アルビノ
チワワを買った。
その震えた身体に、私はペドロと名前を付けた。
【アルビノ】
夕暮れの街は何処か物寂しくて、歩いていると闇に飲まれてしまいそうな心持ちになる。
私がそう言うと、太郎は「そんなことないでしょ」と笑っていた。
一緒に買い物へ出かける時、太郎は決まって私の少し右斜め後ろを歩いた。その方が、危険が迫るのをいち早く察知出来るから、だそうだ。今思うと、私は太郎に愛されていたんだろう。
そう。愛されて、いた。
気がついた時には、彼は私とは遠く離れた所にいて、二人の関係は修復のしようもないほど冷えたものへ変わっていた。小さな綻びを見落とすのはとても簡単で、ほんの些細なきっかけで、人と人との関係はいとも呆気なく崩れてしまう。
太郎に「別れよう」と告げられたあの日も、夕暮れの闇は私を飲み込むことは無かった。このまま消えてしまいたいとまで思ったけれど、簡単に日々は途切れること無く、寝て起きれば朝だった。
太郎とは、前の職場で出会った。
平凡な私にとって、平凡な太郎はとても心地が良かった。
名前も、温和な性格も、学歴も、何をとっても太郎は一般的だった。悪く言えば無個性に当たるのかもしれない。でも、彼にとっての私も同じようなものだったと思うのだ。佐藤花子様、と書かれたダイレクトメールを見た太郎は、
「書類の記入見本にありそうな名前だよね」
なんて笑っていたくらいだ。
「貴方の名前も、似たようなものじゃない」
「まあ、その横に鈴木太郎って文字があっても、全くおかしくないよな」
似た者同士。
平凡な事にコンプレックスを覚え、でも平凡な枠から抜け出す事も出来ず、平凡な毎日を繰り返す。それが私たちの生き方だった。デートコースも定番を外れた事は無かったし、クリスマスや誕生日のプレゼントもその時の流行り物を適当に買って渡すのが常だった。
いつか平凡な私は、平凡な太郎と一緒になって、鈴木花子になるのだと思っていた。でも、そんな未来は何処にも無かった。
太郎は共通の同僚だった絵美と、来月結婚する。
「好きな人が出来たから、別れたい」
平凡の椅子にふんぞり返って、努力を怠った私に突きつけられたのは、太郎の誠意という最後通牒だった。
太郎と別れた次の週に、私はインターネットで知り合ったブリーダーからチワワを買った。真っ赤な目をしたチワワだ。まるで兎のようで可愛いと思ったのだけれど、家に連れ帰って来たチワワは、少し様子がおかしかった。
どうやら、目が見えていないようなのだ。
ブリーダーに連絡を取ろうとしても、何故か繋がらない。食事もろくに摂らず、震えるばかりのチワワを抱え、私は近所の動物病院の扉を叩いた。
「これは、アルビノ種ですね」
「……アルビノ?」
「そう。メラニンの欠乏で色素の欠乏で白い生き物が生まれてしまったりすることがあるんです。瞳孔が赤色になるのも特徴的で。ペットの場合、無理な交配が原因になっていることが殆どです」
真っ白な身体に真紅の瞳。
このチワワは、無理に生まれさせられた奇形種なんだそうだ。
「殆どの子が視力障害を持っていて、紫外線への耐性が異常に低いんです。すぐに皮膚ガンになってしまうことも多いとか」
「この子は、長生き出来ないってことですか?」
「育て方にもよりますが、まあ……一般的には、若くしてなくなってしまう子が多いですね」
何をおいても平凡な私に【一般的】な事から外れたことが出来るとは思えない。
診察台の上で右往左往する白い塊は、とても情けない顔をしている。
「まあ、どうしても飼えないというのであれば、アルビノ種専門の引き取りをされている方もいらっしゃいますから、ご相談してみると言う手もありますけども」
「相談……」
「そうです。普通の方には、やっぱり飼育が難しいですから」
先生はそう言うと、チワワの頭をそっと撫でた。
くぅん、と鼻に掛かった声を上げるチワワを、私は見つめる。
私がこの子を飼うと言う事は、この子の一生を背負うという事だ。
それが私に、出来るだろうか。平凡極まりない日々を享受するだけの、この私に。
暫し躊躇った後、迷いを振り切るように私は声を上げた。
「……連れて帰ります。良ければご存知の注意点を教えてもらえませんか」
言葉にすると、覚悟は確かなものになった。
連れて帰ったチワワに、どんな名前を付けるか悩んだ私は、太郎の忘れていった古いサッカー雑誌を捲って強そうな人を探した。たまたま目に付いたペドロ・ロドリゲス・レデスマの文字。クッションの上で寝息を立てるチワワに向かって「ペドロ」と呼びかけてみたら、微かに尻尾が揺れたような気がした。
その日から、チワワは佐藤ペドロになった。
散歩に行こうにも、ペドロは殆ど目が見えないため、優しく誘導してやらねばならない。また、紫外線にも弱いため、太陽の照る昼間は外に出せない。遮光カーテンのかかった部屋で、ペドロはいつも玄関マットの上に座っている。
「ペドロ、ただいま」
定時の仕事を終え、家に帰ってくると、扉の開く音に反応して鳴き声を上げるペドロ。そのまま散歩へ出かける。嬉しそうに尻尾を振る姿は、健康な犬と然程変わらない。
「あら、佐藤さん。お散歩?」
「はい」
「ペドロちゃんも、今日も元気そうで良かった」
近所に住む犬好きな奥さんが、ペドロへそっと手を伸ばす。
ペドロはその掌へ鼻をつけると、弾んだ声で鳴いた。
「病気とかは大丈夫?」
「検診の数値は全部問題ないです。このまま元気でいてくれればいいんですが」
「それにしても、最近のブリーダーは酷いわよねえ。普通の子をちゃんと売ってくれれば良かったのに」
普通ではないペドロを、普通で、平凡な私が育てる。
ペドロと出会ったことで、私の毎日は平凡なそれとは変わり始めた。
「でも、私はこの子と出逢えて良かった」
夕闇の中を、ペドロと歩く。
飲み込まれそうな不安は、もう訪れなかった。