魔法少女、バイト中
魔法少女――それは光の象徴。
いつでも笑顔で、誰かを守るために立ち上がるヒロイン。かわいい衣装にきらめくステッキ。
困っている人がいれば迷わず手を差しのべ、悲しみを希望に変える存在。
そんな、女の子なら誰もが一度は憧れる“かわいいヒーロー”。
夜風が吹き抜ける町の空。ビルの明かりがまばらに瞬き、地上の喧騒が遠くに響いていた。ネオンがちらつく夜の街、その暗がりの上空で突如としていくつもの光弾が流星群のように流れていく。鋭い閃光が雲間を貫き、空気が焼けるような音がわずかに響いた。
「キュアリンシュート!」
夜の街の上空で、一人の少女が響く。その声は澄んでいて、そして力強い。
ピンクを基調とした衣装に身を包み、ツインテールの髪が夜風に揺れている。ステッキの先端にあるハート型の装飾品が強く輝き、放たれた一極大きな光線が夜空を裂いた。
閃光は少女と対峙していた異形の怪物を正確に貫き、その巨体を一瞬で光の粒へと変えた。破片のような光が雨のように降り注ぎ、ビルのガラスに反射してほんの一瞬だけ街が昼のように明るくなった。
少女の胸の奥に、ほのかな達成感が広がる。だがそれは一瞬だけ。
歓声を浴びることも、感謝されることもない。彼女が求めるのは拍手ではなく、平和な町だ。この姿を万が一にも誰かに見られる前に、姿を消さなくては。
少女――平井マリカは、周囲の視線を避けるようにして、路地裏へと静かに着地した。
足が地面に触れると同時に、彼女の全身を淡い光が包み込む。光が弾けた次の瞬間、そこに立っていたのは、青いコンビニの制服に身を包んだ黒髪の少女だった。長い黒髪をひとまとめにして後ろで結び、眠たげな顔から一つ大きなあくびが零れ落ちる。
彼女は人知れず悪を討つ、魔法少女。
――ただ、ここまでは誰もが知る“普通の”魔法少女の話だ。
ステッキが握られていた手には、スマートフォンが握られていた。黒い画面にピンクのハートマークが浮かんでいて、やわらかく明滅している。マリカが息を整えようと深呼吸したそのとき、スマホが軽い調子で喋り始めた。
『お疲れ様、マリカ!』
響く明るい声に、マリカは肩をすくめて苦笑する。戦い終えたばかりだというのに、スポーツの試合後のような調子だ。
「お疲れ、ハッピー。今日のは楽勝だったわね」
『うんうん。マリカ、また強くなったんじゃない?』
スマホの画面がリズムよく光り、まるで相槌を打つように反応する。その軽快な声に、マリカの口元が少しだけ綻ぶ。
「そう思う? あたしもそう思う」
冗談めかして言いながらも、その声は少し得意げだ。
今回の敵は、決して弱くはなかった。けれど、冷静に相手の行動の癖を見極めて、攻撃を繰り出すことが出来た気がする。
『これからもじゃんじゃんモヤーズを倒してね! それでね――』
アニメのような声が、ふと調子を変えた。
マリカは眉を寄せ、心で溜め息をついた。
これだ。普通の魔法少女と、マリカの魔法少女の違い。これがあるから、戦うのが億劫なのだ。
『今回の料金なんだけど、4,970円なります』
ハッピーから発せられた料金。
これは、報酬じゃない。逆だ。
この妖精は、戦わせたうえに金まで請求してくるのだ。
――えっ!?
と、マリカは目を瞬かせた。数字を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。想像していたよりも高くついた金額に、脳が一瞬その意味を理解するのを拒んだ。
「はあ!? 高くない!? あたし今日そんなに技使ってないよね!?」
『高くないわよ! 明細表示するから見て』
スマホの画面から流れる声が、本当だと言うように訴えてくる。
マリカは思わずスマホを持ち直し、夜風の中でにらみつけた。風が彼女の髪を揺らし、画面の光が頬を照らす。
少しして、画面に次々と明細が表示されていく。
・変身1回:500円
・フロートステップ11分:220円
・ライトリベラ27回:1,350円
・ルミナスシールド3回:900円
・スターライトランス2回:1,000円
・キュアリンシュート1回:1,000円
どれも、使った覚えのある技だ。
「ぐぬぬ……」
女の子があげてはいけないような獣にも似た唸り声が、喉の奥から漏れた。
「というかね! 何度も言ってるけど、なんで世界救ってる側がお金払わないといけないのよ! そもそも変身するのにも金かかるってなに!?」
感情を爆発させながらスマホに訴えかけるが、スマホの画面はすでに真っ暗になっていた。
「あ! あいつ逃げたわね!」
今までの付き合いから、これ以上は何を言っても無駄だとわかっている。ハッピーはこういう時、沈黙を決め込むのだ。電源を落とした機械のように、一切の反応を返さない。
黒い画面に映る自分の顔が冷たく見えて、マリカは小さく舌打ちした。夜風が再び吹き抜け、路地裏のゴミ袋がカサリと音を立てる。
深くため息をつくと、肩を落としながら路地裏を歩き出した。角を曲がると、見慣れた青白い光が視界に入るった。
アルバイト先のコンビニだ。自動ドアの前に立つとセンサーが反応し、軽快な入店音と共にガラスの扉が開いた。
「あ、マリカちゃんお帰り」
レジの奥から、店長が笑顔で手を振った。中年の男性で、どこかのんびりした雰囲気がある。
「すみません。うんこが全然出てこなくて」
「もう、女の子がそんな言葉使っちゃダメだよ。マリカちゃん、せっかくかわいいんだから、もうちょっと女の子らしい言葉遣いをしないと」
「サーセン。それより店長――」
蛍光灯が、疲労と眠気が入り混じった表情を照らす。
「今日、ちょっとだけでもシフト伸ばしても良いですか?」
こうして、女子高生でありちょっと変わった魔法少女でもある平井マリカは、また日常へと戻っていく。
世界を守るために、今日もアルバイトでお金を稼ぐのだ。
初めて魔法少女になったのは、一年前のことだった。
魔法少女への憧れはあった。けれど、それは人一倍強いものではなく、ただ子どもの頃に抱く程度の淡い夢の延長にすぎなかった。男の子が、ウルトラマンやスーパー戦隊、仮面ライダーに憧れるようなものだ。
ある日の放課後、マリカはいつものようにスマホを開くと、見覚えのないアプリが登録されていることに気づいた。
『CureLink』
なんのアプリだろうとアイコンをタップすると、黒い画面にハートマークが表示される。知らないうちに誤ってインストールしてしまったのだろうかと消そうとしたとき、画面が光った。
『契約よ。魔法少女になって、みんなを助けましょう?』
話を聞くうちに、状況が少しずつ飲み込めてきた。
ハッピーと名乗る彼女は、地球とは別の世界に生きる“ピュアーズ”という存在らしい。
ピュアーズと呼ばれる者たちは、悪しき感情を糧にして力を増す“モヤーズ”と長年戦ってきたという。けれど、モヤーズは異世界へ渡る術を得てしまい、ピュアーズの届かぬ世界――この地球で、自由に力を蓄えはじめた。
それを食い止めるため、ピュアーズも異世界転移の研究を重ねたが、彼女たちはモヤーズのように実体を持ってこちらに来ることができなかった。ただ意識だけを飛ばし、電波を媒介にしてこの世界へ干渉するしかない。
また、モヤーズの存在を認識し、ピュアーズの力を使って戦うためには特別な素養が必要で、その力を扱えるのは十七歳以下の特別な少女だけだった。
現代の少女たちが最も身近に持っている電波を扱うもの、それはスマホである。ピュアーズはそれに目をつけ、アプリとして入り込むことで、現実世界に干渉する手段を作り出したのだ。
マリカのスマホに現れた『CureLink』が、それである。
『でもね、実はちょっと問題があって――』
この世界には、ピュアーズの力を使えるエネルギーが存在しなかったという。魔法少女の力を動かすためのエネルギー源が見つからず、彼女たちは長い間途方に暮れていた。そんな中、ようやく見つけた代用エネルギーがお金だった。
最初は、あまりの突拍子のなさに笑ってしまった。まさか魔法を使うのにお金がかかるなんて。けれど、ハッピーの声は真剣味を帯びており、彼女がこの話を決して冗談で言っているのではないことが伝わってきた。
マリカは思わず黙り込んだ。お金で魔法を使う。なんて現実的で、なんて馬鹿げた話だろう。
でも、魔法少女にはなってみたい。
マリカの胸の奥に、淡い高揚が芽生えた。非日常の扉が、ゆっくりと開こうとしている。その興奮の方が、お金の問題を上回っていた。
こうして、彼女の“バイト生活”は始まった。モヤーズとの戦いは、人を助けたという報酬と、自らの支払いが混ざり合う――奇妙な現実の一部となっていった。
次の日。
昨日の戦いと労働でまだ少し重く感じる体を引きずるように教室に入ると、すでにほとんどの生徒が登校しており、あちこちから笑い声や椅子を引く音が響いていた。
窓際の席から差し込む柔らかな朝日が、マリカの机の上をやさしく照らし、薄い影を作っている。
「おはよう、マリカちゃん」
「おは。またバイト?」
机にバッグを置くと、クラスでも仲が良いクラスメイトが声をかけてきた。
おっとりとした口調で声をかけてきたのは、橘ユミ。肩までの髪を緩く巻いた、どこか天然な雰囲気の子だ。
その隣で、短い髪をきっちり整えた木下サエコが腕を組んでマリカを見ている。
「おはよう。そうなのよ……」
「マリカちゃん、毎日毎日アルバイトしてるよね? ちゃんと寝られてるの?」
「隈すごいよ」
サエコのきりっとした表情は睨んでいるようにも見えるが、付き合いの長いマリカには心配してくれていると分かる。ユミも不安そうに、マリカの顔色をうかがっていた。二人とも、本気で彼女を案じている。
「大丈夫。ちゃんと4時間は寝るようにしてるわ」
「少ないよ、マリカちゃん。6時間以上は寝ないと」
「分かってはいるんだけどねぇ」
マリカは笑ってごまかしたが、その笑顔の奥に隠しきれない疲労を滲ませる。授業中、何度も舟を漕ぎそうになっていることを思い出し、内心で小さくため息をついた。
ぐでーっと机に上半身をくっつけるマリカの様子を見ていたユミとサエコが、互いに小さく目を合わせる。そして、ユミがふと思い出したように声を弾ませた。
「あ、そうだ。駅前に美味しいクレープ屋さんできたんだって。今日の放課後みんなで行かない?」
「クレープ!?」
マリカの目が輝く。魔法少女やバイト戦士と言っても、中身はどこにでもいる女子高生。甘いものの誘惑には弱い。頭の中に、生クリームとチョコソースの香りが広がり、想像だけで涎が出てきそうになる。
だが、その甘い想像は、昨日支払うことになった4,970円の請求が脳裏をよぎり、胸の奥がずしりと重くなる。財布の中身を思い出した瞬間、甘い汁は苦い汁へと変わり果てた。
「ごめん、ダメだ。お金ない」
「え? 毎日アルバイトしてるのに?」
サエコが、訝しむように首をかしげる。
「ねえ、マリカ。大丈夫? なにかに騙されて変なことに使ったりしてない?」
「だ、大丈夫よ! あ、HR始まりそう! ちょっとトイレ行ってくるわね」
心配そうな二人の視線を背に受けながら、マリカは逃げるように席を立った。
毎日アルバイトをしているのにお金が無いのは、明らかに不自然だ。自分が友達でも、同じように心配する。
胸の奥に小さなもやもやが広がり、それを吐き出すように大きなため息をつく。空気が少し冷たく感じ、そのため息が白く見えたような気がした。
トイレに入り、洗面所の鏡の前に立つ。蛍光灯の光が背後から顔を照らすと、疲れを隠す余地がない。目の下のクマが昨日より濃くなっている気がして、マリカはそっと自分から視線を逸らした。
放課後、教室の掃除を終えて一足遅く校舎を出ると、夕暮れの空が茜色に染まり始めていた。
駅前の通りの向こうには、ピンクと白のテントを掲げたクレープのキッチンカーが目立っていた。鉄板の上で焼ける生地の香ばしい匂いが風に乗り、甘いクリームや砂糖の香りが鼻先をくすぐる。
あれが、ユミが言っていた新しく出来たクレープ屋さんだろうか。焼き上がったクレープを手にした女子たちの顔は、期待と幸せに満ちていた。マリカの胸の奥に、羨ましさと切なさが入り混じった感情がふわりと浮かぶ。
ふと人波の中に、ユミとサエコの姿を見つける。二人は仲良く並び、笑いながら包み紙を広げていた。マリカは、声をかけようと一歩踏み出す。
「美味しいね」
「うん。美味しい」
「マリカちゃんも来られたら良かったのに」
「また誘って来ればいいよ」
聞こえてくる友人たちの話し声が、夕暮れのざわめきの中に溶けていく。甘いクリームの香りと一緒に、その声がマリカの胸の奥を静かに刺す。
今度こそ、魔法をできるだけ使わずに出費を抑えて、ユミとサエコと一緒にクレープを食べよう。
マリカはそっと足を引き、笑い声の輪から身を離れる。背中に夕焼けの光を受けながら、もう一つのバイト先であるファミレスへと歩き出した。
その日、マリカは集中力が続かず、皿を落としたり、注文を取り違えたりとミスを連発し、店長に軽く注意を受けることになった。
数日後。
黒板を走っていたチョークの白い筋がぷつりと途切れ、教室に硬い声が跳ね返った。
「平井! 起きろ!」
ぱち、と瞬きをしたマリカの視界に、蛍光灯の帯がにじむ。瞼の裏には砂利を詰められたみたいな重さがこびりついていた。昨夜――いや、ほとんど明け方に現れたモヤーズはなかなかに手強く、空が白むころにようやく片がついた。そのため、すごく眠い。ちなみに、そのときの請求は六千円だった。
――シフト、増やさないとなあ。
チャイムが鳴って先生が教室を出ていくと、ざわめきが水面に広がる輪のように緩んだ。すっと机の脇に影が差し、椅子の脚がきゅっと床を鳴らす。
「マリカちゃん、大丈夫?」
ユミが隣の椅子ごと近づき、心配そうに覗き込む。柔らかな声に続いて、サエコの低い相槌が落ちた。
「やつれてるように見えるよ。昨日、ちゃんと寝た?」
「……寝たよ? ただ、ちょっと朝に変な時間に起きちゃっただけ」
言葉は軽く、笑みは薄い。けれど、その声の裏に潜むかすかな掠れと、目の奥の暗さが隠せない。頬には乾いた肌の張りつきと眠気の影が残り、疲労は化粧でも隠せぬほど深く沈んでいた。
ユミとサエコはそんな彼女の顔を見つめ、無言のまま視線を交わす。これは、もう放っておけない。そう思った二人は、小さく頷き合った。
「マリカちゃん、今日はアルバイトある?」
「今日は18時からバイト」
「じゃあ、ちょっとは時間あるね」
サエコはパンと両手を打ち合わせ、短く息を吸った。
「出勤前まで、私たちと遊ぼう」
「遊ぼう!」
ユミも続き、ぱっと花が咲いたみたいに笑う。
「ちょ、ちょっと待って! お金ないの。ほんとに」
「知ってる。だから今日は全部、私たちが奢る」
「ほら、前に一緒にクレープ行けなかったでしょ? リベンジしよ」
嬉しい提案だ。正直行きたい。けれど、ポケットの軽さが現実を突きつける。しかも、今朝の追加の請求もある。
喜びと遠慮が綱引きをして、マリカの胸の中でせめぎ合っていた。
「でも、悪いわよ。さすがに全部奢られるのは気が引けるわ」
「気にしなくていいの! 暗いマリカちゃん見たくないもん」
「心配しないで。あたしたちだって、ちゃんとバイトしてる」
「でも、さすがにお金が関わるなら……」
それでも断ろうと思っていると、ユミがぐいっと距離を縮めてきた。
「マリカちゃんは、あたしたちと遊びたくないの?」
ユミは少し眉を下げて、潤んだ瞳で見上げた。教室の蛍光灯がその瞳に映り込み、かすかに光る。その視線に、マリカの心臓がどくんと鳴った。言葉を飲み込み、逃げ場を失う。
「うっ。わ、分かったわ! 今日は奢られる! でも、いつかちゃんと返すから」
「やった!」
「決まり。じゃあまずは――」
ユミが椅子を引いて立ち上がり、サエコも微笑みながら肩を貸す。二人の手が、マリカの腕を取った。
「「保健室で寝ておいで」」
マリカは抵抗する間もなく、教室を出た。その姿は、さながら宇宙人を護送しているようだ。白い扉をくぐると、柔らかな消毒液の匂いと静かな空気が迎えてくれる。
押し込まれるようにベッドに横たわり、久しぶりに授業をさぼることになった。
放課後、マリカは二人の友人に腕を引かれ、駅前へと連れ出された。久しぶりにぐっすり寝られて、気分はすっきりしていた。睡眠の必要性がすごく分かる。
夕暮れの駅前には制服姿の学生たちが溢れ、甘い香りが漂っている。三人でクレープを頬張りながら笑い合い、駅中のショーウィンドウの中の服を指差しては感想を言い合う。
途中で迷子の子を見つけ、三人で迷子センターに届けた。係員に頭を下げられ、子どもの母親が駆け寄ってきたとき、マリカの胸に温かいものが広がった。
楽しい。すごく楽しい。
笑うたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
魔法少女をやっていなければ、こんな生活を送れていたのかもしれない。放課後に友達と歩いて、何気ないことで笑って、楽しい日々が送れていたのかもしれない。
そのとき、心が折れる音がした。
誰にも聞こえない、けれど確かに自分の中で何かが壊れた音だった。
――うん、魔法少女なんて辞めよう。
その日のアルバイトが終わり、夜風が肌を撫でる。マリカはバッグからスマホを取り出すと、画面を見つめた。
『CureLink』
魔法少女になるためのアプリ。そのアイコンを長押しする。画面の上で、小さなアイコンが震えた。削除を示す✕マークが右上に浮かび上がる。
押そうとした瞬間、スピーカーから声がした。
『消すの? マリカ』
マリカは、目を細めた。
「消すわ。あたしは、普通の女の子に戻る」
『そう……』
「なに? 引き留めるの?」
『ううん、止めたりしないわ。あなたが決めたことだから。それに、戦ってもらっていたのにお金まで取っていたことは、本当に申し訳なく思ってるの』
「あんた、あたしが文句いうときいつも逃げてたじゃない」
『……』
「おい」
マリカの言葉は完全スルーして、ハッピーはどこ吹く風とばかりに喋り続けた。
『今まで戦ってくれて、本当にありがとう』
「……じゃあね、ハッピー。あたしも、なんだかんだ楽しかったわよ」
『……元気でね、マリカ』
マリカの指先が✕マークに触れた瞬間、画面の中のアイコンがふっと淡く光を放ち、すぐに霞のように消えていった。『CureLink』の文字が消えたホーム画面には、空いた場所がぽっかりと残る。
しばらく無言のまま画面を見つめ、マリカはアプリストアを開いた。指先で検索欄に「CureLink」と打ち込む。だが、候補はどこにも表示されない。
夜風が吹き抜け、髪を揺らす。街灯の明かりが遠ざかり、彼女の影がアスファルトの上で揺らめいた。マリカはスマホを手でぎゅっと握りしめ、ひとつ深呼吸をする。
これで、本当に魔法少女じゃなくなったんだ。
そう思った瞬間、張りつめていた心の糸がゆるみ、頬を冷たい風が撫でていった。見上げた夜空には、滲んだ星の光が静かに瞬いていた。
次の日から、マリカは失われた一年を取り戻すように、放課後の時間を遊びで埋めていった。アルバイトは、シフトを減らしただけで辞めてはいない。
カラオケでストレス発散し、ゲームセンターでプリクラを撮り、カフェやファミレスで友達と時間を気にせずだべる。
結局出費はかさむけれど、自分の有意義な時間のためにお金を使うのは心が軽い。
ある夕方、ファミレスの席で、ユミとサエコと三人ドリンクバーのカップを片手に喋っていた。店内は同じように放課後の学生で賑わっており、様々な制服姿の少年少女たちの話し声があちこちから聞こえてきていた。
「マリカって、なんでそんなに優しいの?」
「え?」
何の気なしに口にしたサエコの言葉に、マリカは一瞬まばたきをしてから、きょとんとした表情で顔を上げた。
「そうだよ。だって、この前、駅でお金を落としちゃった人のお金を拾うの一緒に手伝ってあげてたし、この間も杖をついたおばあさんが階段で降りてたとき支えてあげてたじゃない」
続くようにユミに言われて、マリカはストローを弄びながら考える。ガラス越しの夕暮れが、彼女の瞳に淡く映っていた。
「うーん。あんまり、考えて動いてないかもしれないわね」
後先考えないからこそ、魔法少女になってしまったのだ。
「わたしも、もっと人に優しくしよう」
そう言って、ユミはコーラを一気飲みした。
それから、三か月くらいが過ぎたある放課後のことだった。
その日は、ユミとサエコとカラオケに行く約束をしていた。校門を出て駅前へ続く道を歩きながら鞄の財布を探っていると、ふと違和感を覚える。覗き込むと、いつもある位置にスマホが見当たらないのに気がついた。
「あ、スマホ忘れた。先行ってて!」
「了解」
「わかったー」
マリカは踵を返して校舎へと戻った。夕暮れの廊下には、いくつかの上履きの音だけが響く。小走りで教室へ向かい、誰もいない教室の中マリカは自分の机の引き出しに手を伸ばした。そこにはちゃんとスマホがあり、ほっと息をついてそれを回収して教室を出ようとする。
そのとき、手の中のスマホがぶるりと震えた。画面には、グループLINEにユミからのメッセージが届いていた。
『スマホあった? 406の部屋に案内された! 待ってるね』
『分かった! すぐに行く』
返信を終えると、マリカは校門を抜け、駅前通りへと駆けだした。
いつもと同じ道、行った先では親友たちが待ってくれている。
――そのはずだった。
角を曲がった瞬間、世界の色が変わった。人々のざわめきが押し寄せ、足が自然と止まる。視界の先に広がるのは、黒い煙とオレンジの閃光。警備員の拡声器が響き、焦げた匂いが鼻を刺す。
何が起こっているのか、脳が理解するよりも早く心臓が強く脈打った。見上げれば、今から入るはずだったカラオケがあるビルから、黒い煙が帯のように噴き上がっていた。
「ユミ、サエコ!」
足が勝手に動き、炎に包まれたビルへ駆け出す。熱気が頬を刺し、空気が焼けるように重い。
「ダメだよ君! 離れて!」
入口の近くで警備員に腕を掴まれ、マリカははっと我に返る。制服越しに伝わる熱が現実のものと知れ、背筋が震えた。
震える指でポケットからスマホを取り出す。画面の明かりが赤い炎を反射し、汗ばむ手のひらが滑る。マリカは歯を食いしばりながらグループLINEでメッセージを打った。
『大丈夫!? 外に出てる!?』
既読はつかない。ビルからは断続的に爆ぜる音が響き、胸の奥がずしりと沈み、呼吸が浅くなった。
「ママ! お姉ちゃんたちを助けて!」
「で、でも……」
一際大きな声が聞こえ、マリカはその方向に目を向ける。
小さな女の子が、必死になって母親に訴えている。母親はその訴えに応えることができず、ただ苦しそうに立ち尽くしていた。視線は、娘と前で燃え盛るビルに交互に彷徨っている。
胸の奥がざわつくような嫌な予感が押し寄せ、マリカは思わずその少女に近づいた。彼女の前にしゃがみ込むと、涙で濡れた瞳がこちらを見上げる。
「ねえ、お姉ちゃんたちって?」
「男の人がね、火をいっぱい出して……リエのほうにきたの。お姉ちゃんたちが助けてくれたけど……でも、でも、まだビルのなかにいるの!」
言葉を探しながらも一生懸命話していた女の子だったが、途中で彼女はぎゅっと唇を噛み、涙を溢れさせる。
よく見ると、少女の頬や額には灰混じりの煤がいくつもこびりつき、髪の先にも焦げたような跡が見えた。説明しながらその小さな身体が震えているのを見て、マリカは胸の奥がぎゅっと縮む。
「思い出させちゃって、ごめんなさいね。でも、最後にこれだけ教えてくれる? そのお姉ちゃんたちってこの人たち?」
マリカはポケットからスマホを取り出し、ユミとサエコと写った写真を見せる。すると、女の子は涙で濡れた瞳を見開いて「このお姉ちゃんたち!」とコクコクと強く頷いた。
――火を出す人? モヤーズ?
火事の原因である男の正体は分からない。だが、女の子の言っていた“お姉ちゃんたち”――それは、ユミとサエコで間違いない。炎の向こうに、まだ二人が取り残されている。
熱気の波が頬を撫で、煙が少しずつ低く垂れ込めてくる。ざわめく群衆の中で、マリカの鼓動だけが耳の奥で強く鳴った。
思考よりも先に、体が動く。
マリカは息を吸い込み、人垣の隙を探す。
ビルのエントランスは、すでに警備員によって塞がれていた。だが、建物の脇に続く細い裏通路の先に、非常階段の影が見える。
マリカは、そこに向かって躊躇わずに駆け出す。背後から「あ、あなた!」と母親の声が飛んできたが、もう耳に入らなかった。
鉄製の階段は炎に炙られて焼けるように熱く、手すりから慌てて手を放す。上へ進むほど空気が重く、煙が肺にまとわりつく。制服の袖で口と鼻を押さえ、滲む涙で視界を滲ませながら、四階まで一気に駆け上がった。
熱くなった踊り場の扉を押し開けた瞬間、濃い煙と熱が波のように押し寄せ、全身を撫で抜ける。天井の蛍光灯は割れ、破片がぱらぱらと落ちていた。
じっと目を凝らすと、揺れる炎と煙の合間に、廊下の奥で床に倒れている二つの影が見える。煙と涙のせいでその輪郭は歪み、立ちこめる熱気で遠く霞んでいる。それでも、マリカの目にははっきりと映った。
ユミとサエコだ。互いを庇い合うように寄り添い、煤にまみれた顔で意識を失っている。マリカは息を詰め、膝をつきながらその場に寄っていった。
「ユミ! サエコ!」
肩を揺すり、頬を軽く叩く。しかし、返事はない。唇に触れる空気は熱を帯び、息を吸うたびに肺の奥が焼けるように痛んだ。
二人を同時に抱えて避難するのは、マリカの力では難しい。ユミとサエコの手を握りしめて引きずろうとしたその瞬間、背後からゆっくりとした足音が近づいてくる。
「この力、素晴らしい! たかがこの程度の火で、ビル一つを燃やすことが出来るとは」
不気味に笑う男の声が、蛇のようにマリカにまとわりつく。火の明かりが廊下の奥でゆらめき、黒い影がゆっくりとこちらへ歩み寄ってきているのが見えた。
「……あんたは」
「ん? 貴様、オレの姿が見えるのか」
炎をまとったような歪んだ影が、マリカに気がついて足を止める。
「……なんで、こんなこと」
マリカの言葉に、影は一瞬だけ首を傾げ、意味を噛みしめるように沈黙した。その後、炎の揺らめきに照らされた輪郭がわずかに歪み、それが当然のことだとでも言うように何気ない調子で口を開く。
「なんでこんなこと? 新しい力を手に入れて、試してみたくなっただけだ。すごいだろう。少し火を出しただけで、こんなに燃えるのだ。本気を出せば、この町一つくらいなら燃やし尽くすことも出来るだろう」
「そんなこと……ゴホッ、ゴホッ」
――させないわ。
その言葉は、喉の奥で詰まった。言葉にならない思いが胸を突き上げるが、声は出てこない。
なぜなら、今のマリカは魔法少女ではないから。
熱源が近づいたからだろうか。先ほども焼けた空気が肺を刺し、呼吸をするたびに痛みが全身へと広がる。喉が灼けるように熱く、目は涙と煙でまともに開けられない。
意識が、波のように揺らいでいった。
魔法少女への憧れはあった。けれど、それは人一倍強いものではなく、ただ子どもの頃に抱く程度の淡い夢の延長にすぎなかった。男の子が、ウルトラマンやスーパー戦隊、仮面ライダーに憧れるようなものだ。
それでも、困っている人を助けたいという気持ちだけは、人一倍あった。
思い浮かぶのは、祖母。小さな体でボランティアに通い、最期の瞬間まで「人のために」を貫いた人。その姿は、幼いマリカの心に“強さ”と“優しさ”という二つの炎を残した。
――そうだ。あたしはただ、誰かを助けたかっただけだ。
魔法がなくてもいい。力なんてなくてもいい。
けれど今だけは、ユミを、サエコを、そしてこの場所に取り残されてしまった誰かを助けたい。
胸の奥が、焼けるように熱くなる。
『そうよ。ワタシたちだって、魔法少女を適当に選んでいるわけじゃないわ』
耳の奥で、消したはずの声が炎のざわめきと重なって蘇る。
『誰かを助けたいという心――それが、魔法少女にとっていちばん大事なの』
朦朧とする意識の中で、視界が揺れる。ふと見ると、ポケットから滑り落ちたスマホが床に転がり、ひときわ強く明滅していた。
『あなたがその気持ちを忘れないのなら、ワタシたちは何度だってあなたを魔法少女にする』
ああ、そうだ。あたしは、誰かを救いたいと思っている。
そのために――ハッピー。また、あなたの力を貸して。
『契約よ、平井マリカ。魔法少女になって、みんなを助けましょう?』
スマホの画面に、ピンクのハートマークが淡く明滅している。炎の赤と交わりながらも、その色は絶望の中で唯一の光のように見えた。
唇をかみしめ、震える指でハートマークにそっと触れる。
その瞬間、光が弾け、焦げた空気を押しのけるように風が逆巻いた。
光の中で、マリカの身体を淡いピンクのリボンがくるくると包む。制服の生地は花びらのようにほどけて舞い上がり、やがて一枚ずつ重なって、柔らかな光沢を帯びたドレスの形を作っていく。黒髪はやさしい桃色に染まり、ふわりと弾むツインテールに変わる。掌のスマホは、ハートの飾りが輝くステッキへと変貌する。
光が静かに収まると、煙と熱気の中に、一人の少女が立っていた。ピンクのドレスが炎の反射を受けて柔らかく光り、揺れる髪がその光を散らす。焼け焦げた空気の中で、その姿だけがまるで夜明けのように凛と輝く。
その姿を見て、炎の影は驚愕に目を見開き、すぐに狂気じみた歓喜の声をあげた。
「なっ!? 魔法少女だと? 面白い、この力――」
「ごめんなさいね。今、あなたの相手をしている暇はないの」
マリカは静かに言葉を吐き、炎の中に立つ影をまっすぐ見据えた。ステッキを肩の高さで滑らかに構え、空気を切るように影へと動かす。
「――セレニティ・シャワーウェイブ」
次の瞬間、ステッキの先端から放たれた光が弧を描き、そこから透明な水脈が無数の糸となって宙を舞った。水は空中で輝きながら形を変え、やがて滝のように降り注ぐ。触れた炎はじゅっと音を立てて縮み、立ち込めた煙を白い蒸気に変えていく。熱気と水飛沫が入り混じり、フロア全体が一瞬で光と霧に包まれた。
サイレンの音を響かせながら救急車と消防車が到着し、隊員たちが放水の準備を始めたそのときだった。ビルの内側から突然、滝のように水があふれ出した。窓の隙間や割れたガラスから勢いよく噴き出した水は、燃え盛る炎を押し流すように広がり、白い蒸気を立てながら一気に鎮まっていく。
その異様な光景に、外で見ていた人たちが一斉にざわめいた。
「な、なにがおきたんだ?」
「スプリンクラーが壊れたのか?」
通りのあちこちで、驚きと戸惑いの声が上がる。消防隊員たちも放水しようとしていた手を止め、信じられないものを見るようにビルを見上げた。
「おい、あそこ!」
群衆の一人が声を上げた。その指先が指す地面には、ビルから助け出された人々が等間隔に並べられていた。救急隊員が近寄り、全員の安否を確かめる。胸はかすかに上下し、どの人も息をしている。まるで誰かが丁寧に一人ずつ運び出したようだった。
「生きてます! 全員生きてます!」
救急隊員が叫ぶように言うと、群衆が一斉に沸いた。
「ねえ! リエ、見たの!」
その中で、一人の女の子が母親の袖を引っ張りながら興奮気味に叫ぶ。
「ぷいきゅあだよ! ぷいきゅあが、びゅーんって飛んできて、みんなを助けてくれたの!」
しかし、その子どもの言葉を信じる者は誰もいない。
けれど、焦げた風に混じる甘い花のような香りが、確かに“誰か”の存在を物語っていた。
1週間後。
コンビニの自動ドアが、軽やかな電子音を鳴らして開いた。夜の冷たい風が店内に流れ込み、蛍光灯の白い光がくたびれた黒髪の少女の顔を照らす。
「あ、マリカちゃんお帰り」
レジの奥から、店長ののんびりとした声が飛んでくる。
「すみません。うんこが全然出なくて」
「もう、女の子がそんな言葉使っちゃダメだって何回も言ってるでしょ?」
レジ越しに店長が苦笑し、同時に明るい甲高い声が続く。
『そうよそうよ! 少しは言葉を選びなさいな』
少女は肩をびくりと震わせ、目を瞬かせる。
「ん? なんだ今の声。お客様いたっけ?」
「き、気にしないでください! それより店長――」
少女は、残る隈の下を指で軽く擦り、前髪を耳にかけながら小さく息をついた。
「来週、追加でシフト出しても良いですか?」
平井マリカ、魔法少女――バイト中。




