第28話 羊飼いのアーニャ
本日は、第17話『帝国人のアクセレイ』に微妙に続くお話。
テーマは『羊と異文化交流』
それでは、どうぞ。
シブヤにある、とある屋敷。
シブヤに住む一部の住人に『城』と呼ばれている豪華な屋敷へと呼び出され、
帝国人の羊飼い、アーニャはカタカタと震えていた。
「そう震えるでないわ。かつてはともかく今のわらわはお前たちを守れなんだ
一族の小娘ぞ」
外からの見た目とは裏腹に、実用一点張りの質実剛健な内装の広間で、
アーニャを前にそう言いきるのは、若いと言うよりも幼く、
少女と言うよりも童女と言った方が良さそうな少女。
だが、かつて帝国で羊を飼って暮らしていたアーニャは知っている。
豪奢なドレスを纏い、隣に赤い手袋をつけたメイド…
あの狼どもですら屠る実力を持つ帝国最強の護衛と謳われた格闘家部隊
『ブラッドハンド』の1人を侍らせた少女が何者なのかを。
「そ、そんなことは…その…こ、皇女殿下…」
一介の平民に過ぎぬアーニャにとっては、雲の上の存在。
震えやまぬアーニャを見て、エッゾ帝国第1皇女エリザベート・L・ラーディルは
ふぅ、とため息をつき、気を取り直して話を進めることにする。
「まあよい。そのまま聞け。貴族風の回りくどい言い回しをわらわは好まぬ。
単刀直入に言おう。羊飼いのアーニャよ。おぬしに頼みがある…
おぬし、羊を飼ってみぬか?」
表情を正し、エリザベートはアーニャに言う。
「ひ、羊!飼えるんですか!?」
その言葉に思わず震えを忘れ、アーニャは声を上げた。
傍らに侍ったメイドが思わず動きかけるのを目で制止し、エリザベートは言葉を重ねる。
「そうだ。おぬしは羊飼いなのだろう?…そして今は羊は持っていない」
「…はい」
エリザベートの確認にアーニャは悲しそうに答える。
アーニャたちが家族みんなであちこちを歩き回り、
草をはませて大事に飼っていた羊は、全滅した。
…冒険者に襲われて全て奪われたのだ。
アーニャと、アーニャが10歳の頃からの相棒である牧羊犬のボリスだけでも
両親と兄が冒険者の気を引いている間に衛兵のいるススキノに
逃げ込めただけでも運が良かったと言うべきだろう。
家族もおらず、羊を持っていない羊飼いなど、何の意味がある?
1人になってしまったこともあり、半ば自棄になって
ススキノに来ていたアキバの冒険者の一団について行くことにして…
アーニャはこうしてシブヤの第二帝国の帝国人として暮らしている。
字もロクに読めない女の身なので仕事の選択肢は少なかったが、
それでもシブヤ…正確にはシブヤに程近い大都市アキバの恩恵もあり、
帝国にいた頃よりもむしろ楽に暮らしてはいる。
「それで…羊を飼えるって本当なのでしょうか?」
だが、アーニャの本質はやはり羊飼い。
それは自分でも分かっていた。
まだまだLvは16と未熟だが、生まれたときから羊飼いになるべく、
羊飼いの両親に育てられたのだ。
帝国では、羊がよく飼われている。
寒い帝国の冬を越えるのに、羊の毛や毛皮で作った暖かい服は
必要不可欠であり、需要も高い。
また、羊の肉や乳も帝国人にとっては慣れ親しんだ食物
(料理してしまうとロクに味がしなかったが)だ。
そう言った事情もあり、帝国にはアーニャのような羊飼いは多い。
エリザベートはそこに目をつけた。
つい先月の『幸運な出会い』を生かすことを考えたのだ。
「うむ。実はな、先日、わらわたちの新たな『友人』となった者たちが羊を飼っている。
かの者たちは帝国の保有する馬鈴薯の種芋と交換でならば
何頭か融通しても良いと言っている」
周囲の探索と、領土の拡大を命じたフョードルとアクセレイが見つけてきた
異邦の民は、本来住んでいた草原から森の中へと居を移したのを機に
己が民族の長年の生活様式を改める決意をした。
1箇所に定住せず、牧草を求めて旅から旅で暮らす遊牧の暮らしから
1箇所に腰を据えた農作と放牧主体の暮らしへと。
そうした流れの中で、彼らは帝国に彼らが長年親しんできた家畜と、
農作物の交換を申し出てきた。
逃げ延びた第二帝国の民にはアーニャのような羊を持たない羊飼いも何人かいる。
イースタルでは殆ど飼育されておらず、生肉すら余り出回らない羊を手に入れれば、
彼らの技術も生かせるようになる。
「そういうわけでな、羊を受け取りに行く羊飼いがいるのだ。
それも春に、馬鈴薯の植え付けが始まるまでの間彼らの村に留まり、
飼い方を習うものが」
フョードルが連れていた羊飼いの雑兵によれば、彼らの飼っている羊は尻尾が太く、
帝国で一般的に飼われていた羊とは色々と性質も違うという。
彼らから育て方を学び、伝えるものが必要だ。
それには羊飼い…それもシブヤに家族がおらず、頭がやわらかい若い羊飼いが良い。
また、羊飼いにとって必要不可欠な牧羊犬…羊の群れと羊飼いを守り、
命令1つで亜人や魔物とすら戦い、時にそれを屠る護衛も
シブヤまで連れて来れたものは少ない。
彼らは今、冬の間に近隣の街や村から貰ってきた子犬を
一人前の牧羊犬にするべく育てている最中だ。
…そうして若く、運良く熟練の牧羊犬をシブヤまで連れてこれた
アーニャに白羽の矢が立ったのだ。
「春まで彼らアラルの民の村で暮らし彼らの羊の飼い方を習う役目、お前に頼みたい。
無論、アラルの民と取引した羊の何頭かはお前に譲ろう。
引き受けてはくれまいか?アーニャよ」
「はい!お引き受けいたします!」
エリザベートの求めを、アーニャは快諾する。
羊さえ飼えるのならば彼女にとって断る理由は無かった。
「そうか…では、頼むぞ」
エリザベートが満足げに頷き、アーニャのアラルの民の村の暮らしが決まった。
『第28話 羊飼いのアーニャ』
1
1年前に15歳で成人したときに両親から贈られた鐘を括りつけた杖を持ち、
愛犬のボリスを連れ、アラルの村に持っていく交易品を積んだ
帝国人の中年行商人と共に旅をして1週間。
アーニャは持ち前の健脚で歩き続け、幸い魔物らしい魔物にも会わずに
ようやくそこへとたどり着いた。
「あ、あれがアラルの人たちの村ですか!?」
話には聞いていたが、見るのは始めてである彼らの村、アラル。
家の代わりにテントが立ち並ぶ光景が、アーニャの目に飛び込む。
「ああ、そうだよ。変わった格好だが、気のいい人たちだ」
「そっかあ…ボリス。ほら、あれが私たちの新しい羊をくれる人たちの村だよ」
クゥ~ン…
主人のはしゃぐ気持ちが分かるのか隣を歩いていたボリスも甘えるような声を上げる。
「はっはっは…元気があって良いことだ…おっと」
そんな1人と1頭を微笑ましく思いながら、更に馬を進めると、馬が駆け寄ってくる。
南方のナインテイル以外では余り見かけない、浅黒い肌の大地人の男。
まだ少年と青年の間にある、髭の無い若い男で、腰にはこの辺りでは余り見ない
半月刀を2本下げ、弓と矢筒を背負っている。
男は2人と1頭の前で馬を止めると、浪々と声を上げる。
「貴殿らはエッゾの民とお見受けする! 私はアラルの民、サイードの息子
バドゥルである!遠いところをよくぞ参った!歓迎する!」
「うむ、いかにも!私は第二帝国の商人ルスラン!
貴殿らに約束の品と人を運んできた!
すまないがアラルの長、アンワール様のところまで案内頂きたい!」
その声に応え、商人もまた声を上げる。
「ほう。ではそちらの女が…了解した。ついて来てくれ」
頷きを返し、馬をゆっくりと歩かせる。
「…よし、行くぞ」
「はい」
その男、バドゥルについて行き、2人はアラルの村に向かった。
アラルの村。
元々はザントリーフ戦役の折に滅んだ廃村だったが、
今はこうしてアラルの民が占拠し、暮らす村。
「ほえ~…」
その村の様子をキョロキョロと見回しながら、アーニャは驚きの声を上げた。
アーニャの知る、街や村とは随分と違う。
古びてはいるが丈夫そうな布と、木で作ったと思しき枠組みで組み立てられた、
円形のテントが立ち並び、村の規模を考えると異常なほどの数の馬が繋がれている。
元々の家々…木と石で出来た小屋は、村の蓄えを入れておくための倉庫以外は
潰されて手料理に使う石竈や焚き付けに使われているようだ。
「あれって…もしかして羊の皮ですか!?」
物心つく前から羊に慣れ親しんできたアーニャはそのテントに驚く。
羊の皮を野営用の天幕に使うのは帝国でもやっていたが、
それを住むための家に使うことは無かった。
だが、彼らはそれを完全に『家』として使っていた。
「そうだ。馬と羊は我等アラルの民にとって無くてはならぬもの。
我等は馬と羊を飼い、暮らしてきたのだ」
アーニャの反応に、機嫌よくバトゥルは答える。
「こっちだ。アンワール様の所に案内する。あそこだ。2人とも、ついて来てくれ」
そして気を取り直し、岡の上に建てられたこの村で最も豪華なテント…
族長と『勇者』の住まうテントを指差し、客人の2人に言う。
「はい…よかった…本当に、羊、飼えるんだ…やったよボリス。羊、飼えるよ」
その途中、帝国のものとは少し違う羊を大量に率いた羊飼いを見て、
アーニャは自然とほころび、ぴったりと寄り添うように歩くボリスに話しかける。
羊が飼える。
そのために旅をしてきたことが無駄では無かったことが、無性に嬉しかった。
2
骨組みのしっかりした村で一番豪華なテントの前に立ったとき、バトゥルは言った。
「ここだ…悪いが10歩ほど下がっていてくれないか?」
「はい?」
「え?」
その言葉に2人は困惑しながらも従い、下がる。
そして。
「…よし、開けるぞ」
ばさりと、入り口の天幕を上げる。
その瞬間だった。
『いいいいいるあっしゃいませええええええええええ!!!!!!!!!!!』
「うお!?」
「ひゃっ!?」
―――キャンッ!?
大地を揺るがすような大声と共に現れるのは、青い肌を持つ巨人。
濃い髭とは対照的に髪は頭の頂点以外をそり上げ、
残った僅かな黒髪を三つ編みにした、不可思議な髪型をしている。
上半身はこの寒空の下全裸であり、金の腕輪を除けば筋骨隆々の裸体を晒している。
下半身にはゆったりとしたズボンらしきもの…
ただし腰から下は煙のようになっており、良く分からない。
その巨人は機嫌良さそうに笑いながらバトゥルを見て、首をかしげた。
『ほっほっほ。驚かれましたかな…おや?』
「アズラクカマル殿…そのような悪ふざけはおやめ下さいといつも言っているでしょう」
慣れているのか、バトゥルはうんざりしたように言う。
『はて?今日は他所から客人があると主人より聞いておったので、
こうして出迎えたのですが、何故にバトゥル殿が?』
「客人はこちらです…と言うかそれを知ってるなら驚かせようとするのは
やめてください」
『むう…なるほどなるほど。そちらのお嬢さんと紳士の方が
お客人と言うわけですな?』
くりくりとした目を向けられ、驚き固まっていた2人と1匹はじわりとあとずさる。
それを見て、バトゥルはため息をついて言った。
「大丈夫だ。こちらは召喚術師であるコゼット様にお仕えする従者だ」
「じゅ、従者…?」
その言葉にアーニャは思わず青い巨人の顔を見る。
その反応に、巨人はにっこりと笑い、答えた。
『おお、申し遅れました。私はコゼット様にお仕えする従者。
魔神の〈青き月〉と申します。以後お見知りおきを』
「悪い方ではないのだが…如何せん悪ふざけが好きでな。
時折こういう行動を取るのだ」
バトゥルが先ほどの行動に対して説明をする。
一体何人のアラルの民がアズラクカマルの『いたずら』にやられたかを思えば、
頭が痛くなる。
…帝国との戦いの折には獅子奮迅の活躍を見せたのでむげに扱うことも出来無いが。
『ほっほっほ…それは酷いですな。紳士たるもの、ウィットを…ぐわば!?』
更に言葉を紡ごうとしたアズラクカマルが、前にかがみこむ。
後頭部にささるのは、長い杖。
『ご、ご主人様!?』
その衝撃にすぐさま正体を悟ったアズラクカマルが杖の主…
自らの主人に驚きの声をかける。
「…迎えに出てから戻ってこないと思って見にきてみれば、
何やってんのよアンタは!?」
『あ、いえ、その…なんと申しますか…歓迎の心を込めて、ですな…』
怒りに満ちた主人に、アズラクカマルは必死に言い訳をする。
「つまり、ま~た驚かそうとしたってわけね?」
…通じなかったが。
『ぬう!?バレバレですと!?』
「アンタの考えそうなことくらいいい加減見当つくっての!ったく!」
ふんと鼻息を1つ吐いて、アズラクカマルの主人…1人の女が向き直る。
「こんにちは。アタシはコゼット。この村で暮らしてる冒険者よ」
褐色の肌と、男のように短く刈り込んだ金髪を持つ妙齢の女性…
召喚術師コゼットがアーニャたちに笑いかける。
「ようこそ。アラルの村へ。アンワールが待ってるわ」
3
質の良い調度品が置かれた、大きなテントの中でアーニャとルスランを迎え、
アラルの民の長、アンワールは歓迎の意を示した。
「遠いところを良く来てくれた。エッゾの民よ。私はアンワール。
アラルの民を束ねるものだ」
アンワールはバトゥルより10歳ほど年上の引き締まった戦士の身体を持つ男であった。
アラルの民らしい黒髪と小麦色の肌、毛皮をあしらった、
ゆったりとしたデザインの独特の服。
顎には綺麗に手入れされた髭が蓄えられており、威厳を感じさせる。
「これはこれは、丁寧なご挨拶、痛み入ります。
私はエリザベート皇女殿下に仕える商人で、ルスランと申します。
此度はお約束の品と、羊飼いを連れてまいりました。
まだ若い娘ですが、腕は確かなので…」
最初に商人ルスランが形式どおりの挨拶を交わす。
そしてちらりとアーニャの方を見て、挨拶を促す。
「…あ、その…アーニャと申します。このたびはありがとうございます。
こちらは牧羊犬のボリスです。その…よろしくお願いします」
「ふむ。そんなに緊張しなくても良い。貴殿らは我がアラルの客人。
我が家のようにくつろいで貰いたい」
慣れていないためか緊張した様子のアーニャに、アンワールは楽にするように伝える。
「へぇ…その犬。ボリスって言うんだ。可愛いわね。貴女が育てたの?」
コゼットも身をかがめ、ボリスの目を見ながら頭を撫でる。
「あっと…そうです。その私の大事な友達で…」
その様子に少し戸惑いながらも、アーニャはコゼットと話始める。
それを横目に見ながら、アンワールとルスランは自分達の話を始めた。
「それでルスラン殿。貴殿は、シブヤなる街の商品を持って来てくれた、
ということで良いのか?」
「はい。塩と、いくらかの香辛料にコーヒー豆。ハチミツを少々に鉄の釘と麻の縄。
それと小麦粉とイースタル風の服。
あとはお約束していた馬鈴薯を持ってまいりました。
以前皇女殿下とアンワール様との間で交わされた約束どおりの品と聞いております」
「そうか。ご苦労だった。持ってきた品については、広場で商ってくれ。
2歳以下の若い羊の毛皮と肉。それにチーズで支払うつもりだが、問題ないな?」
「はい。若い羊の肉はシブヤでは結構な値段で売れますので、歓迎いたしますとも」
ルスランはアンワールの言葉に頷く。
羊の肉は“昔ながら”の料理に使う分にはどちらでも一緒なのだが、
手料理にしたときの味は、若い羊と老いた羊では雲泥の差がある。
そのため、羊の肉は若い羊のものの方が高く売れるのだ。
「そうか。それは助かる」
「では、早速ですが、私は広場へ向かいます。
アラルの村で手に入らぬ物は必要でしょうから」
「そうだな…任せよう」
「はい。では」
商談を手早くまとめ、ルスランは早速商売のためにテントを出て行く。
それを見送り、アンワールはコゼットと戯れる羊飼いに目を向ける。
「さてそちらの…アーニャと言ったか。貴女にも説明せねばならぬことがある」
「はい…」
アンワールの関心がこちらに向いたことに気づき、アーニャは居住まいを正す。
「まず帝国に渡す羊についてだが…バトゥル」
「はっ」
今までじっと沈黙を保っていたバトゥルが答える。
「このバトゥルの一族が飼っていた羊を全て与える」
「全て…ですか!?」
その言葉にアーニャは驚く。
それに頷きながらアンワールは言葉を続ける。
「問題ない。バトゥルからの提案だ。
バトゥルの家の男は帝国との戦のせいでバトゥルしか残っていなくてな。
飼っている羊も男が1人だけでは世話出来る数でもないのだ。
それにバトゥルは元々アラルでも有力な一族の戦士。
故にバトゥルは私に羊を売り渡した金を母に渡し、自分は傭兵になる。
そうだったな?」
「はい。私は遊牧民である前に、戦士です。
これからはこの弓と剣を使い生きていこうと思います」
アンワールの確認に、バトゥルは首肯を返す。
「そういうわけだ。羊を売るにしても、それなりに世話ができるものに売りたい。
故にエッゾの民と契りを結んだのだ。頼むぞ、エッゾの羊飼いよ」
そしてアーニャの目を真っ直ぐ見て、言う。
あの日切り結んだ後友人となったフョードルが宴の席で当然のように言っていた、
『馬を使わぬ羊の飼い方』を知る、エッゾの羊飼い。
その技を学ばねば、広い草原の無いこの地で羊を飼うのは難しい。
アンワールはエッゾの羊飼いよりその知識を学ぶつもりでいた。
4
アーニャは、バトゥルの家で世話になることになった。
何でも、バトゥルの家族は年老いた母が1人居るだけで、広さには余裕があるらしい。
「真っ直ぐに家に向かっても良いのだが、まだ日が暮れるには早い。
先に羊を見せてやろう」
「はい!」
その言葉にアーニャは1も2も無く頷き、アーニャはバトゥルについていく。
村から少し離れた、少し開けた広場。
「わあ!ボリス、羊だ、羊だよ!」
そこにいたのは、50頭以上の羊。
バトゥルが飼っている羊が草原に広がり、草を食んでいた。
「わぁ…こっちの羊は、顔が黒いんですね」
羊達を見ながら、感想を漏らす。
エッゾで一般に飼われていた羊は顔も毛皮も白かったが、
こちらの羊は顔が黒く、毛皮も少し茶色っぽかった。
「そうなのか?俺たちにとって羊と言えばこの羊だがな…さて」
そんなことを言いながら、バトゥルは広場に繋いでおいた馬に乗る。
「暗くなる前に羊を幕屋に戻さねばならんのだが、アーニャよ。
…お前、馬は持っていないのか?」
いつものように馬で羊を追おうとしたところで、バトゥルは気づいた。
この娘は、この村に来るときも徒歩だった。
確かにバトゥルよりも若いが、流石に馬が与えられ無い年には見えなかった。
「え?…ああ、アラルの人たちは羊を飼うのに馬を使うんですね」
「ああ。我等アラルにとっては馬は生涯の友。1人につき最低でも1頭は飼うものだ。
…その口ぶりだと、エッゾでは羊を飼うのに馬は使わないのか?」
そのことに驚く。
以前村を訪れたエッゾの『軍』は大半が徒歩だったが、
まさか羊飼いまで馬を使わないとは思っていなかったのだ。
「はい。馬は高いですし、乗るのも難しいですから。
帝国では羊飼いは牧羊犬を飼うんです」
牧羊犬は子犬の頃から育て上げた牧羊犬は羊飼いの大切な友であり、財産。
当然のことのようにそう考えるアーニャは言う。
「牧羊犬?…お前が連れている犬か。
確かに夜の間の見張りには我等も犬を使うが…それでできるものなのか?」
「え?そりゃあ出来ますよ。ボリスは目も耳も頭もいいですし、脚も早いですから」
―――バウッ!
バトゥルの問いかけに、アーニャは自慢の息子を紹介するようにボリスの背を撫でる。
それに応える様にボリスは一声だけ鳴いた。
「そうか…すまないが、見せてもらえないだろうか?牧羊犬の技に、興味がある」
「分かりました」
バトゥルの頼みに1つ頷き、アーニャは杖を振り上げる。
「ボリス、行くよ?」
その言葉と共に、アーニャは杖を地面についた。
ガランガラン
杖に括りつけられた鐘の音…アーニャの『指示』を受けて、ボリスが走り出す。
―――バウッ!
慌てず騒がず一声だけ鳴き、羊を誘導していく。
「ボリス、そこ!」
アーニャはゆっくりと羊の群れを見ながら歩き回り、
群れから幼い子羊がはぐれそうになっているのを見つけて杖を振り、鐘を鳴らす。
その音に反応してボリスはちらりとアーニャを見た後、
アーニャの指先を見てはぐれかけた子羊に気づく。
―――バウッ!
すぐさま反応し、ボリスは群れを誘導して子羊がはぐれないようにする。
瞬く間に羊達は夜を過ごすための幕屋に入り終え、全てを終えたボリスが一声鳴いた。
「よしっ!戻ってきて、ボリス!」
杖を鳴らし、戻ってきたボリスをアーニャは撫でてやる。
この4ヶ月ほど羊を追っていなかったことを感じさせない、
見事に息のあった作業であった。
「ほう…中々やるな。エッゾの民も」
自分達遊牧民に勝るとも劣らぬ羊の扱いにバトゥルは感心する。
馬も持っていないような若い娘に羊飼いが勤まるか疑問であったが、
どうやら杞憂のようだ。
「終わりました!基本的なことはアラルの人たちの羊も同じみたいですね」
やがてしっかりと全ての羊が幕屋に戻ったのを確認して、
アーニャがバトゥルのところへと戻ってくる。
「ふむ。どうやらそうらしいな…では、これから家に案内しよう。
何、今我が家には俺と母しか居らぬ。形式ばったことは言わぬさ」
そう言うと馬の上から手を差し出す。
「へ?」
「村まで乗せていく。乗ってくれ」
不思議そうな顔をしているアーニャに、バトゥルはむっつりとした顔で言う。
「いいんですか!?」
「構わんさ。見知らぬ男の馬に乗るなどイヤだと言うならば仕方ないが」
「いえ、そんなこと無いです!…では」
頬を赤くしながら、そっとアーニャは手を差し出す。
「ふむ…良い手だ」
その、皮が厚くなった手の感触に、バトゥルは素直な感想を漏らす。
「へう!?そ、そんなこと無いです…その、アカ切れとか、豆とかもありますし…」
「それは当たり前であろう?」
バトゥルは不思議そうに言う。
アラルでは帝国のような『貴族』などというものは居ない。
子供と老人以外はアンワールも含めて皆、生きていくために働くものだ。
「お前の手は働き者の良い手だと、俺は思うぞ」
「え…あ…ありがとう、ございます…」
バトゥルのはっきりとした物言いに、アーニャは俯いてしまう。
照れくさいのと…また別の感情を感じながら。
(うむ?どうかしたのだろうか?)
戦士として鍛えられたがゆえに色恋沙汰には疎い本人には、
何を言っているのか自覚は無いのだが。
5
バトゥルの家である幕屋。
「あらあら。エッゾから来たって言う羊飼いさんは、
随分と可愛らしいお嬢さんなのね」
歓迎の宴のために整えた、アラル風の豪華な手料理を並べながら
バトゥルの年老いた母、ラナーは微笑みながら言った。
「はい!これから、よろしくお願いします!」
「はい。任せてちょうだいな。ご自分の家だと思ってくつろいでちょうだいね」
元気よく挨拶をするアーニャに、ラナーは笑みを深める。
「さて、食べてちょうだいな。コゼット様直伝の手料理をたっぷり用意したから」
「はい!頂きます!」
床に広げられた、数々の料理。
小麦粉に塩と水を加えて焼いた、無発酵パン。
羊の乳で作ったチーズとヨーグルト。
まだ若くて柔らかい子羊の肉を焼いたもの。
オスマニアの更に東から伝わってきたと言う、羊の骨を煮込んだスープ。
秋の間に集めて干した山葡萄のレーズン。
アラルの流儀で濃く入れられた、アラビカ風のコーヒー。
「どう?おいしいかしら?」
「はい!」
アーニャは本心からそう答える。
シブヤで出回る『帝国料理』とはまた違う趣だが、これはこれで美味だった。
「良かった…どんどん食べてちょうだいね。まだまだお代わりはあるから。
ほらほら。バトゥルも食べて」
「ああ…うん。うまいよ母さん」
母の手作り…まして味までついた手料理に、バトゥルも頬を緩ませる。
「そう…良かった」
その様子に昔、男の子ばかり5人も育てていた頃のことを思い出してラナーも笑う。
年老いた母1人と、2人だけとはいえ食べ盛りの若い子供達。
昔が戻ってきたように思えた。
「ねぇ…アーニャさん、うちの子にならない?」
そんな雰囲気にラナーは思わず口にする。
「はい!?うちの子って…ええっ!?」
「母さん!やめてくれよ!」
その言葉の意味に、アーニャとバトゥルは思わず同時に声を上げる。
「あらあら。意外と良いかも知れないわよ?なんてね」
そんな2人に面白等にラナーは笑った。
こうして、エッゾ帝国の羊飼いアーニャはアラビカの遊牧民、
アラルの村で暮らし始めた。
朝はラナーの家事を手伝い、昼から夕刻まではバトゥルと共に羊の世話をする。
その中でアーニャはアラル羊の気性を学び、バトゥルやアラルの村の民たちは、
ヤマトにおける羊の飼い方を学ぶ。
そうして、しばしの間は、穏やかな時間が流れ…彼らがやってきた。
6
アーニャがアラルの村にやってきて、2週間ほど経った頃。
アンワールがコゼットを伴って南にある冒険者の街、
アキバに出かけている最中にその事件は起こった。
「おい、バトゥル。ちょっと良いか?」
夕刻、幕屋に戻ってきたところで、バトゥルの友人の1人が幕屋に来ていた。
「なんだ、アリー。随分と慌てているようだが」
「ああ、実はな…村の外れの森に怪しげな連中が陣取っている」
先ほど、アリーと共に狩りに出た若い連中が見つけてきた連中のことを、
アンワールを除けば村でも屈指の実力を持つバトゥルに話す。
「怪しげな連中?」
その言葉にただならぬものを感じたバトゥルは先を促す。
「ああ、この辺じゃ見ないような格好してた。
多分帝国ではないと思うが…かなり強いと思う」
その連中は、この辺りでは最も強い熊の怪物を解体して料理していた。
それはつまり、熊を狩るほどの実力者であることを表す。
油断して良い相手とは、思えなかった。
「分かった…アーニャ」
「いえ、私も行きます!」
ここで待っててくれ、と言う前にアーニャが言葉を遮る。
「大丈夫。ボリスもついてますから」
強い決意を込めて、頷く。
アーニャがこの村で暮らして2週間。
この村は、アーニャにとって第2の故郷と言って良い場所になっていた。
「…分かった。危ないと思ったらすぐに逃げろよ」
その決意を見て、バトゥルもまた、頷く。
ボリスの賢さと、ボリスを操るアーニャの腕前はバトゥルも知っている。
居れば役にたつはず。
そう考え、バトゥルはついてくる事を許可する。
「まったく、族長が居ない時に限ってこのようなことになるとは」
こういうとき頼りになるアラルの族長アンワールは、
アキバの『円卓会議』なる場所に出かけている。
こういう場合は、皆で考えて動かねばならない。
「行こう。放って置けばどうなるかわからない」
「ああ」「はい」
アリーに促され、アラルの男達は村はずれの森へと向かった。
村はずれの森。
普段から、バトゥルたちアラルの民が狩りや薪集めをしている森に、彼らはいた。
見慣れぬ格好をした、老若男女入り混じった数百人規模のキャンプ。
森の、少し開けた場所では焚き火が焚かれ、
男達が周囲を警戒し、女達が手料理に精を出している。
「あれか…盗賊の類には見えないが…」
「ああ、そうだな…女子供まで連れ歩く盗賊など、幾らヤマトでもおるまい」
バトゥルたちは気づかれぬよう、離れたところから様子を伺う。
アラルの民は危険な荒野を渡る一族。
故に下手な騎士より戦に長ける。
気づかれることは…
「…!おい!誰かいるぞ!?全員、戦に備えろ!」
…ないはずが、怪しげな集団の見張りがバトゥルたちに気づき、大声を張り上げる。
辺りはにわかに喧騒に包まれた。
「…なんだと!?」
その戦の備え…
男どころか女まで思い思いの武器を手に立ち上がったのを見て、バトゥルは息を飲む。
「おいそこの連中!亜人の類じゃねえなら出てこい!でなきゃ敵と見なすぞ!」
集団の見張りがバトゥルの方を見据えながら、言う。
誤魔化せない。
そう判断し、バトゥルが代表して立ち上がり、その集団に声をかけた。
「貴殿らは何者か?見たところ、このイースタルの民ではない、ウルフヘアのようだが」
集団のものが皆、髪の量が多いこと、集団の若いものたちが警戒し、
耳と尻尾を出していることから、目の前の集団が全員
〈狼牙族〉だと判断し、バドゥルは何者かを問う。
この辺り…『イースタル』の民が纏う服とは違う、
変わった装束を纏った集団であった。
老若男女を問わず頭には独特の紋様が刺繍された布を巻き、
袖と裾に似たような刺繍を施した毛皮で出来た、ガウンのような服を着ている。
成人した男の中には何人か服の上から鋼を寄り合わせた帷子を着ているものもいる。
動物の皮で作った革の靴は相当に長い距離を歩いてきたのか随分とくたびれている。
そして男は2本の刀と弓を、女は杖や槍、戦槌や斧と言った様々な武器を持っている。
…子供を除いた全員が武装した、異様なウルフヘアの群れ。
彼らは油断せず黙ったままでバトゥルたちを見つめ…
群れから1人の男が代表して前に出る。
恐らくはこの集団の長なのだろう。
髭と髪の濃い、狼と言うよりは熊のような大男で、
毛皮の服の上から板金の胴丸を着込んでいる。
下げた2本の刀も他の男達のそれより大柄な拵えになっており、
見た目にあった怪力と、バトゥルをも越える実力を感じさせる。
男は、バトゥルに問うた。
「お前たちこそ、なんだ?この近くは滅びた村のはず。
見慣れぬ格好だが、何故こんなところにいる?
1人や2人ではないということは、ただの猟師ではあるまい」
互いに答えず、そのままにらみ合いになる。
互いに正体が掴めず、困惑する。
…やがて互いに同じ結論に至ったのだろう。
互いに己が氏族の素性を述べる。
「…我等はアラルの民。故あってアラビカよりこのヤマトに移り住んだ異邦の一族。
彼の地は、魔物の襲撃に会い滅んだらしいのでな、我等が住まうことにした。
もう2ヶ月は前のことになる」
「…俺たちはエッゾの狼牙族だ。故あってアキバと言う街を目指し旅をしている。
ここは元々我等の王が途中の休息地として目星をつけていた村。
魔物さえ倒せば野営に丁度いい場所だと聞いていたので、立ち寄った」
「…エッゾ?」
それは、アーニャの故郷ではなかったか?
そう思い、アーニャの方を見た、そのときだった。
「お、狼ども!なんでぇ…」
アーニャがぺたりと腰を抜かし、その体勢のまま必死にあとずさる。
タダでさえ色白な肌は血の気が失せて更に白くなり、全身がカタカタと震えていた。
傍らに侍るボリスも唸り声を上げて威嚇しているが…腰が引けていた。
「あ、あぶ!すぐ逃げないと、こ、ころさ…いや、助けて…」
尋常な怯えようではない。
「おのれ!賊か!?」
その様子にバトゥルは両腰に下げた2本の半月刀に手を掛ける。
一方のウルフヘアの群れもその様子を見て、臨戦態勢に入る。
「…一応言っておくが、抜いたならば、容赦はせんぞ。
略奪は王に厳に禁じられているが、そちらが戦う気ならば
戦わずして引くは北方狼牙の名折れだ。
…帝国人の味方ならば、俺らにとっちゃ敵だってことだろうからな」
その首魁たる熊のような大男が、両の手を2本の刀に掛け…獰猛な笑みを浮かべる。
(…この男、俺よりも強い!)
その、堂に入った立ち姿に、半月刀を抜くに抜けずバトゥルは震えた。
バトゥルは同世代の中では一番、一回り年長な、
経験の多い族長の世代に混じっても見劣りはしない剣の腕を持っている。
バトゥルは、自分のことをそう考えているし、
他のものの話を聞くにそれは恐らくそう間違っていない。
故に、分かる。
この熊のような狼牙族の男は…バトゥルより遥かに高い、
ともすればアンワール以上の技量の持ち主だ。
更に後ろに控える男たちや、静かに魔力を高めている女たち。
その中にすらもバトゥル並の技量の持ち主が何人もいる。
普段はどれほど熱くとも殆ど汗をかかぬバトゥルの背中に冷たい汗が流れる。
敗北の予感を振り払うように、バトゥルが剣を抜こうとした、そのときだった。
『ほっほっほ。無益な争いはよろしくありませんぞ。双方、剣を引きなされ』
腰から下が煙となっている、裸の青い巨人が、
にらみ合いを続けるバトゥルと大男の間に下りて壁となる。
「なに!?こんな場所に巨人だと!?」
その姿に大男は一瞬怯む。
巨人は北方狼牙の力を持ってしても早々倒せるものではない。
数十人の優秀な戦士を用意し、相当な犠牲を払ってようやく倒せるような代物。
…巨人の技量次第では、全滅もありえる相手だ。
「おお、アズラクカマル殿!」
一方のバトゥルは知り合いの魔神の顔を見て思わず安堵の息を漏らす。
冒険者コゼットの従える魔神、それが居るということは。
空から、2人の男女が降りてくる。
「アラルの民たちよ!戦うな!かの者達は敵ではない!」
「ハチさん!戦っちゃダメ!センカの…狼王の命令だよ!」
辺りに響き渡るは、空から降り立った、アンワールと小柄な女の声。
「おお!戻られたか族長!」
「も、モモっ!?王直属の語り部が何故ここにいる!?」
その言葉に、今にも戦いを始めようとしていた双方の動きが止まる。
「その辺も含めてちゃんと説明するから、まずは全員剣を納めて」
小柄な女…アメヤの村において村長の補佐を努める語り部モモが、
にらみ合いを続ける同胞に促した。
7
それから1時間の間、アラルの村で説明が行われた。
アラルの民に対してはアンワールとコゼットが。
一方の北方狼牙に対しては、モモが。
「では…」
そうして事情を飲み込んだ北方狼牙の移民団の第3陣を束ねる狼牙族の武士、
ハチが改めてモモに確認をする。
「うん。ハチさんたちが連れてる鶏を雄が5羽に牝が15羽。
これを雄の羊2頭と牝の羊8頭で交換する。
その上で飼い方を互いに教えあうこと。
それがウチとこのアラルの人たちの間で交わされた約束なんだ」
その約束をハチに伝えるために、冒険者の持っている魔法の絨毯に乗せて貰い、
ごく短い時間でここまで来れたのは幸いだった。
もし到着が遅れれば、アラルの民が酷い目にあうことになっていたはずだ。
「そうか…しかし羊は…」
ようやく納得したハチが、羊と聞き、帝国人とおもしき娘を見る。
「ひぃ!?」
その視線だけで怯え、アーニャは人見知りの子供のようにバトゥルの後ろに隠れた。
帝国人、特に正規の騎士でもない平民にとって、狼ども…
北方狼牙は恐怖の対象でしかなかった。
「あ~、そんなに怯えなくていいから!
確かにハチさん顔怖いけど、悪い人じゃないから!…多分」
その事情を察し、モモは無理に笑顔を作り、アーニャにいう。
「多分、じゃねーよ!」
ハチの抗議もなんのそのだ。
…そうせねばならない理由が、モモにはあった。
「あはは…あとは、もう1つ。アーニャさん…でいいんだよね?
伝えなきゃいけないことがあるんだ」
そう、今や…
「第二帝国とアメヤの村に、互いを不可侵として通商を行う条約が結ばれました。
第二帝国エリザベート皇女殿下とアメヤ村長センカとで結ばれた正式なものです」
…第二帝国とアメヤは、同盟を結んだ仲なのだから。
「ええっ!?」
その言葉に、アーニャは驚いた声を上げる。
「まあ、そういうわけだからさ。そんなに怯えないでよ。
アタシらは帝国人には手を出さないから」
第二帝国皇女、エリザベート・L・ラーディルは勇敢だった。
供のメイド1人だけを連れてアメヤの村を現れ…互いの安全の保証を迫ったのだ。
―――帝国と北方狼牙は相容れぬであろう。余りに互いの血を流しすぎた。
されど、第二帝国とアメヤの民ならば、まだ友人と成り得る余地はある。
わらわはそう考えているが、ヌシはどう考える?狼の王よ。
その言葉にセンカが頷き、丁度村を訪れ、交渉をしていた
異邦人の長を立会人に条約が結ばれた。
細かいところはセンカとミドリがつめてくれているはずだ。
「本当だ。条約の締結には私が立ち会った。私が証人だ」
モモの言葉に、アンワールも頷く。
「まあ、そんなわけだから…ハチさん。帝国人だからって襲っちゃダメだからね?
殺していいのはモンスターとウエノにいる盗賊だけ。分かった?」
「お、おう。分かった。それと、羊と鶏の交換、だったか?」
今のモモの言葉はかつて代替わりにてハチを殺し、
見事に王と呼ぶに相応しい力を証明した狼王の言葉でもある。
故にハチは素直にそれに従うことにした。
「うん。アメヤからここまで、生きたまま鶏運ぶとなると結構な人手がいるからね。
第3陣でも何羽か鶏は持ってたと思うんだけど…」
「おう、そんなら…おい!カシワ、タマコ!悪いがお前の鶏を分けてやってくれ!
なぁに、暫くはこの村に残って、飼い方教えるついでに
数を増やしてそいつを渡してやりゃあいい!
羊の飼い方を習うのも任せるぜ!」
モモの確認に1つ頷いてハチが2人の名前を呼ぶ。
「「はいっ!」」
返事と共に、群れの中から2人の男女が姿を現す。
北方狼牙には珍しい小太刀を下げた若い男と、
それより少し年上で顔色が悪く…腹が膨らんだ女。
その2人を見て、北方狼牙の内部にも詳しいモモが感嘆した声を上げる。
「お~、確かカシワって言ったら北方狼牙でも屈指の鶏飼いの名人の一族じゃん。
張りこんだね?」
「まあ、最初だからな。ちゃんとしたもん渡さなきゃ王の面子潰しちまうだろ?
…それに、カシワの嫁さんのタマコは今、見ての通りの身重でな。
長旅が堪えている。ここでガキを生むまで住まわせてもらえるなら、ありがたい」
ハチの提案には、そういう意味も含まれていた。
「そっか。なら頼むよ。お2人さん。
今、アメヤでは新しい子供は大歓迎だからさ。楽しみにしてるよ」
「あっと…はい、お任せ下さい」
「きっと丈夫な子供を生んで見せます。
カシワくんの子供だから可愛いのは当然ですけど」
モモの言葉に少し頬を赤らめながら2人は頷く。
「うん。頼むね…それじゃアンワール様。くれぐれもよろしくお願いします」
「ああ、分かった。彼らもまた、このアラルの客人。丁重に扱うことを約束しよう」
「はい。お願いしますね!」
2人の間で握手が交わされる。
それが、アラルの村に新たな客人が迎え入れられた、瞬間であった。
8
そして、季節は巡り、春。
イースタルの街道…シブヤへと続くその道を羊の群れが歩いていた。
冬の間に生まれた子羊を含んだ、60頭近い羊の群れ。
「よし!こっちだ!」
羊の群れ先導するのは、冬の間に色々と商人を通じて運んできてくれた
第二帝国に渡す贈り物を積んだ立派な戦馬をゆっくりと歩かせる褐色の肌の青年。
「ボリス!行って!」
時折はぐれそうになる羊を牧羊犬を巧みに操って群れに引き戻すのは白い肌の少女。
彼らはどちらも熟練の技で羊を先導し、確実に歩を進めていた。
「ふむ。この調子ならばあと2日と行ったところか?」
「はい!多分それくらいだと思います!」
バトゥルとアーニャの2人が会話を交わす。
「そうか。いよいよか…」
その言葉に、バトゥルが緊張する。
「もう。大丈夫ですよ。皇女殿下に羊を渡して…結婚の報告をするだけなんですから」
そんなバトゥル…つい先日、アーニャの『夫』となった男にアーニャは微笑みかけた。
「うむ、そうは言うが…異邦の民と結婚したアラルの民は俺がはじめてなのだぞ?
お互いの風習も良くは知らないんだ。不安にもなる」
その微笑みに気圧されるように、バトゥルは少し眉を潜める。
「大丈夫です!私、信じてますから。あなたのことを…」
そう答えるアーニャの赤い頬が、色白の肌に映え、非常に美しかった。
バトゥルがアーニャと結婚することになったきっかけは、
あのウルフヘアとの出会いの日だった。
あの日、狼牙族を見た恐怖に震えるアーニャを落ち着かせるために、
色々と手を尽くしているうちに感情が盛り上がり、情が移った。
アラルに滞在することになったウルフヘアの夫婦が、非常に仲睦まじく、
(アキバの冒険者の言葉を借りれば『バカップル』と言う奴らしい)
時と場所を選ばず行われる愛の言葉のぶつけ合いに当てられて
そういう雰囲気になったこともある。
バトゥルの母、ラナーもバトゥルとアーニャの結婚に非常に乗り気で、
いつの間にやら『結婚する』ことが噂となっていたのもある。
…そして何より、当のアーニャが非常に乗り気だったのが、とどめだった。
かくて、バトゥルは村を出ることをやめ、羊を飼うことになった。
妻となったアーニャと共に。
「今日は途中に街がありますから、そこに泊まりましょう!
野宿では…ゆっくりできませんから」
「そうだな…」
多分それだけではないのだろう。
そう考えながらも、バトゥルの表情は明るい。
異邦の地で、異邦人の妻を迎え、羊を飼う。
そんな暮らしも悪くない。
そう、バトゥルは考えるようになっていた。
今日はここまで。
ちなみに羊飼いの能力は基本となる羊を扱う能力の他に
『犬を含む中型獣系モンスターのテイム』が入ってると言う設定。
ごく普通の大地人の羊飼いの場合基本は普通の犬ですが、
冒険者の場合、洒落にならない高レベルまで育てた犬や、
神狼などの超高レベル獣系モンスターをテイムしていたりします。
…扱いは完璧に戦闘用ではなくペットと言うパターンも多いですが。




