れない。少年は、自分で見つけた何かを取りに川岸に降りて行ったのだろう。若葉は危ないからと少年を止めるために追いかけたかも知れない。こうして流れの早い川の岸辺で、水中に手を伸ばそうとしている少年と、その後ろから少年の手をしっかりと掴まえている少女。やがて何かの拍子に少年がバランスを崩して川へ落ちそうになったので、体勢を立て直そうとして後ろから手を差し伸べていた少女にしがみつく。少女は思いがけなく強い少年の力に引きずられて、川岸で足を滑らせて水中へと落ちてしまう。流れていく少女。呆然と見送る少年。やがて少年は何があったのかも忘れてまた街を彷徨い始める。

数時間後、娘の不在に気づいた父親は、学校と警察に連絡をした。警察が周辺で聞き込みを行なったところ、障害を持った少年と二人連れで歩いていたという目撃情報が得られた。少年には一切の悪意はない。むしろ、この少年もまた心優しい子供だったのだが、残念なことに健常者のように健康な判断力や意識を持っていなかっただけなのだ。数週間後、若葉の水死体が五〇キロほど川を下った街で発見された。

妻を亡くし、娘までも失ってしまった奥山は、数年もの間、放心状態で過ごしていたが、次第に我を取り戻し、僅かな資産を投げ売って愛娘の名前を冠した児童救済施設を設立したのだった。

紗季もまた不幸な生い立ちを背負ってわかば学園にやって来たわけだが、このような園長の元で暮らして優しくならないはずがない。誰よりも人を思いやる心と、人一倍強い心を併せ持った少女に育った。この施設には、当初は十数名の子供が暮らしていたが、問題を解決出来た実の親が迎えに来たり、里親が見つかったりして、新たな幸せを手にして退園していった者、病気でなくなった者、園長に反発して家出して行った者、そんなさまざまな理由によって数を減らし、最終的には八人が残った。この八人も青年期を迎えて、順次旅立っていき、結局紗季を含む三人だけが、大人になってからも学園に残り、わかば学園を家として、奥山を父として生活を続けていた。近年は、公的な児童養護施設が充実してきたため、新たに入園者が増えるようなこともなかったという。園長の奥山も、七年前に病気で急逝してしまい、施設に残った三人がわかば学園を譲り受けて守る形になったという。だが、そのわかば学園の建物も、老朽化してしまい、建物の持ち主が取り壊しを決めた。そこで学園に暮らす三人が移り住める場所を、紗季は探していたのだった。

不動産屋で紗季と初めて会った時、隅井戸は何かしら……理屈ではない何かを感じた。この娘ともっと話をしてみたい、そう思った。軟派など柄ではなかったのだが、ごく自然にお茶に誘うことが出来たという。滅多にないことではあるが、人間誰しも、生涯に一度くらいはこういうことだって有り得るものだ。特に男女の間ならなおさらだ。初対面なのに、旧知のような、或いは前世では恋人であったのではないかと思えるくらい、急速に惹かれ合ってしまうことが、死ぬまでに一度くらいはあるはずだ。喫茶店で身の上話が弾んだ二人は、その後も頻繁に会うことになった。紗季とその施設での兄妹たちは、結局それぞれの道を歩むことになり、紗季は一人暮らしを始めた。そして探偵事務所を立ち上げようとしている隅井戸の友となり、恋人となり、支えとなっているうちに、紗季のアパートに隅井戸が転がり込んできた。事務所の資金不足を補うために、住居を引き払ったのだった。

 紗季と隅井戸は結婚式を挙げていない。実のところ、未だ籍すら入っていない。紗季には血縁者が一人もいないし、早くに両親を亡くした隅井戸にしても、親戚づきあいもなく、二人の関係に苦言を投げかける人物は誰一人居ないのだ。隅井戸は、別に籍くらい届け出てもいいのだが、面倒くささと、たかが紙切れ一枚じゃないかという意味合いのなさの両面において、未だ入籍していないというわけなのだ。紗季にしてみれば、内心は花嫁衣装だって着てみたいし、せめて籍くらいは、と思っているに違いないのだが、そういうことをおくびにも出さない。隅井戸がいいと思うのなら自分もそれでいい、紗季はそういう女だった。


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