はつひので(下)
次の瞬間。
振りかぶられていた刀が、振り下ろされた。
――音が、消えた。
何かが落ちる音も、群衆のざわめきも、
風の音さえも、視治の耳には届かなかった。
目の前の光景を頭では処理しきれず、
この時何をすれば良いのかもよくわからなかった
ただ、わけがわからなかった
視治はその場に立ち尽くしたまま、
瞬きすらできなかった。
やがて、膝から力が抜け、
地面に崩れ落ちた。
「うあああああああ!」
喉が裂けるような叫びが、遅れて空へ放たれる。
怒りと悲しみが、胸の奥で渦を巻く。
そのどうしようもない思いを、何もできなかった自分への恨みを
全て身体から吐き出したかった。
気づくと視治は
腰に差した刀へと手を伸ばしていた。
鍔を弾いたその瞬間――
誰かに、そっと手を押さえられた気がした。
温かい、あの手。
その優しい手が、視治の手を押さえた。
(怒っちゃいけん)
確かに、聞こえた気がした。
(わしはあやつらを許しちょる。じゃから視治も、怒らんでくれ)
涙で滲む視界の中、
初日の出のあの山頂がよみがえる。
(どうか、わしがおまんに残したこの世界の美しさを、生涯をかけて楽しんでほしい)
刀を握る手が、震えながら止まる。
やがて、力が抜けた。
視治は地面に額をつけ、
声にならない声を漏らし続けた。
太陽はゆっくりと傾き始め、先ほどまでいた群衆も、それぞれのあるべき場所へと戻っていった。
――――
それから、視治は塾に現れなかった。
一週間後。
門の前に立つその姿は、
以前よりも少しだけ痩せていた。
だが、その目は濁っていなかった。
「先生。……私は旅に出ようと思います」
松政は、しばらく黙って視治を見つめた。
そして、
「そうですか……」
小さく息を吐いたあと、
ふっと笑った。
「そう言うと思って、用意しておきました」
奥から大きな鞄と、幾冊もの本を持ってくる。
「いつかあなたがそう言うだろうから、その時はこれを渡してやってくれと、遠井さんに頼まれていたものです」
視治の指が、震える。
「……先生が?」
「ええ」
松政は静かに頷く。
「それから、これは私から。ほんの少しの書物です」
視治は、兼通の記した最近の旅日記を開いた。
そこには、こう書かれていた。
――今日、妙な学生に弟子入りを懇願された。
目を真っ赤にして、必死でのう。
あんな目を向けられては、断れるはずもない。
あの目は、実に美しかった。
次の頁。
――あやつは、まだ美を知らぬと言う。
じゃが、それを知りたいと願う心こそ、美しいのだと、
いつか気づくじゃろうか。
さらに頁を繰る。
ーー今日は視治がついに笑いよった!
吉和屋の団子を食わせたら口角が上がっちゃった!
文字が滲む。
視治は、声を殺して泣いた。
溢れ出る涙を視治は袖で乱暴に拭った。
やがて本を閉じ、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
松政も、静かに頷いた。
「気をつけて行ってください。もし辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。待っていますから」
松政が優しく笑いかける。
その姿を見て、視治の胸に何かが込み上げたが、グッと押さえて
「はい。行ってきます!」
視治は微笑んだ。
あの日、初日の出を見た時と同じ、
まっすぐな笑みだった。
――――
桜が咲いたある日。
松政は塾から見える桜と満月を眺めながら、盃を傾けていた。
隣には、もう一つの盃。
とっくりから、静かに酒を注ぎ、手に持った盃を月にかざした。
「兼通さん。今年も、あなたの好きだったこの季節がやってきましたよ」
花びらがひらりと舞う。
遠く、どこかの山道で。
一人の若者が、立ち止まり、空を見上げていた。
夜空に浮かぶ月を眺めながら
「……あぁ」
小さく、しかし確かに。
「何と美しいのだろう」
そう呟いた。
遠井兼通という一人の旅人は、
歴史の中へと消えた。
だが。
その目は、
その言葉は、
その「美しさ」は、
確かに、受け継がれている。
たとえそれが、歴史の一行にも満たぬ出来事だとしても。
いや、
本にすら記されぬことであったとしても。
私にとって、彼らは特別で
そしてきっと、
この世にとっても
特別だったのだ。




