最終話 取調べ室
寒さが少しずつ厳しくなってきたある雨の日、この日はとても気温が低くこの雨は夜遅くに雪に変わる
――そんな予報だった。
この日、私と星野さんは取調べ室にいた。外では、雨が窓に打ちつける音だけが静寂を破っている。
そして、部屋の向かいにはもう一人、女性が座っていた。
ひととおり話を終えると、彼女は俯いたまま、まるで時間が止まったかのように動かなくなった。
その沈黙を破るように、星野さんがゆっくりと口を開いた。
「今、お話しされた内容に、間違いはありませんか?」
女性は小さく息を吸い、顔を上げる。そして震える声で、「……はい」と答えた。
その瞳には、涙が静かに溢れていた。
しばらくして、彼女は別の捜査員に連れられて取調べ室を後にした。
――ようやく、この事件が解決した瞬間だった。
星野さんは静かに立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
ガラス越しに、雨が雪へと変わり始めた街の景色を見つめながら、何かを思い巡らせているようだった。
事件は、確かに終わったのだ。
ーーーーー
ーーある、女性の回想ーー
私はこの日、一日中自宅にいた。
今日はとても大事な日、いや、大事な日だった。
私は様々なことを考えながら、引き出しに仕舞っておいた一枚の写真を見つめていた。
その写真を見ると、色々な思い出が蘇る。
すると、ふっと不思議な感覚になった。何かが私の頬を撫でたように感じたのだ。
そんなとき、インターフォンが鳴った。
玄関に出ると、黒いコートに身を包んだ星野刑事と宇佐美刑事が立っていた。
「すみません、今から少しお時間をいただきたいのですが」
「……はい」
私は小さく頷き、部屋に戻り身支度を整えた。
もうこの部屋には二度と戻れない
――そんな予感がした。
玄関を出ると、二人が乗ってきた黒い車の後部座席に案内された。
ドアが開くと、奥の座席にはグレーのスーツを着た女性が静かに座っていて、彼女は私に軽く会釈をした。
優しい眼差しだったが、すぐに刑事だとわかった。
私は自分でも気づかないうちに、小さなため息をついていた。
その瞬間、胸の奥に重い現実がのしかかってきた――。
車は静寂を保ったままゆっくりと走り出した。
走りだして、どれくらいたっただろう……
その静寂が支配する車内で、助手席の星野刑事が前を向いたまま落ち着いた声で言った。
「陽菜乃さん。これから私たちと一緒に、事件現場を見ていただきたいのですが、よろしいですか?」
「……はい、わかりました」
そう答えるしかなかった。
現場へ向かう道中、車内はまるで時間が止まったように静まり返っていた。
これから始まる何かを思うと、心臓が止まりそうだった。
やがて車が停まり、運転していた刑事が言った。
「着きました」
そこは父のアパート
――いや、父が住んでいたアパートだった。
数週間が経った今でも、焦げ臭い匂いがかすかに残っていた。
アパート正面の階段を、星野刑事を先頭に、私、その後ろにさっきの女性刑事と宇佐美刑事の順で上がる。205号室の扉を開け、黄色い規制線をくぐった瞬間、まるで別の世界に足を踏み入れたような不思議な感覚に襲われた。
部屋の中は黒く焼け焦げ、異様な静けさが漂っていた。焦げた木の匂いが鼻の奥に残り、足音ひとつさえも恐ろしく響く。
星野刑事は黒く煤けた床の一角、うっすらと白く残った痕跡の前で静かに手を合わせた。
私はその動作を、ただ無意識に真似た。
「……ここで、お父さんは亡くなったんですね」
星野刑事はそう言うと、私をじっと見つめ、言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「お父さんは、この部屋でいろんな思いのなか過ごされていたのでしょう。決して孤独だったわけではないはずです。むしろ、この部屋で過ごされた日々は、温かい記憶に包まれていたと思います。
――それはあなたにとっても、同じではないでしょうか」
私はその言葉を胸に押し込むように、ただ目を伏せたまま動けなかった。
「陽菜乃さん、この部屋は初めてではないですね?おそらく何度も来ていたはずです。それに、お父さんとは“会っていなかった“とおっしゃいましたが……それも嘘になりますね」
私は目を伏せたまま、言葉が出なかった。
「少しあなたのことを調べさせていただきました。あなたは毎月、決まった曜日に会社を休んでいたそうですね。その日はどうしても外せない用事があった。いや、どうしても行かなければならない場所があった。そうですね?しかも一人ではない。
――大切な、もう一人のために時間を空けていたんです」
星野刑事が淡々と話す言葉に胸の奥が押しつぶされるようだった。
「お父さんが末期ガンだったことを、あなたは“メールで知った”とおっしゃいました。ですが本当は、お父さん本人から直接聞いていたのではありませんか? 最初あなたからこのことを聞いた時、あなたは無意識に“肺ガンを患っていて、余命宣告を受けたと言っていました“と言ったんです、メールの文面なら、“そう記載されていた“と言った方が自然では無いでしょうか、だからメールは消したのでは無い、メールは最初から無かったんです。あなたはどこかでお父さんに会い、末期ガンを告白されて、その変わり果てたお父さんの姿を見て、居ても立っても居られなくなり、定期検診の日には必ず一緒に病院へ行っていた」
「お父さんのスマートフォンは、生前にあったことを正直に全てを語ってくれました。あなたに送ったとされるメールもありませんでした、それに、そのスマートフォンの位置情報はあなたと共有されていたことも分かりました。そこからあなたがこの場所に何度も訪れていることがわかったんです。でも、その位置情報の共有は、あなたがお父さんの体調を気にかけ、何かあったとき、すぐに居場所が分かるようにしていた。
――そうですね」
「そして、あなたは毎月その定期検診の日をとても大切にしてこられた。……あの出来事が起きるまでは……」
「私は最初、この事件の“目撃情報が極端に少ない”ことに疑問を持っていました。お父さんに一番近い存在が、あなたであることはすぐに分りました。ですが、そんなあなたがお父さんを殺めるはずがない。だからこそ、あなたの“嘘”の裏のもう一人に気がつくことができなかったのです。
そしてあなたは今もその人を守ろうとしている。
――どうりで、事件の真犯人に繋がる痕跡が何も出てこないはずです。それはあなたのすぐ後ろに居たからです。あなたは同時に二人を守ろうとした。でも、全てを嘘で隠すことはできなかった」
私の肩が小さく震えた。
「それに、お父さんがスマートフォンに残したあの遺書は、あなたが入力したんですね、我々はあの遺書についてさらに調査を進めてきました。すると遺書の文字を入力するスピードの違いに気がついたんです。普段お父さんが文字を入力する時は、タッチ入力でその速度は平均0.48秒ごとに次のキーを押していました。ところが、この“遺書”だけ、平均0.25秒。倍近い速さなんです。これは通常のタッチ入力では無理なんです。比較的若いあなたのような方が使うフリック入力ではないとこの速度が出せません。
このことからあの遺書を入力したのは本人では無いことが明らかになったんです。それに、今までの状況証拠から推測すると、お父さんを刺した人物があなたに近い存在でないとこの状況にはなりません、あたなはその犯行をわかっていながら、どうしても嘘をつかなければいけなかった。
その人物を守るために……
そうですね」
星野刑事がさらに続けていった。
「実は、もうすぐ、別の捜査員がお母さんのところに向かうことになっています。任意での同行にはなりますが、家宅捜索を行えば、おそらく高い確率でこの部屋で起きた痕跡が残っていると、私は思っています。
でも、そうなる前にあなたの口から真実を話していただけないでしょうか」
私はずっと下を向いていた。
――私の負けだった。
ここに連れてこられたときから、気付かないうちに少しずつ攻められていた。
それはまるで――
オセロの盤面の、私の白い石が少しずつ黒く裏返されていくのを感じ取れなかった……
ゆっくりと、静かに、しかも着実に――
最初は優勢に見えていたが、いつの間にか全てが黒に染まっていた。
もう――
ひっくり返せる私の白い石は、残っていなかった。
「……刑事さん……真実はいつも残酷ですね……でもその真実を解き明かしたところで、父は浮かばれるのでしょうか……誰かが幸せになるんですか……誰かの心が癒されることはあるんでしょうか……」
胸の奥が押しつぶされ、言葉がこぼれ落ちる。
星野刑事は静かに、しかし深い悲しみを宿した目で私を見つめた。
「私は、この仕事をもう20年近く続けてきました……数えきれない悲しい事件、思い出すだけで胸が張り裂けそうな事件……私たち警察は犯人を逮捕し、真実を明らかにする。
でも、それだけでは人の心は救えない」
私は息を呑んだ。星野刑事の言葉が、胸の奥深くに静かに刺さる。
「真実の裏には、必ず人の想いがある。怒りも悲しみも後悔も……小さな優しさも、忘れられない想いも。
私たちはそれを拾い上げ、記録として残す。心に刻む。そして、同じ悲しみが二度と繰り返されないように」
星野さんの視線は一瞬遠くを見つめ、その背中には孤独と覚悟がにじんでいた。
「それが、私が刑事を続ける理由であり、私の人生の意味です……たとえどんなに残酷な真実でも、どんなに救われない事件でも、無駄にはしません。誰かの心がほんの少しでも救われるなら……それが私たちの存在理由なのです」
その言葉は私は静かに涙が流れていた。
「……私は……父に残された時間を、できる限り大切にしたかったんです。最初、父は会うことを拒んでいましたが、少しずつ私との時間を大切にしてくれるようになりました。定期検診の日には病院へ行き、その帰りには父の行きたい場所に付き合いました。母と出会った場所、母とよくデートを重ねた場所、そして、私が生まれた病院。その夜は、父の好きな料理を作ってあげました。そんな、ほんの些細な日々の積み重ねが、私たち親子にとってかけがえのない時間だったんです」
「そんな日々を繰り返しているある時、母から連絡がありました。それは父が不倫をしているといった内容でした。
多分、母は父のことが心配で、こっそり様子を見に行っていたんだと思います。
でも、父が不倫をしていないことは、私が一番よくわかっていました。おそらく母は、父と会っていた私を、不倫相手と見間違えたのだと思います。母の視力は、娘の私を判別できないほど悪くなってしまっていたんです。
父と会っていることを内緒にしていたので、それが私だと言うことは、どうしても言えなかったんです」
私は、あの悲劇が起きた日のことを思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
「……そして、あの日になってしまったんです。
その日も、いつもどおり買い物を終えて父のアパートに戻りました。
玄関を開けた瞬間
――父が、部屋の中で血を流して倒れていたんです。
最初は、強盗か何かに襲われたのだと思いました。
私は慌てて救急車を呼ぼうとした。けれど、そのとき父が……こう言ったんです。
“頼む、救急車は呼ばないでくれ”と。
私は一瞬、何を言っているのか分かりませんでした。
すると父は、さらにこう続けました。
“……お母さんに刺されたんだ”と。
私は耳を疑いました。信じられませんでした。
けれど父は、苦しそうに、それでもはっきりと続けたんです。
“これ以上、由紀子に迷惑をかけたくない。連絡すれば、きっと逮捕されてしまう。私はこのまま死ぬことにする。だから――自殺をしたことにしてくれ。代わりに私のスマートフォンに遺書を打ってほしい”と。
その言葉に、私は震えました。
“そんなこと言わないで、今すぐ病院に行こう”と、必死で言い続けました。
でも、父は首を横に振るだけでした。
そして、最後にこう言ったんです。
“もう、時間がない……それに、この寿命も長くはない。だから、最後くらいは家族を守りたいんだ”と。
そこからのことは、正直あまり覚えていません……
ただ、父に言われるまま、スマートフォンに父の言葉を入力していました……
……それが、父の最後でした。
私は急いで自宅に戻り、父に言われたとおりアリバイを作りました。
でも――火事の知らせを聞いたとき、すぐに気づいたんです。
父は、自分で部屋に火をつけたんだと。
私と過ごして思い出の日々と母の痕跡を消すために……
……父は、最後の最後まで、私たちのことを愛してくれていたんです」




