第一章 書留郵便
一
梅雨が明けて三日目の午後であった。
大正十三年の七月も半ばを過ぎ、尾道の町は朝から容赦のない陽射しに焼かれていた。千光寺山の濃い緑が照り返す光にぎらぎらと輝き、山裾から海岸通りにかけてひしめく家々の屋根瓦が、陽炎のなかに揺れて見える。尾道水道を隔てた向島の影は靄にぼやけ、その間を渡船が飽きもせず往復していた。
海岸通りに面した梶原商店の店先は、この暑さのなかでも賑やかであった。間口四間の土間には金物、荒物、日用雑貨が所狭しと並び、天井からは笊、箒、束子の類がぶら下がっている。店の奥は薄暗い帳場で、その向こうに中庭を挟んで居住の間がある。表通りに面した土間は風が抜けるから、近所の者が涼みがてら立ち寄ることも珍しくない。
店主の梶原寅之助は、店先に腰掛けを出して、向島から渡船で買い物に来た漁師を相手に鉈の講釈をしていた。
「見んさい、この刃の付け方を。土佐打ちいうてな、片刃じゃけえ、木ぃ割る時に刃が滑らんのじゃ。両刃の鉈とはそこが違う」
四十二になる寅之助は中背のがっしりした体格で、日に焼けた丸い顔に大きな目がある。汗を拭いながら鉈を振って見せる仕草には、二十年商売をやってきた者の手慣れた調子があった。
「ほいじゃが大将、わしゃ別に木ぃ割るんに使うんじゃないで。魚の頭を落とすんじゃけえ」
漁師は日焼けした顔を困ったようにしかめた。
「魚の頭じゃと。ほうかいの。ほいじゃったら出刃のええのがあるが」
「出刃はある。鰤の太いやつの頭を一発で割りたいんじゃ。鉈でやりよる者がおるいうて聞いたけえ」
「鰤の頭か。ほうじゃのう、それなら——」
話が佳境に入りかけたところで、番頭の岡野伊三郎が帳場の奥から出てきた。三十になる伊三郎は色白の細面で、どことなく頼りない風体をしているが、帳簿と客の顔を覚えることにかけては寅之助も一目を置いている。
「大将。書留が来ました」
「書留。どこからの」
「海軍省、とあります」
寅之助は鉈を持ったまま、ぽかんとした顔で番頭を見た。漁師も怪訝な顔をしている。
「海軍省じゃと。わしに? 宛名を間違うとりゃせんか」
「梶原寅之助殿、と。間違いないようです」
伊三郎は茶色い封筒を差し出した。厚手の上質紙で、左上に「海軍省経理局」と活字で刷ってある。受け取ると、ずしりとまではいかぬが、中に何枚かの書類が入っている手応えがあった。
「はあ。海軍省のう」
寅之助は鉈を漁師に預けて封筒を裏返した。封蝋がしてある。仰々しいことであった。
「大将、何ぞ悪いことでもしたんかいの」
漁師が冗談とも本気ともつかぬ声で言った。
「するかい。わしゃ兵隊にはとうの昔に行かんでもええ歳じゃが」
寅之助は笑いながら封を切った。中から折り畳まれた書類が数枚出てきた。一番上の一枚を広げると、細かい活字と手書きの文字が混在する公文書が現れた。
——旧水雷艇第七十二号船体ノ件ニ付キ通知
冒頭の一行を読み、寅之助は眉をひそめた。水雷艇。聞いたことはある。軍艦の一種であろう。しかし、それが自分と何の関係があるのか、見当がつかない。
続く文面に目を落としたが、漢字と片仮名の入り混じった文語体は寅之助の手に余った。「承継」「繋留」「履行」といった語が並んでいるのは分かるが、全体として何を言っているのかが掴めない。
「伊三郎、お前ちょっと読んでみい」
伊三郎は書類を受け取って目を通したが、すぐに首を傾げた。
「大将、これは……なんというか、難しいですね。奥さんに見てもらった方がよくはないですか」
尤もであった。こういう時に頼りになるのは、女学校を出ている千代である。
二
千代は居住の間で繕い物をしていた。小柄で痩せ型、切れ長の目をした女で、口数は少ないが、物事の勘所を外さない。寅之助が「ちょっと見てくれんかいの」と封筒ごと渡すと、繕い物の手を止めて書類を広げ、静かに目を通し始めた。
寅之助は傍らに腰を下ろし、煙管に刻み煙草を詰めながら待った。千代が読むのに時間がかかるところを見ると、やはり容易な書類ではないらしい。火を点け、一服吸い、灰を叩き、もう一服する間に、千代は二枚目の書類に移った。
「あんた」
「おう」
「播磨さんの名前が出てくるんじゃけど」
寅之助の手が止まった。播磨源三郎。呉の金属仲買商。今年の五月に脳溢血で急死した旧知の男である。
「播磨の。なんで播磨が海軍省の書類に出てくるんかいの」
「待ちんさい。もう少し読むけえ」
千代は三枚目、四枚目と読み進めていった。添付書類まで目を通し終えると、書類を膝の上に揃えて置き、しばらく黙った。寅之助は千代の横顔を見ていたが、その沈黙が長くなるにつれて、腹の底に嫌な予感が広がっていくのを感じた。
「千代」
「あんた、去年の暮れに播磨さんの保証人になったじゃろう」
「ああ。銀行の融資じゃいうて——」
「その保証人の判がの」
千代は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
千代の説明を要約すると、事情はこうであった。
佐世保において、海軍の旧式水雷艇が民間に払い下げられた。落札したのは門司の鉄屑商で、児島辰蔵という男である。この児島の連帯保証人になっていたのが、呉の播磨源三郎であった。
ところが児島は代金を払ったきり解体に着手せず、行方をくらました。海軍は保証人の播磨に義務の履行を求めたが、播磨は今年五月に急死し、遺族は相続を放棄した。
そこで海軍は、播磨の事業に対する保証人の連鎖を辿り、最終的に梶原寅之助に到達した。寅之助が押した保証の判は、銀行融資だけでなく、播磨の事業全般に係る根保証であったからである。
つまり——梶原寅之助は、水雷艇の売買契約に伴う一切の義務を負う立場にある、と海軍省は主張していた。
具体的には、佐世保に繋留中の水雷艇について、繋留料が四月から日々加算されていること。船体の解体を九十日以内に完了すること。解体に際しては兵器部品を海軍に返納すること。期限内に義務を果たさねば違約金を徴収すること。
添付の別紙には繋留料の内訳が記されていた。一日につき金壱圓弐拾銭。四月一日から本日までの累計は——
「百三十円ほどになるのう」
千代は静かに言った。「ここまでだけでも」
寅之助は煙管を畳の上に取り落としていた。灰が散ったが、構う余裕はなかった。
「待て。待ちんさい千代。わしが、軍艦を持っとるいうんか」
「水雷艇じゃけど、まあ軍艦には違いない」
「あほな。何でわしが軍艦なんぞ持たにゃあいけんのじゃ」
「あんたが播磨さんの保証人の判を押したけえじゃろう」
千代の声に責める調子はなかったが、述べられた事実は寅之助の胸に錐を揉み込むように刺さった。判を押したのは確かである。去年の暮れ、播磨が尾道に来た折に酒を飲み、「形だけのことじゃけえ頼むわい」と言われて、深く考えもせずに朱肉に印を押した。あの一瞬である。
「ほいじゃが千代、わしは銀行の融資の保証のつもりで」
「根保証いうて書いてある」
「根保証いうのは何ぞ」
「播磨さんの商売に関わる借金やら何やらを、まとめて保証するいう意味じゃ。銀行のだけじゃない」
「そげなことは聞いとらんぞ」
「聞いとらんでも、判を押しとる」
寅之助は両手で顔を覆った。指の隙間から、畳に散った煙草の灰が見えた。七月の陽が中庭の石に照りつけ、蝉の声が遠くで鳴り続けていた。
三
寅之助はその夜、一睡もできなかった。
布団に横になっても目が冴え、天井の木目を数えるうちに夜が白み始めた。千代は隣の布団で静かに寝息を立てているが、寅之助には起こす気にもなれなかった。自分の失態で千代に心労をかけているのだという思いが、じくじくと胸を責める。
頭の中で何度も計算を試みた。
繋留料は一日壱圓弐拾銭。四月から七月までで既に百三十圓前後。解体期限が九十日だから、その間も繋留料は加算され続ける。解体を業者に頼めば——水雷艇がどのくらいの大きさかも知らないが、軍艦の解体が安く済むとは思えない。千圓、あるいはもっとかかるかもしれない。
梶原商店の年の稼ぎは、良い年で千圓あるかないかである。蓄えはあるが、多くはない。向島や因島の問屋への卸売りの掛け金の回収がまだ済んでいない分もある。
仮に解体費用が二千圓かかったとすれば、それは店を畳むか畳まないかの瀬戸際の金額であった。
何度計算しても答えは同じで、そのたびに腹の底が冷たくなった。
翌朝、寅之助は朝飯の膳を前にして茶碗を手に取ったまま、しばらく動かなかった。味噌汁の湯気が立ち上るのをぼんやりと眺めている。
「食べんさい」と千代が言った。
「おう」
「考えるのは食べてからでええじゃろう」
「おう」
返事はするが箸が進まない。千代はそれ以上は何も言わず、自分の膳に向かった。奥の部屋では、次男の健太郎が学校に行く支度をしている音が聞こえる。長女の文子はもう出かけたらしく、玄関に下駄の跡が残っていた。
日常が変わらず続いていることが、寅之助にはかえって不思議であった。昨日までの自分と今日の自分は同じ人間のはずだが、昨日の自分は軍艦の持ち主ではなかった。
「千代」
「なんね」
「ちょっと聞きたいんじゃが」
「うん」
「水雷艇いうのは、どのくらいの大きさのもんかのう」
「さあ。海軍のことはよう分からんけど、書類には百五十二トンと書いてあったわね」
「百五十二トン」
寅之助は梶原商店で扱う品物を思い浮かべた。米俵が一俵で十五貫、約六十キロである。百五十二トンは——二千五百俵ほどになる。店の倉庫に米俵を積んだとして、二十俵も入れれば満杯だから、倉庫の百二十五倍の重さの鉄の塊がどこかにあるということになる。
「途方もないのう」
「途方もないね」
夫婦は茶碗を手にしたまま、互いの顔を見た。
蝉が鳴いていた。今日も暑くなりそうであった。
四
朝飯の後、寅之助は帳場に座ったが、商売に身が入らなかった。番頭の伊三郎が客をさばき、小僧の徳松が配達に走り、店はいつも通りに回っている。寅之助がいなくても当面は困らない程度には、梶原商店の日常は整っていた。それが今は有り難くもあり、情けなくもあった。
午前中いっぱい帳場で悶々とした後、寅之助は意を決して立ち上がった。
「伊三郎、店を頼む。ちょっと出てくるわい」
「どちらへ」
「村上先生のところじゃ」
村上庄左衛門は、尾道で唯一の弁護士であった。元は広島地方裁判所の判事で、退官後に郷里で開業したという経歴の持ち主である。六十八になる老人で、白髪を総髪に結い、和服に袴という旧い時代の格好をしている。寅之助は以前、取引先との代金回収の揉め事で一度だけ世話になったことがあった。
村上の事務所は千光寺山の登り口に近い路地裏の古い町家にあった。表に小さな看板が出ているだけで、知らなければ通り過ぎてしまうような場所である。
格子戸を開けると、薄暗い待合に誰もいない。奥から老女が出てきて「先生はおりますけえ」と言い、寅之助を座敷に通した。
村上は卓袱台の前に端座して、分厚い法律書を読んでいた。老眼鏡の奥の目が寅之助を見上げ、「おう、梶原さん。久しぶりじゃの」と低い声で言った。
「先生、折り入って相談があるんじゃが」
「まあ座りんさい」
寅之助は海軍省からの書類一式を風呂敷から取り出し、村上の前に広げた。
村上は書類を一枚ずつ丹念に読んだ。寅之助が持参した保証書の控えも確認し、時折唸ったり、首を傾げたりしながら、三十分近くをかけて全ての書類に目を通した。
「ふうむ」
村上は老眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「梶原さん、あんたは面白い厄介ごとを拾うたのう」
「面白いもんですか」
「いや、法律の問題としては、なかなかに面白い。あんたにとっては面白くなかろうがの」
村上は書類を卓袱台に並べ、指で一枚ずつ示しながら説明を始めた。
「まず、あんたが押した判はこれじゃな。播磨源三郎の事業に係る根保証。これは確かにあんたの署名と印がある」
「はい」
「次に、播磨は児島辰蔵という男の連帯保証人になっとった。児島が海軍から水雷艇を買うた時の契約じゃ」
「はい」
「児島が逃げ、播磨が死に、播磨の遺族が相続を放棄した。海軍は義務を果たす相手がおらんようになった。それで保証の連鎖を辿って、あんたに辿り着いた。——ここまではよいかの」
「よくはないですが、分かります」
村上は薄く笑った。
「正直に言えばの、この論理には穴がある。あんたは播磨の保証人であって、児島の保証人ではない。播磨が児島のために負うた保証債務を、あんたの根保証がどこまで担保するかは、法的に争える余地がある」
「ほうですか」
「ほうじゃ。しかしの——」
村上は言葉を区切り、寅之助を見据えた。
「相手は海軍省じゃ。官を相手に訴訟を起こすとなると、広島か東京の弁護士を雇わにゃならん。裁判は早うて一年、長うて二年、あるいはもっとかかる。その間も佐世保の繋留料は一日壱圓弐拾銭ずつ増え続ける」
「……」
「二年としようか。七百日で八百四十圓。裁判に勝ったとしても、その金が戻るかどうかは分からん。裁判の費用は別に百圓や二百圓では済まん。勝っても負けても、あんたの懐からは千圓以上が消える計算になる」
寅之助は黙って聞いていた。村上の言葉は冷徹であったが、誠実でもあった。
「わしの意見を言わせてもらえば、争うより片付けた方が安い。水雷艇を解体して義務を果たしてしまう方がの」
「解体するにも金がかかるんでしょう」
「かかるじゃろうな。しかし繋留料を二年分払って裁判もやるよりは、さっさと解体してしまう方が、結果として出費は少なかろう」
寅之助は溜め息をついた。どちらに転んでも大金が飛ぶ。違いは、金だけで済むか、金と時間の両方を失うかである。
「ただの」と村上が付け加えた。
「海軍との交渉にあたって、あんたに弁護士がついとるということは、ひとつの力にはなる。わしの名前を出してもかまわん。こちらには法的に争う用意がある、という姿勢を見せることで、向こうの態度が多少は変わるかもしれん」
「先生、それは——有り難い話ですが、先生への謝礼は」
「今日の相談料で結構じゃ。名前を使うだけなら金はいらん。まあ、わしも少しばかり興味があるけえの。雑貨屋が軍艦を持つとる話など、長い事やっとるがお目にかかったことがない」
村上は本当に面白がっているようであった。寅之助は笑う気にはなれなかったが、この老弁護士の好奇心に助けられたことは確かであった。
五
弁護士から戻った寅之助を、千代が帳場の奥で待っていた。膝の上に紙を広げ、何やら書き付けている。
「何をしよるんかいの」
「計算じゃ」
千代は寅之助を手招きし、紙を見せた。几帳面な字で数字が並んでいる。
繋留料(四月〜七月、約百十日) 百三十二圓
今後の繋留料(日々加算) 壱日壱圓弐拾銭
解体費用(見込) 千五百〜二千五百圓
旅費・諸経費 百圓以上
不履行の場合の違約金 八百四十圓
——————
合計(最悪の場合) 約三千五百圓
「三千五百圓……」
寅之助は声を失った。三千五百圓といえば、この尾道で小さな家が一軒買える金額である。
「あくまで最悪の場合じゃ」と千代は言った。「解体して屑鉄を売れば、いくらかは戻る。ほいでも千圓以上の持ち出しは覚悟せにゃいけんじゃろう」
「千圓……」
「村上先生は何と」
「争うより片付けた方が安いと」
「そうじゃろうね」
千代は紙を畳み、帳場の引き出しにしまった。その仕草には、もう腹を決めた者の静けさがあった。
「あんた」
「おう」
「あの保証の判を押した時、わたしは止めたよね」
「……おう」
「あんたはまた判を押したんかいね、と、わたしは言うたよね」
「……おう」
「もうええわ。言うても仕方がない。それより、これからどうするか考えんさい」
寅之助は深く頭を下げた。千代に対してか、仏壇の方角に対してか、自分でもよく分からなかった。ただ、目の前に途方もなく巨大な問題が転がり落ちてきたことだけは確かで、それを片付けるのは他ならぬ自分しかいないのだということも、もはや疑いようがなかった。
「まず、佐世保に行かにゃいけんのう」
「そうじゃね」
「わしの軍艦とやらを、見に行かにゃあ」
口に出してから、自分の言葉の途方もなさに、寅之助は思わず笑った。乾いた笑いだったが、笑いは笑いである。千代も薄く笑った。
「軍艦の持ち主いうのも、あんたくらいのもんじゃろうね」
「誰が好き好んでなるかい」
表通りを荷車が通る音がした。伊三郎が客に愛想を言う声が聞こえた。店先では小僧の徳松が、配達の荷を背負子に括りつけている。
日常はまだ、そこにあった。
しかし寅之助の足元には、もう一つ別の世界への穴がぽっかりと開いていた。百五十二トンの赤錆びた穴である。
佐世保。生まれてこのかた、行ったことのない町であった。




