第二章 判のゆくえ
一
書留を受け取った翌々日の朝、寅之助は尾道の町を東へ歩いていた。
海岸通りを離れ、千光寺山の裾を回り込むようにして山陽道の旧道に入ると、次第に家並みが途切れ、石垣に囲まれた畑や蜜柑の木が目につくようになる。道は緩やかに登り、振り返ると尾道水道の青い帯が家々の屋根の向こうに光っていた。
播磨秋子のいる実家は、町外れの栗原という集落にあった。山裾に張り付くようにして何軒かの農家が並んでおり、その一番奥まった家が秋子の生家である。
寅之助は播磨の家を訪ねるのが気が重かった。五月に播磨が死んだ時には香典を包んで呉まで弔いに行き、秋子に「何かあったら遠慮なく言いんさい」と声をかけてきた。まさかその二ヶ月後に、自分の方が「何かあった」側になるとは思いもしなかった。
秋子を責めるつもりはない。秋子は播磨の商売の中身を知っていたわけではなかろうし、相続を放棄したのも弁護士か誰かの助言に従ったのだろう。ただ、事情を少しでも知りたかった。児島辰蔵という男のこと。播磨がなぜその男の保証人になったのか。そして、自分に根保証を頼んだ時に、播磨は何を考えていたのか。
農家の土間に案内されると、秋子は奥の部屋から出てきた。二ヶ月前に呉で会った時よりも更にやつれていた。四十六という年齢以上に老けて見え、髪にも白いものが混じっている。割烹着の袖で手を拭きながら寅之助の前に座ると、まず深く頭を下げた。
「寅之助さん、このたびは本当に——」
「いや、秋子さん、頭を上げてつかあさい。わしはあんたを責めに来たんじゃないけえ」
「じゃけど——」
「じゃけどもへちまもない。あんたも苦労しとるのは分かっとる。ちょっと事情を教えてもらいたいだけじゃけえ」
秋子は顔を上げた。その目には涙が滲んでいたが、泣き崩れるというよりは、もう泣き尽くした後の乾いた潤みであった。
寅之助は海軍省からの書留の件を簡潔に話した。水雷艇という言葉が出ると、秋子は怪訝な顔をした。
「水雷艇。そんなもの、主人の口からは聞いたことがないです」
「児島辰蔵いう名前は」
「児島さん。ああ、それは聞いたことがある。門司の方で」
「どういう付き合いじゃったか、分かるかいの」
秋子は少し考えてから、ぽつぽつと話し始めた。
秋子の知っている範囲では、播磨と児島の付き合いはそう古いものではなかった。一昨年——大正十一年の暮れか翌十二年の初めごろ、播磨が「門司に面白い男がおる」と言い出したのが最初だったという。鉄屑の商売仲間らしく、何度か呉に来たこともあった。秋子は児島に一度だけ会ったことがある。
「若い、威勢のええ人でした。主人とは歳が違うのに、えらい気が合うようで。主人も嬉しそうにしとりました」
播磨は年下の児島を可愛がり、商売上の後見を買って出ていたらしい。児島の保証人になったのもその流れであったろうと秋子は言ったが、具体的な内容については何も知らなかった。
「主人は商売のことはわたしには話しませんでしたけえ。帳簿も見せてもらったことはない。呉の店は畳んでしもうたけど、荷物の一部はここに持って帰っとります」
「帳簿や書類はあるかいの」
「段ボールに何箱かあります。わたしには何が何やら分からんので、そのままにしてありますが——」
秋子は寅之助を納屋に案内した。薄暗い土間の隅に、蜜柑箱が四つ積んであった。蓋を開けると、帳簿、書簡、領収書、契約書の類が雑然と詰め込まれている。播磨が急死した後、誰かが店の引き出しの中身をそのまま箱に移したのだろう。
「持って帰ってもらってかまいません。わたしにはもう、何の用もない物じゃけえ」
秋子はそう言って、また頭を下げた。
寅之助は蜜柑箱を一つだけ借りることにした。帳簿類が入っていそうな箱を選び、風呂敷で包んだ。残りは次の機会にする。
辞去する際、寅之助は懐から紙に包んだ金を出した。五圓である。
「これは——」
「見舞いじゃ。大したもんじゃないが」
「そんな、寅之助さんにこんなことをしてもらう筋合いは」
「筋合いも何もない。わしが持ってきたかっただけじゃ」
秋子はしばらく紙包みを見つめていたが、やがて両手で受け取り、膝の上に置いて頭を垂れた。その肩が小さく震えていた。
帰り道、蜜柑箱を風呂敷に包んで背負いながら、寅之助は坂道を下った。蝉の声が頭上の木立から降ってくる。汗が首筋を伝い、風呂敷の結び目に染みた。
播磨は悪い男ではなかった。人の世話を焼き、後輩を可愛がり、酒の席では誰よりも先に笑う男だった。しかし、その豪気さの裏側にあったものが、こうして残された者にのしかかっている。秋子にも、自分にも。
——形だけのことじゃけえ。
あの声が耳の底で鳴った。去年の暮れ、梶原商店の奥座敷で酒を酌み交わしながら、播磨はそう言った。
二
その夜、寅之助は帳場の奥で蜜柑箱の中身を広げた。千代が傍らに座り、二人で書類を一枚一枚確かめていった。
帳簿は三冊あった。播磨金属店の売掛帳、買掛帳、それに金銭出納帳である。いずれも大正十二年のもので、播磨の几帳面とは言えない筆跡で数字が並んでいる。千代が出納帳を繰りながら、「この人、入りと出の帳尻が合うてないところがようけある」と眉をひそめた。
書簡の束の中に、児島辰蔵の名前が入った手紙が二通見つかった。一通は児島から播磨に宛てたもので、日付は大正十二年八月。
——拝啓、残暑の候いよいよ御清祥の段、慶賀の至りに存じます。先日お話しいたしました佐世保の件につき、いよいよ入札の運びとなりました。保証人の件、何卒よろしくお願い申し上げます。落札の暁には必ず御恩返しいたします。
文面は型通りの商用書簡だが、最後の一行に走り書きが添えてあった。
——これが当たれば大きいです。鉄屑がトン二十圓を割ることはないと思います。
もう一通は、同年十月の日付で、やはり児島から播磨に宛てたものであった。
——御連絡申し上げます。先日の入札にて無事落札いたしました。金弐千八百圓也。来月中に代金を納め、年明けには解体に着手いたします。播磨様のお力添えに深く感謝いたします。
千代は手紙を読み終えると、寅之助を見た。
「大正十二年の八月いうたら、関東大震災の前じゃね」
「おう。九月一日が震災じゃけえ、その直前じゃ」
「鉄屑がトン二十圓を割らんと書いてある。ほいじゃが震災の後は——」
「暴落したんじゃろうな」
寅之助は鉄屑の相場には詳しくないが、大まかな事情は聞いていた。大震災の後、東京や横浜の工場が軒並み操業を止め、鉄屑の需要が激減した。相場は半値以下に落ちたという。
「この児島いう男は、鉄屑が高いうちに水雷艇を買うて、解体して屑鉄を売って儲ける算段じゃったんじゃろう。ところが震災で相場が崩れて、解体しても赤字になることが分かった。それで逃げた」
「そういうことじゃろうね」
「二千八百圓で水雷艇を買うて、解体にも千何百圓かかって、売っても元が取れん。そりゃ逃げたくもなるわい」
寅之助は思わず児島に同情しかけたが、すぐに思い直した。逃げた男のせいで自分がこうなっているのである。同情している場合ではない。
「ほいでもの、千代」
「うん」
「逃げた男を恨んでも始まらん。播磨を恨んでも始まらん。恨んだところで軍艦は消えてくれんのじゃけえ」
千代は何も言わず、次の書類に手を伸ばした。
三
翌日、寅之助は汽車で呉に向かった。
尾道から呉までは山陽本線と呉線を乗り継いで三時間ほどである。三等車の木の座席に揺られながら、寅之助は車窓の景色をぼんやりと眺めていた。糸崎を過ぎ、三原を過ぎ、竹原のあたりから海が見え始める。瀬戸内海の穏やかな水面に島影が点々と浮かび、小さな帆船が白い帆を張っている。この海のどこかに、やがて自分が始末をつけねばならぬ水雷艇があるのだと思うと、のどかな風景が少し違って見えた。
呉に着いたのは昼過ぎであった。
兄の梶原辰次郎は、呉の市街地からやや離れた長迫町の借家に住んでいた。海軍工廠の正門から歩いて十五分ほどの場所で、工廠の職工たちの住む家が軒を連ねている。辰次郎は妻と二人暮らしで、子供は三人いるがいずれも独立していた。
寅之助が訪ねると、辰次郎はちょうど非番の日で、縁側で新聞を読んでいた。五歳上の兄は寅之助よりひと回り痩せた体つきで、眉間に深い縦皺がある。長年ボイラーの高温の傍で働いてきたせいか、顔の皮膚が赤黒く、手の甲には古い火傷の痕がいくつもあった。
「何じゃ、急に。店は大丈夫なんか」
辰次郎は新聞を畳みながら言った。寅之助が急に訪ねてくる時は、たいてい何かある。兄はそれをよく知っていた。
「兄貴、ちょっと見てもらいたいもんがあるんじゃが」
寅之助は海軍省からの書類を差し出した。辰次郎は老眼鏡をかけ、黙って読み始めた。
辰次郎の読み方は千代とも村上弁護士とも違っていた。千代は法律的な文面を読み解こうとし、村上は契約の構造を分析していた。辰次郎は、書類のなかの「水雷艇第七十二号」に目が止まると、そこから動かなくなった。
「第七十二号か。百五十二トンじゃな。明治三十五年か六年の建造じゃろう」
「兄貴、知っとるんか」
「知らんが、番号と排水量でだいたい分かる。この時期の百五十トン級の水雷艇は何隻もおった。日露の前に急いで造ったやつじゃ」
辰次郎は書類を膝の上に置き、腕を組んだ。
「お前、えらいもんを拾うたのう」
「拾うてない。拾わされたんじゃ」
「どっちでも同じじゃ。——で、どうするつもりなんじゃ」
「それを相談に来たんじゃが」
「わしに軍艦を何とかせえいうんか」
「そうじゃない。海軍のことを教えてもらいたいんじゃ。どこに行って誰に会うて何を言えばええか、わしには見当がつかんけえ」
辰次郎は鼻から長い息を吐いた。呆れているのか、考えているのか、あるいはその両方であろう。兄弟の沈黙のあいだを、庭先の百日紅の花が風に揺れていた。
辰次郎の妻が茶と煎餅を運んできた。寅之助が「義姉さん、すまんのう」と言うと、義姉は「またぞろ何か揉め事ですか」と笑った。この義姉は、寅之助が揉め事を持ち込むことに慣れきっている。
茶を一口飲んでから、辰次郎は話し始めた。
「水雷艇の払い下げは珍しいことじゃない。条約で要らんようになった艦がようけあって、順番に処分しよる。大きい戦艦は標的にして沈めるが、小さいやつはスクラップに出す。入札で民間に売るんじゃ」
「ほうじゃろうな。それを児島いう男が買うたんじゃが」
「買うたはええが、始末に困ったわけじゃな」
「困って逃げたんじゃ。それでわしに回ってきた」
「あほうな話じゃ」
辰次郎は煎餅を齧りながら、水雷艇について説明してくれた。
百五十二トンの水雷艇というのは、軍艦としてはごく小さい部類に入る。全長は四十六メートルほど、幅は五メートルに満たない。駆逐艦よりも小さく、乗組員は五十人前後。速力を出すために船体は細長く、喫水は浅い。主な武装は魚雷発射管と小口径の砲で、日露戦争では夜間の水雷攻撃に使われた。
しかし、大正十三年の時点で二十年以上前の水雷艇に軍事的な価値はない。機関はとうに使い物にならず、船体も腐食が進んでいる。鉄の塊としての値打ちしか残っていない。
「百五十二トンいうても、船としての排水量じゃけえ、船体の鉄の重さはもう少し軽い。百二十トンくらいかのう。トン当たりの屑鉄が今いくらか知らんが、全部合わせても千五百圓にはなるまい」
「解体にかかる金は」
「場所と設備による。クレーンのある造船所に持ち込めば、職人十人で二、三ヶ月いうところか。酸素で切っていくんじゃが、なにしろ軍艦じゃけえ、鋼板が厚い。商船とは勝手が違う」
「二、三ヶ月。職人十人。それだけで千圓はかかるか」
「千五百は見とかにゃいけんじゃろうな。それと別に、佐世保から解体する場所まで船を運ばにゃいかん。あの船は自分では動かんけえ、曳いてもらうしかない。曳船の傭船料もかかる」
寅之助は黙って聞いていた。聞けば聞くほど気が重くなる。しかし、具体的な数字と手順が見えてくることで、漠然とした恐怖が少しずつ輪郭のある問題に変わっていくのも感じていた。相手の姿が見えれば、対処の仕方もあるというものだ。
「それとの」
「まだあるんか」
「兵器の返納がある。水雷艇には魚雷発射管やら砲の部品やらが残っとるはずじゃ。解体する時にそれは海軍に返さにゃいかん。勝手に売ったり捨てたりはできん」
「面倒じゃのう」
「面倒じゃ。じゃけえ、まずは佐世保に行って、経理部と話をすることじゃ。書類のやり取りだけでは埒が明かん。顔を見せて、こちらの事情を説明して、手続きの段取りを直接聞くのが一番じゃ」
寅之助は頷いた。村上弁護士も同じことを言っていた。書面では冷たい官僚機構も、顔を合わせれば多少は融通がきくこともある。
「兄貴、一つ教えてくれ。佐世保の経理部いうのは、どういう役所じゃ。行ったらどうすればええんじゃ」
「鎮守府の正門で用件を言えば、通してもらえるはずじゃ。経理部は主計科の管轄でな、主計士官が窓口になる。お前のような民間の相手は慣れとるじゃろう。払い下げの事務はそこの仕事じゃけえ」
「偉い人が出てくるんかのう」
「大尉か中尉じゃろう。大したことはない」
辰次郎は「大したことはない」と言ったが、それは海軍工廠で三十年近く働いてきた男の感覚であって、軍人という人種にほとんど接したことのない寅之助にとっては、士官という言葉だけで胃が縮む思いがした。
「それとな」
辰次郎はもう一つ付け加えた。
「相手が海軍じゃいうて、卑屈になるなよ。お前は何も悪いことをしとらん。筋の通らん話を押しつけられた被害者じゃ。堂々としとれ」
「……おう」
「おうじゃなくて、分かったと言え」
「分かった」
寅之助は少し笑った。兄に叱られるのは子供の頃から慣れているが、叱られた後に気持ちが楽になるのも、子供の頃と変わらなかった。
四
呉から尾道に戻った翌朝、梶原商店の店先に一人の男が現れた。
寅之助が店先で算盤を弾いていると、格子戸の外に人影が立った。見上げると、紺の縞柄の着流しに中折れ帽をかぶった男が、店の間口をじろじろと眺めている。四十半ばの、痩せぎすで背の高い男であった。顔は色白で頬がこけており、細い目がどこか剃刀の刃を思わせた。
「梶原寅之助さんはおられますかな」
声は低く、落ち着いている。商人の声であった。しかし、尾道の商人ではない。言葉に微かな呉の訛りがあった。
「わしが梶原じゃが、あんたは」
「呉で金融をやっております黒田と申します。黒田参吉。——少しお時間をいただけますかな」
金融。つまりは金貸しである。寅之助は一瞬身構えたが、店先で追い返すのも気が引けた。奥の座敷に通すのは気が進まなかったので、帳場の脇の小上がりに腰掛けるよう促した。
伊三郎が茶を出すと、黒田は丁寧に礼を言い、一口も飲まぬうちに本題に入った。
「単刀直入に申しますが、梶原さん、播磨源三郎の件でお伺いしました」
寅之助の顔が強張った。
「播磨の」
「ええ。わたくしは播磨さんに金をお貸ししておりました。元金にして三百圓。利子を含めますと四百圓弱になります。播磨さんが亡くなられて、ご遺族は相続を放棄されたそうで」
「それは聞いとる」
「さよう。それでわたくしは困っておるわけです。貸した金が回収できませんのでな」
黒田は懐から紙の束を取り出し、膝の上に広げた。
「ところで梶原さん、海軍から通知が届いたそうですな」
寅之助は驚いた。この男がそれをどうやって知ったのか。顔に出たらしく、黒田は薄く笑った。
「わたくしも播磨さんの債権者として、いろいろ調べておりますのでな。播磨さんが児島なる者の保証人であったこと、その児島が海軍から水雷艇を買うたこと、それも承知しております」
「ほうか。で、何の用じゃ」
「話は簡単です。播磨さんの残した資産のなかに、水雷艇の売買契約の権利がございます。落札者としての地位、とでも申しますかな。これをわたくしは債権者として差し押さえておりまして——」
黒田は紙の束から一枚を抜き出し、寅之助の前に置いた。
「これを梶原さんに譲渡したいのです」
「譲渡」
「さようです。この書類に署名捺印いただければ、水雷艇の売買契約上の地位は正式に梶原さんのものになります。落札者としての権利と義務が、梶原さんに移転するわけです」
寅之助は書類を見下ろしたが、すぐには手を触れなかった。
「待ちんさい。権利と義務いうたな。義務はもう海軍からの通知で押し付けられとるんじゃが、それに加えて権利も渡すいうんか」
「さようです。義務だけでは梶原さんも浮かばれんでしょう。この書類に署名されれば、水雷艇を解体して得た屑鉄の売却代金は、全額梶原さんのものになります。義務と引き換えに、それだけの権利がつくわけです」
「その代わり、播磨の借金がどうなるんじゃ」
「わたくしの播磨さんに対する債権は、これをもって清算といたします。つまり、この譲渡をもって播磨さんの借金は帳消しです」
寅之助は黒田の顔をじっと見た。言い分は筋が通っているように聞こえる。しかし腑に落ちない。
「待て。播磨の借金は四百圓じゃと言うたな。水雷艇の屑鉄が売れたとしても、せいぜい千圓かそこらじゃろう。解体に千五百圓もかかるんじゃけえ、差し引きでは赤字じゃ。赤字になるもんをわしに渡して、それで四百圓の借金を帳消しにするいうのは、あんたにとって得な話じゃないか」
黒田は一瞬、目を細めた。寅之助が計算のできる男だということを、値踏みし直しているようであった。
「なるほど。梶原さんはよくお分かりじゃ。——正直に申しますとな、この水雷艇の権利は、わたくしにとっては厄介な代物なんです。持っていても解体する力がない。海軍に返すわけにもいかん。かといって放っておけば、いずれわたくしにも何か降りかかってくるかもしれん。ならば、すでに海軍から義務を負わされておる梶原さんにお渡しするのが、互いにとって一番すっきりすると、そう考えたわけです」
「すっきりするのはあんたの方じゃろう。わしの方はちっともすっきりせんが」
「まあ、そうおっしゃらずに。梶原さんが署名されてもされなくても、海軍からの義務は変わりません。それなら、権利も持っておかれた方がよろしいでしょう。解体して出た屑鉄を売る権利がなければ、出費ばかりで一銭も戻りませんぞ」
寅之助は口を結んだ。黒田の言うことは、残念ながら的を射ていた。海軍からの義務は署名の有無に関わらず存在する。ならば、少しでも回収の足しになる権利を確保しておく方が得策ではある。
しかし即座に署名する気にはなれなかった。
「少し考えさせてくれ」
「もちろんです。二、三日お待ちしましょう」
黒田は書類を寅之助の前に残し、丁寧に辞去した。店先を出ていく後ろ姿を見送りながら、寅之助は嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。
黒田が帰った後、千代が帳場の奥から出てきた。話は聞こえていたらしい。
「あの書類、村上先生に見てもらいんさい」
「おう。そのつもりじゃ」
「わたしが行ってくるわ。あんたは店を離れすぎじゃ」
千代はその日の午後、黒田の書類を持って村上弁護士を訪ねた。
夕刻に千代が戻ると、寅之助は店を閉めた後の帳場で待っていた。
「先生は何と」
千代は帯の間から風呂敷包みを出し、書類を卓袱台に広げた。
「この譲渡そのものの法的な有効性は、疑わしいところがあると」
「ほうか。ほいじゃったら突っぱねればええんか」
「待ちんさい。先生はこうも言うとった。——あんたの旦那はどのみち海軍から義務を負わされとる。この書類に署名してもしなくても、解体せにゃいかん立場は変わらん。じゃけど署名すれば、解体で出た屑鉄を売る権利が手に入る。損得で言えば、署名した方がまし——と」
寅之助は天井を仰いだ。
「村上先生もあの金貸しと同じことを言うんか」
「同じことを言うとるんじゃない。同じ結論に至っとるだけじゃ。理屈は別でもの」
千代は書類の一箇所を指差した。
「先生が一つ条件をつけた方がええと言うとった。ここ、『一切の権利を譲渡する』と書いてあるじゃろう。これに『一切の権利を譲渡するにあたり、譲渡人は梶原寅之助に対する一切の金銭的請求権を放棄する』いう一文を入れさせなさいと」
「どういう意味じゃ」
「後になって黒田が別の名目で金を請求してこんようにする保険じゃ」
寅之助は妻の顔を見た。千代は平然としている。村上弁護士の言葉を正確に伝えているのだろうが、その言葉を理解し、整理し、寅之助に分かるように言い直す力は千代自身のものであった。
「千代、お前が弁護士をやった方がええんじゃないか」
「馬鹿なこと言いんさんな。判を押す時に相談してくれりゃ、弁護士は要らなんだんじゃ」
返す言葉がなかった。
五
二日後、黒田が再び梶原商店を訪れた。
寅之助は千代の助言に従い、一文の追加を要求した。黒田は一瞬だけ目を眇めたが、すぐに笑顔を作った。
「なるほど、弁護士さんに相談されましたな。結構です、その一文はお入れしましょう」
黒田は筆を取り、書類の余白に追加の文言を書き入れた。寅之助はそれを確認し、千代にも見せた。千代が小さく頷いたのを見て、寅之助は印を押した。
二度目の判であった。しかし今度は、押す前に何を押すのかを理解している。それだけが、去年の暮れとの違いだった。
署名を終えると、黒田は書類を丁寧に折り畳み、懐にしまった。
「これで梶原さんは、水雷艇第七十二号の正式な権利者です。おめでとうございます」
おめでとうと言われて嬉しい人間がどこにいるものかと寅之助は思ったが、口には出さなかった。
「黒田さん、一つ聞いてもええか」
「何でしょう」
「あんた、播磨に金を貸した時は、播磨がこげなことになるとは思わんかったじゃろう」
黒田は少し考えてから答えた。
「金を貸す商売をしておりますとな、こういうことは珍しくありません。震災の後は特に。梶原さん、この一年で呉だけでも二十軒は店が潰れました。わたくしの貸し先も半分は焦げ付いております」
「大変じゃのう」
「大変です。しかし、わたくしも商売でやっておりますのでな。同情はしますが、回収はさせていただく。そうしなければ、わたくし自身が潰れます」
黒田はそう言って、静かに頭を下げ、梶原商店を去った。
寅之助はその後ろ姿を見送りながら、不思議な感慨を覚えていた。黒田を憎む気にはなれなかった。黒田は黒田の事情で動いている。児島は児島の事情で逃げ、播磨は播磨の事情で死に、秋子は秋子の事情で相続を放棄した。誰もが自分の事情に追われて動いた結果、行き場を失った義務だけがぐるぐると回り、最後に寅之助の足元に転がり込んできた。
怒りを向ける先がない、というのは奇妙なものであった。相手がいる喧嘩なら殴り返すこともできるが、この厄災には殴り返す相手がいない。強いて言えば、制度そのものが相手である。保証人の判を押せば、こうなり得るという制度。しかし制度は殴れない。
寅之助はふと、店先に立てかけてある鉈を見た。あの暑い日、向島の漁師と鉈の話をしていた時には、自分が軍艦の持ち主になるなどとは夢にも思わなかった。あれからまだ十日も経っていない。
「伊三郎」
「はい」
「わし、佐世保に行ってくるわい」
番頭は驚いた顔をした。
「佐世保ですか。遠いですな」
「遠い。行ったことがない。じゃが行かにゃいかん」
「店は——」
「お前と千代に任せる。三、四日で帰るつもりじゃが、長うなるかもしれん」
「大将」
「何じゃ」
「軍艦の件ですか」
伊三郎は声を落として言った。事情はおおよそ察しているらしい。帳場で書類を広げたり、黒田のような客が来たりすれば、察しもつくだろう。
「そうじゃ。わしの軍艦を見に行くんじゃ」
寅之助は冗談めかして言ったが、伊三郎は笑わなかった。代わりに、帳場から小さな守り袋を取り出して寅之助に差し出した。
「これ、千光寺さんのお守りです。旅のお守り。今朝、寄ってきました」
「お前……」
「大将が佐世保に行かれるんじゃないかと思いまして」
寅之助は守り袋を受け取った。紐で結ばれた小さな布袋は、掌の中で軽かった。軽いが、温かかった。
「ありがとうよ、伊三郎」
「お気をつけて」
寅之助は守り袋を懐に入れ、二階に上がって旅支度を始めた。佐世保までの汽車賃を調べ、着替えを風呂敷に包み、千代に留守中のことを頼んだ。千代は「便りをよこしんさい」とだけ言った。
翌朝早く、寅之助は梶原商店の格子戸を開けて外に出た。まだ薄暗い海岸通りには、朝市に向かう荷車の音がかすかに聞こえていた。尾道水道の向こう、向島の稜線がうっすらと白み始めている。
寅之助は西に向かって歩き出した。尾道駅から汽車に乗り、広島で乗り換え、関門海峡を渡り、九州に入る。そこから更に西へ。佐世保。自分の軍艦が待っている町。
懐の中で、千光寺の守り袋が揺れていた。




