第6話 事件現場 確信
この日、私は星野さんと一緒に事件現場に来ていた。
黒く焼け焦げた部屋を見渡しながら、これまでの捜査会議で明らかになった事実を一つひとつ頭の中で整理していた。
――あの日、この部屋で何が起きたのか。
被害者の妻・由紀子の証言を思い返す。
彼女が夫・重雄と別居するに至った理由、その始まりは――
この家族の歯車が狂い始めたのは、重雄が勤務先で資金の横領未遂を起こしたときだった。会社は告訴こそ避けたものの、懲戒免職という重い処分を下した。
長年、真面目に勤めてきた男にとって、それは社会的な“死刑宣告”に等しかった。
物価高と増税で、世の中全体が息苦しくなっていた。真面目に働く者ほど追い詰められていく
――そんな時代だった。
重雄は必死に仕事を探したが、思うようには見つからず、次第に酒とギャンブルに逃げるようになった。
やがて、怒りの矛先は家族へと向かい、暴力が始まった。
妻・由紀子は、自分と娘を守るために別居を決意した。それでも彼女は、夫を完全に見捨てることができなかった。
――いつか、元の夫に戻ってほしい……
そのわずかな希望だけが、彼女を彼の影に縛りつけていた。
——
今では部屋の中は黒く煤け、壁も天井も焼け落ちたように沈黙している。けれど、焼ける前のこの部屋で、被害者はどんな思いで時間を過ごしていたのだろう。
そして、誰に刺され、なぜ火をつけられたのか――
私は焦げ跡の残る窓の外を見つめながら、静かに思考を巡らせていた。
「……何か分かりそうか?」
私の後ろから星野さんの低い声がした。
私は少し間を置いて答える。
「星野さん……どうしてもこの事件には、腑に落ちない点が多すぎます。
まず、この部屋の鍵は内側から掛けられ、さらにチェーンロックまでされていた。
――これはまるで……自殺を思わせる状況です」
「それに、凶器はどこにも見つからない。あったのは台所の引き出しにあった綺麗なままの包丁が一本だけです。それも燃えてしまっており、再調査でも血液や指紋の検出はできなかったそうです。
そして、被害者について鑑識の報告では、被害者の肺からススが検出されたとありました。つまり、腹部を刺されて亡くなったのではなく
――火災によって窒息死した可能性が高い。
だとしたら、逃げられたはずなんです。腹部を刺されていたとはいえ、玄関までは辿り着いて外には出られた……それなのに鍵は閉まったまま。
被害者は、この部屋の中で、
まるで“燃え尽きるのを待っていた”かのように息絶えていた。
――やはり、自殺なんでしょうか?
それに 目撃情報もあるのに、その“若い女性”につながる有力な手がかりが全くない。少なくとも、その女性が事件に関わっていることだけは確かです。でも、どこにもそんな人物はいない。
それに他に該当するような人物もいない……
まるで
――容疑者そのものが……存在しないみたいで……」
「何だと?……存在しない容疑者か、なら幽霊がやったとでも言うのか?」
星野さんは微笑しながらも、すぐに真剣な眼差しで話した。
「そんなことあり得るわけないだろ、“存在しない人間”を作るのは、いつだって“生きている人間”だ」
彼は少し息をつき、室内を見回しながら言葉を続けた。
「いいか、宇佐美。もう一度、捜査の基本に立ち返って考えてみろ。
たとえば
――ある人物が放った“嘘”が、霧のように部屋に広がっているとする。その霧が全体を覆い隠して真実を包み込み、すべてを曖昧にしてしまうんだ。
そんな中で、その部屋の中心にいる人物にスポットライトを当てたらどうなる?」
星野さんが鋭い眼光で私に問いかけてきた。
私は緊張しながら、精一杯答えた。
「……おそらくスポットライトの光は空気中の霧に散って、周囲全体がぼんやりと明るくして、対象の人物のコントラストが落ちて輪郭がぼやけると思います」
「そうだ」
星野さんの声に力がこもった。
「だが、もし、その人物の“すぐ後ろ”に、もう一人存在しているとしたら?」
私ははっと息をのみ答えた。
「……おそらく……見えない。コントラストが失われて、背後の人物が見えなくなります」
「そういうことだ。
“存在しない”んじゃない。――“見えなかった”んだ。
見えない容疑者、嘘という霧によって見えなくされていたんだ」
――おそらく陽菜乃は嘘をついている。
星野さんはそう言いたがっているようだった。
私たちはこの事件現場をあとにして、捜査本部に戻り今までの捜査結果のピースをつなぎ合わせ、一つの結論に至ったのである。




