知らない方が幸せなこともある。でもこれは知ってた方がよかった事例
※本当にただ胸糞悪いだけで終わります。救いはありません。スッキリみたいなのをお求めの方はご注意を。
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知らない方が幸せなことって、世の中にたくさんあるらしい。
だったら私は、生まれつき、ちょっと得をしていると思う。
「今日な、雲ひとつないで。めっちゃええ天気や」
あの人は毎朝カーテンを開けて、その日の空を教えてくれる。
私の一日は、だいたいそこから始まる。
今朝は服の音がいつもと違った。固い布の音がした。新しいシャツかな。
「珍しくちゃんとした格好してるね」
「言うたやん。今日は大事なイベントやねん」
「うん。聞いてる」
お仕事の関係の、それはそれは大事なイベントなんだそうだ。それがなんなのかは聞いていない。聞けばきっと教えてくれる。でも、聞かないことにしている。
あの人の世界は広くて、ぜんぶ知ろうとしたら、きっと私の手には余る。あの人が声にしてくれるぶんだけが、私の世界。それでじゅうぶん足りている。
差し出された結び目に指をあてて、ネクタイをまっすぐに直す。曲がってるかどうかなんて、ほんとうは私にはわからないんだけど。
「曲がってない?」
「おまえが直したんやったら、曲がってても正解やろ」
そういう理屈の通らないことを、あの人は真顔で言う。たぶん真顔。声が真顔だった。
大きくなったお腹を、大きな手のひらがひと撫でする。
「もうすぐやな」
「うん。予定日、今週だから」
「......そうか」
少しだけ間があって、それからいつもの声で言った。
「じゃあごめんけど、行ってくるわ」
「うん。気をつけて」
玄関で、新しい革靴が聞いたことのない音を立てた。手さぐりで上着の襟を整えて、送り出す。
「いってらっしゃい。......あのね」
「ん?」
朝からお腹の張りが、いつもと少し違う気がしていた。でも、今日はあの人の大事な日だ。
「ううん、なんでもない。いってらっしゃい」
「お〜」
ドアが閉まって、鍵がまわる。足音が遠くなって、聞こえなくなる。
私の世界からあの人の声が出ていくと、部屋は急に広くなる。だからいつも、帰ってくるまでの時間は、あの人の声を思い出しながら過ごす。
帰ってきたときにいろいろお話聞かせてもらわないとなぁ〜。
それから一時間もしないうちに、お腹の底を、ぎゅうっと大きな手でつかまれたみたいになった。
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今日、おれは結婚する。
相手は建設会社の社長の一人娘。顔は正直、あんま好みとちゃう。
けど一人娘や。婿に入ったら、義父さんの会社ごと、ゆくゆくはおれのもんになる。
三十過ぎまであちこち渡り歩いてきた人生も、ようやくの上がりが見えてきたな。
仕事は、もう何年もしてへん。せんでも快適に生きていけるからな。
新婦の家には「フリーで貿易の仕事をしてる」て言うてある。細かいことを聞かれへん商売を名乗るんが、こういうときのコツやねん。
式場までは車で行く。車は、おれらの家の裏の小山をひとつ越えた先の、月極に置いてある。おれの名義のもんは、あの家の周りに何ひとつ残さんようにしてる。
歩くのが多少しんどいけど、まぁそれくらいの労力は払わんとお天道さんに怒られてまう。
ま、お天道に顔向けできるような生き方してへんけどな(笑)
おれらの家は別に山奥ってほどちゃう、駅から歩けるふつうの町や。
ただ、町の一番はずれにある。人が滅多にこんところで、隣の家まで距離がある。家賃も安うて、水道も電気もガスも困らん。目ぇの見えんあいつのために静かな場所を選んだった、いうことにしてるけど、ほんまは人目がないから選んだ。
家からその月極まで、表の道を行けば商店街を抜ける。
この道やったら楽やけど、顔を覚えられる。
近所のおばちゃんに「あらご主人?」てやられるんが、一番あかん。
おれっちゅう男とあの家をつなげて覚えてる人間を、この町に一人も作りたくない。
せやから、裏や。
小山の中腹を横に走ってる、昔の農道。柵もない、街灯もない、舗装もない。遠回りやし足元も悪い。せやから誰も使わん。誰も使わんから、おれが使う。
ポケットの中で、指輪の箱がかたかた鳴ってる。プラチナや。ほんまもんの。値段を見たときは笑たわ。指輪ひとつで、あいつの指に嵌まってるやつの何千個分やねん。
昨日の雨で、土がまだ湿ってた。
新品の革靴っちゅうのは、底がつるつるでな――
ずるり、と足の下で世界が抜けた。
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気ぃついたら、空を見てた。
雲ひとつない。ほんまにええ天気や。なんやこれ。
あ、おれ、崖から落ちたんか? 別に洒落とか言いはじめたわけでもないのに、オチたとか、ははは、これはわろた。
......いや、笑てる場合と違うな。起きよ。式に遅れる。
起きよ、と思たのに、体がどこも動かんかった。首から下が、他人の荷物みたいに重たい。声は出る。出るけど、掠れて、草に吸われて終わる。
ふと自分の体をみたら、服はずたずた。っていうか、右腕は皮一枚つながってるだけでほとんど千切れてた。左足も、落ちてきた崖に生えてたんやろか、ぶっとい木の枝が刺さっとる......。
(な......な......な、なんやこれ!? なんやねん! ゆ、夢か......? いや、い、痛い! いたいいたいいたいいたい!!!!!!)
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あー、痛すぎて麻痺ってきた。
感覚無くなってきたわ。
携帯も、遠くで何回も鳴ってんのは気ぃついてんねんけど、ちょっとでも動こうとしたら痛すぎて気ぃ失いそうになるから取られへん。
顔のすぐ先の草の中に落ちてる。画面を空に向けて。
一歩ぶんもない。頑張ったら画面の字ぃが読める距離や。そのちょっとが、今のおれには海より遠い。
死ぬ気を振り絞って「......おーい、誰かおらんかー」って声かけても返事は虫の声だけ。
......まぁそらそうやろな。ここはおれしか通らん農道の、下や。誰にも見られたくないから選んだ道の、誰からも見えん場所や。
あーどないしよ、結婚式に遅刻とかやばいよな。なんて言い訳しよか。事故りました、はあかん。婿入り初日から縁起が悪い。体調不良ってのも弱い。連絡できるやろってなるしな。道に迷った......三十過ぎの男が式の日に。あかんあかんありえへんわ。
そんなことを大真面目に考えてた。このときはまだ、昼までには誰か来ると思うてたからな。
来るわけないのにな。
おれをここに探しにくる人間なんか、この世におらんように、おれが自分でしてきたんやから。
暇やから、思い出でも考えよか。誰も聞いてへんけど。
あいつと会うたんは、駅前の交差点や。白い杖の先が段差を見失って、人混みの真ん中で立ち往生してた。ほんまに、ただの気まぐれで声をかけたんや。
「どうしたん。なんか困っとん?」
「あ......え? わたし、ですか?」
「あんた以外におらんよ」
家まで送る道すがら、あいつはようしゃべった。施設で育ったこと。身寄りがないこと。目のこと。障害年金で暮らしてること。役所の人以外、誰も訪ねてこんこと。
聞きながらおれは、頭の中でそろばんを弾いてた。
顔は悪くない。体も悪くない。金があって、身寄りがなくて、おれの顔を知らん。おれの名前の字ぃも確かめられん。おれの話の裏を取る人間が、周りに一人もおらん。
つまりやな。
金までもらえて、後腐れなしで、好きなだけ好きにできる女が、道端に落ちてたんや。
拾わん理由が、どこにあんねん。
拾うてすぐ、それまでの仕事は辞めた。
家賃も、飯も、酒も、ぜんぶあいつの年金と貯金や。おれは昼まで寝て、起きたら簡単な飯をつくる。
ほんで、ヤリたくなったら、ヤる。あいつ、でるとこでて、へっこんでるところはへっこんでて、絶妙にえぇからな。
朝でも昼でも夜中でも、あいつの都合は聞かん。だって、なぁ? 道具に都合を聞くやつは、おらんやろ?
「夫婦やから」て言うたら、あいつは何でも「うん」や。断られたことは、ただの一回もない。被せもんもするわけないからな。責任とか知ったこっちゃない。
そういう毎日を、何年もや。おかげであいつの体は......まぁ、細かいことは言わんとくわ。もう、人様に見せられるようなもんと違う。なんべんも「検査や」て言うて連れてって、闇医者に堕ろさせてるしな。あいつは今でも、あれをただの検査やと思うてる。
ついでに言うとくと、その毎日は、最初の頃から、だいたい録ってある。
あいつは、部屋にカメラがあることを知らん。知りようがないやろ。録ったやつは売れるんや。素人もんは、ええ小遣いになる。
あいつの体は、あいつ以外の誰でも見られる。世界中の知らん男が、あいつの知らんところで、あいつを見てる。
本人だけが、一生、見られへん。
外の女と遊ぶときには、あいつには「仕事」て言うとけば通る。何の仕事か、一回も聞かれたことがない。聞かんように、しつけたからな。
......いや、しつけた、は半分嘘やな。あいつは最初から、自分から聞かんのや。都合の悪そうなもんには、指一本触らんと決めとる。目ぇと一緒で、心も閉じとけば、痛いもんは見んで済むからな。
おれは、そこに乗っかっただけや。
おれらの式は、ふたりだけで挙げた。挙げた、というか、おれがそう言うた。
「呼ぶ人おらんのやったら、ふたりでやったらええやん。な?」
天井の高さも、ステンドグラスの色も、ドレスの裾も、ぜんぶおれの口から出まかせや。おれはチャペルなんか行ったことあらへん。あいつが着てたんは、通販の白いワンピースや。神父の1人もおらへんねん。
それで、あんなに泣いて喜ぶんやから。安いもんやろ。
指輪は、ガチャガチャのカプセルに入ってるような300円のおもちゃや。ガチャガチャの景品にしては、金属っぽい見た目やし、えぇやろ。もうメッキも剥げて、下のやっすい色が出てきてる。かまへんやん。どうせ、あいつには見えへんねんし。
「保証書、読んだるわ。......一生もん、って書いてある」
保証書なんか、最初から入ってへん。
籍も、入れてへん。
婚姻届なんか、あいつは一枚も書いてへん。書かせたんは、カードの申込と、キャッシングの契約と、あと何やったかな。忘れたわ。引き落としは、ぜんぶあいつの口座や。
「ここや。ここに、ぐっと押すんやで」
手ぇ導いたったら、あいつは何にでも判子を押す。押しながら、ありがとう、て言うんや。ありがとう、て。微笑みながらな。心底幸せそうな顔しながらな。
今日行くはずやった結婚式の相手に出す結納金も、このポケットの中のプラチナも、あいつの通帳から出てる。
おれは、金づる便所の金で、別の女と結婚するんや。
我ながら、ようできた話やと思うわ。
彫りもんもめっちゃしたな。
最初は、酔うた勢いの悪ふざけや。胸の下に、男子便所のマーク。「ふたりだけの印や」て言うたら、涙をこぼして痛みに耐えて、彫り上がったら何て言うたと思う?
「ありがとう」やで。
なぁ。ちょろすぎて、逆に怖いやろ。さすがにわろてもーたわ。
それで味をしめて、何回か連れて行った。
いまでは、背中いっぱいに、でかい字で「公衆便所」。あいつには「一生そばにいます」て読んだった。
太ももには、独り言でもよう言わんような単語をいくつか。あいつには「愛してます」やら「大好き」やら、適当に読んだった。
腰には、絵ぇも入れさせた。どんな絵かは、勘弁してくれ。口で説明する方が恥ずかしいやつや。あいつには「ふたりの似顔絵や」て教えてある。ふつうにそれもダサいけどな(笑)
ほんで腹の下に、もういっちょ絵ぇ置いてる。底辺娼婦でもあんな恥ずかしいもん彫ってるやつ、そうはおらんで。あいつはあれを「守り神さまの絵」やと思うてる。
ほんで、うなじ。「才藤の専用トイレ」て入れさせた。
あいつには、「才藤のおよめさん」て彫った、て教えてある。なんでそれで納得すんねんって感じやわな。
うなじは髪で隠れるし、心配もいらん。それに、あいつの髪はおれが切ってる。「美容室は金がもったいないやろ」て言うたら、それにも「ありがとう」や。
あいつは、自分の体に何が彫ってあるか、おれの朗読でしか知らん。彫るたびに泣いて、彫り上がるたびに、ありがとうて笑うんや。
健診のたびに、病院の連中がどんな顔でこれを見てるんか。いっぺん覗いてみたいもんやで。
金づる兼、便所。それがあいつや。それ以上でも以下でもない。
腹の子は、まぁ、成り行きや。産みたい言うから、好きにさせたった。どうせおれは、もうおらんようになるんやしな。認知はせん。籍もない。紙の上では、おれとあいつは他人や。他人の子や。揉めようがない。
式が終わったら、そのまま新婚旅行のはずやった。ほんで、あの家には二度と帰らんだけや。
騒がれる心配はしてへん。あいつはおれの勤め先を知らん。そもそも勤め先がない。実家も知らん。名前かて、呼び名しか知らん。字ぃも、ほんまもんかどうかも、確かめる目ぇがない。実際嘘やしな。
悪いと思てないんか、て?
思てるよ。ちゃんと思てる。
思てるだけやけど。
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まだ日の低いうちに、何回か電話が鳴ってた。
長いこと鳴って、切れて、留守番電話のマークがひとつ点いた。
「今行くとこや。ちょっと待っててくれ」
届かん電話に向かって、言い訳の練習をする。我ながらええ声や。誰も聞いてへんけど。
着信は、だんだん間があくようになった。一回ごとの鳴る時間も短くなる。
まず式場の周り。ほんでおれの携帯。ほんで、先週引き払うたばかりのアパート、っていうかヤリ部屋。
部屋を見た瞬間の、向こうの親父さんの顔が目に浮かぶわ。荷物のない部屋っちゅうのは、「計画的に逃げました」いう置き手紙と同じや。世間体の塊みたいなあの家は、そこから先は探さん。探すより、隠す方に回る。
昼を過ぎたら、携帯は鳴らんようになった。
さて、とおれは考える。電話やのうて、この草むらまで足で探しに来る人間を、順番に数えたろ。
新婦側。来ん。いま言うたとおりや。
警察。捜索願が出な、動かん。ほんで、出す人間がおらん。新婦の家は体裁が先や。実家とは十何年の音沙汰なしで、生きてるかどうかも知らん仲や。
仕事の関係。おらん。おれは何年も前から、あいつの金で食うてるヒモや。婿入りのために会社を辞めた、いうんは新婦側に聞かせてる作り話や。
ほんで、あいつ。
......あいつは、あかんな。かけることはできても、探すことはできん。おれが、できんようにしたんや。あいつが持ってるおれは、電話番号ひとつと、自分のうなじの字ぃだけや。しかもその携帯、契約の名義はあいつや。警察が本気で辿ったかて、行き着くのは自分の家や。うなじの字ぃにしても、読みは「さいとう」や。耳で探したら、この国に何十万人おる。字ぃは「才藤」で、こっちはめったにおらん。多すぎる音と、おらんすぎる字ぃ。どっちから辿っても、おれには着かん。
誰にも見つからんように、誰にも辿られんように、そうやって生きてきた。
......上手いこと、いってるやん。
喉が渇いてきた。日射しが真上から刺さる。
まぁ、慌てんでもええ。夜までには、誰か通る。
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あの人が声だけで使えるようにしてくれた携帯で、教わっていたとおりに産院へ電話をかけた。電話口の助産師さんは「その間隔ならまだ大丈夫ですよ。気をつけて来てくださいね」と言ってくれた。
玄関に置いてあった入院バッグを持って、タクシーを呼ぶ。バッグの中身はあの人とふたりで詰めた。母子手帳も書類も、書くところはぜんぶあの人が書いてくれている。
あの人に電話しようかと思ったけどやめた。イベントの間は電源を切ってるはずだし、もし切ってなかったときに音が鳴って迷惑をかけないようにしないと。
終わったあとで見てもらえるように、メールにだけ残しておこう。
「これから病院行くね。慌てて帰ってこなくてもいいからね。産まれたらまた連絡します」
こんなメッセージ見たらあなたは血相変えて飛んで帰ってこようとしちゃうかもしれないしね。事故にでも遭っちゃったら大変。
私は、ちっとも心細くない。
陣痛タクシーの運転手さんは、親切な人だった。
車の中で、私は自分の左手の薬指にハマってる輪っかを撫でてた。陣痛は一回収まってたから。
降りるとき、私の指輪に気づいてたみたいで、少しだけ黙ってから「............その指輪............なんでもないです。大事に、されてるんですね」と言った。はい、と答えたら、お釣りをぎゅっと握らせて、「がんばってね」と言ってくれた。いい人だった。
病院では受付で、ボールペンの音がしてた。
「緊急のご連絡先は、ご主人おひとりでよろしいですか? ほかにご家族の方は」
「あの人だけです」
それだけで、ずっと足りてきた。これまでも、これからも。
廊下の向こうで、看護師さんが誰かの名前を呼んでいる。
どこかで赤ちゃんが泣いて、どこかで誰かが笑っている。この建物は、あったかい音がたくさん。
陣痛室のベッドで、波をやり過ごす。
波の合間に思い出すのは、いつも同じことばかりだ。
施設を出て、独りで暮らしはじめたばかりの頃だった。駅前の大きな交差点で白杖の先が段差を見失って、音の洪水の真ん中で動けなくなった。
そこに、「どうしたん。なんか困っとん?」って、笑いを噛み殺したみたいな声が降ってきた。
それがあの人だった。腕を貸してくれて、家まで送ってくれて、次の日も、その次の日も来てくれた。
生きる意味もわからなくなりかけてるときに、あったかい気持ちにしてくれた。私の人生ではじめて、居なくならなかった声だった。
父も母も、私は声を知らない。だから神様はまとめてぜんぶ、あの人をくれたんだと思う。
式は、ふたりだけで挙げた。
「呼ぶ人おらんのやったら、ふたりでやったらええやん。な?」
あの人は隣で、ぜんぶを声にしてくれた。天井がどれだけ高いか。ステンドグラスが何色か。ドレスの裾が床をどんなふうに撫でているか。
私のいちばんきれいな思い出は、ぜんぶあの人の声でできている。
指輪をもらったときも、「保証書、読んだるわ。......一生もん、って書いてある」だって。くすっ。一生もん、とか書いてるわけないのに。実際には何が書いてあったんだろ。きっと素敵な文句が書いてあったんだろうなぁ。さすがに読むの、恥ずかしかったんだろうなぁ。
あれから毎日、癖みたいに、くるくる回して触ってしまう。
籍を入れた日のことも覚えている。
「ここや。ここに、ぐっと押すんやで」
手を導かれて、判子を押した。一枚だけかと思ったら、何枚もあった。大事な紙ほど、たくさんあるものなんだと思う。
「あとはぜんぶ、おれがやっとくわ。おまえは何も心配すんな」
紙のことは、ぜんぶあの人がやってくれる。通帳も、役所も、難しい手紙も。おかげで私は、お金の心配というものを、したことが一度もない。
私の人生の書類は、ぜんぶあの人の声でできている。
一度だけ、役所の人に引き止められたことがある。あの人と暮らしはじめて、少し経ったころだ。
「この契約、ご自身のお名前になっていますが、内容はご存知ですか」
知りません、と答えたら、役所の人は長いこと黙って、それから、読み上げましょうか、と言った。
断った。
あの人がやってくれた紙を、あの人のいないところで他人に読んでもらうのは、あの人を疑うのと同じことだと思ったから。
「もう、来ていただかなくて大丈夫です。私には主人がいますので」
我ながら、きっぱり言えたと思う。それきり、役所の人は来なくなった。
私の世界は、また少し静かになった。
あの人は、私が昼間なにをしていたか、いつも当ててくれる。お昼を食べそこねた日も、こっそり泣いた日も、帰ってくると、見ていたみたいに全部わかっている。
夫婦だから、通じるんだと思う。
それから、誓いの言葉のこと。
「ふたりだけの印、入れよや」
最初は、胸の下に小さい印をひとつ。針は、涙が出るくらい痛かった。あの人の手を、つぶれるくらい握った。
「痛いん?」
「......うん」
「痛いんは、生きてる証拠やって。......よう頑張ったな。これでおまえは、正真正銘、おれのもんや」
それから少しずつ、増えていった。
背中のいちばん大きい字は、「一生そばにいます」。
太ももには、「愛してます」と「大好き」。
腰には、あの人が描いてくれた、ふたりの似顔絵。
お腹の下には、守り神さまの絵。今はきっと、この子を守ってくれている。
そして、うなじには、「才藤のおよめさん」。
何て書いてあるか、どんな絵なのかは、彫るたびに、あの人が声に出して教えてくれた。うなじの字だけは、何度も指でなぞって、一文字ずつ教えてくれた。
服を着て、髪を下ろしたら、誰にも見えない場所にだけ、私たちの誓いは増えていく。髪は、あの人が切ってくれるから、乱れる心配もない。
夫婦の証が、世界の誰にも見えないところにあるのって、ちょっと素敵だと思う。
健診のとき、保健師さんに言われたことがある。
「読み上げのアプリとか、点字の教室とか、赤ちゃんが来る前に少しずつでも準備した方がいいんじゃないかしら」
「大丈夫です。あの人が、ぜんぶ読んでくれるので」
点字は、覚えないと決めている。
覚えたら、あの人に読んでもらう理由が、ひとつ減ってしまうから。あの人の声だけで足りる世界にしたのは、あの人じゃない。私だ。
保健師さんは少し黙って、それから「......仲良しなんですね」と言った。
褒められたと思う。
思うことに、した。
波と波の間が、どんどん短くなる。
「そろそろ、お部屋うつりましょうか」
助産師さんの声に、私はあの人の声をお守りみたいに抱えて、立ち上がる。
あの日の針より、ずっと深い痛み。でも、同じだ。
痛いのは、生きてる証拠。
大丈夫。ちゃんと覚えてる。
*****
私はこの病院に配属されて、まだ半年だ。
お産の介助につくのは、今日で12回目。回数を数えているうちは半人前よ、と先輩には笑われるけど。
「はい上手です。そのまま、ふーって吐いてください」
先輩の声かけは、いつ聞いてもお手本みたいだ。私は器械台の横で、次の指示を待つ。
今日の産婦さんは、目の見えない方だった。
緊急連絡先はご主人ひとりだけ。分娩室に入ってからも、陣痛の合間に何度も「すみません」「ありがとうございます」って笑う、感じのいい人だ。
汗で張りつく髪をまとめてあげたとき、うなじのタトゥーが見えた。「才藤の専用トイレ」。
すぐに見なかったフリをした。
「横向きになりましょうか。背中、支えますね」
分娩着の背中がひらいて、体位を変えた。
その瞬間、私は息の仕方を忘れた。
背中いっぱいの、大きな文字。
太ももに並んだ、いくつもの卑猥な単語。
下腹部には......絵。
それから、介助の手順のなかで、嫌でも目に入ってしまう場所。そこが、どうなっていたか。
やめよう。思い出すのも、言葉にするのも。
目のやり場をなくして、手が止まった。先輩と目が合う。先輩の横顔から一瞬だけ血の気が引いて、それでも声は揺れなかった。小さく咳払いをひとつして、視線だけで「仕事」と言った。
......そうだ。事情には立ち入らない。詮索もしない。私たちの仕事は、無事に産んでもらうこと。それだけだ。これがプロってやつ。私も、見習わなければ。
「......大丈夫ですよ。上手にできてますからね。もう少しです」
産婦さんの左手を握る。薬指で、メッキの剥げた小さな輪が、照明を鈍く返した。
この人、いったい、どんな人生を......。
考えるのをやめて、私は仕事に戻った。
「はい、いきんで!」
何度めかの波の向こうで、産声があがった。
「おめでとうございます。女の子ですよ!」
産婦さんは、ぼろぼろ泣きながら、ありがとうございます、ありがとうございます、と繰り返した。
世界でいちばん幸せな顔で。
まだ半人前の新人のくせに、私は勝手に祈った。
どうかこの人が、このまま幸せでありますように。
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同じ時刻、町はずれの小山の斜面の下は、まだ明るい。
草の中の携帯は、昼からずっと沈黙している。
日が暮れる。草の色が順番に沈んでいく。
何度か、気を失っては少し覚醒する、を繰り返していた。血を流しすぎている。
(あぁ、おれ、こんなとこで死ぬんか......? 独り寂しく、こんな虫と動物しかおらんようなところで。くそっ、おれは世界一不幸な男や......)
新婦の家は、逃げた男の名前を今日かぎり口にしないと決めた。男を待つ職場など存在しない。そして彼女は、男を探す手がかりを、電話番号のほかに何ひとつ持っていない。本名さえも。
男の息がいつ終わったのか、正確なところは誰も知らない。
*****
消灯前の病室は、湯上がりの匂いがする。
腕の中に、重みがある。熱くて、柔らかくて、ときどきむずかって、ちゃんと息をしている重み。
すごいなあ、と思う。今日から世界に、この子の声がある。
この病院の人たちは、みんなびっくりするくらい優しい。陣痛のときも、分娩室でも、さっきも。
「お父さんの面会の日が決まったら、教えてくださいね」
「はい。お仕事が落ち着いたら、すぐ来てくれると思います」
看護師さんは私の肩をそっと撫でて、「ゆっくり休んでね」と言って出ていった。
いい病院を選んでくれたんだなあ、あの人。
夕方、部屋に落ち着いてすぐ、電話をした。イベントが終わった頃なら出てくれるかと思ったけど、出なかった。だから、もう1通、メールを送った。
【産まれたよ。女の子。母子ともに元気です。明日もお仕事、頑張ってね】
退院したら、しばらくは家がにぎやかになる。この子の泣き声と、あの人の声と。私の耳は、これから忙しくなる。
名前はまだ、決めていない。あの人が帰ってきたら、ふたりで、声に出して決める。ずっと前から、そう決めているから。
小さな手がふにゃりと動いて、私の左手の薬指を、指輪ごと、きゅうっと握った。
「あ......」
すごい力。あったかい。
ねえ。パパの手もね、こんなふうに、大きくてあったかいんだよ。
あの人の大事なイベントがあって、この子が生まれて。
今日は、とってもめでたい日だ。
早く、あの人に見せてあげたいな。
<終わり>




