第1話 事件の始まりと初期捜査
底の見えない暗闇が、永遠に続いているようだった。手足を動かそうとしても、水の底に沈められたように重く、思うように動かせない。
溺れているような感覚なのに、不思議と息苦しさはない。闇は空間というより、生き物のようにうねりながら私を包み込む。
――まるで意思を持つ何かが、私を試しているかのようだった……
ハッと目を覚ました。
暗闇は夢だったのだ、どのくらい眠っていたのだろう……
腕時計の針は、午前0時を指そうとしている。体が妙に重い。
無理な姿勢でソファに横になっていたせいか、肩や腰に鈍い痛みが残っていた……
「……やっと目が覚めたか」
声の主を見ると、初老の男が缶コーヒーを差し出していた。深い皺の刻まれた顔には、夜通し働く刑事特有の疲労がにじんでいる。
「あ、……すみません。寝てしまってました」
「いいんだ。少しでも休めたなら上等だ。現場続きで寝不足だからな」
礼を言って机に置かれた缶コーヒーを受け取り、軽く振ってからプルタブを引く。
苦い香りが立ちのぼり、カフェインが体に染み渡るのを感じた。
――私の名は宇佐美優斗、三十一歳。刑事になって五年、そして警視庁捜査一課に配属されて二年になる。
目の前の初老の男は星野健二、四十九歳。直属の上司であり、捜査一課でも屈指のベテラン警部補だ。彼の背中を追うようにして、私はこの世界に飛び込んだ。
そして今、私たちはある未解決事件を追っている。
一か月前、一人暮らしの男性が自室で焼身自殺を図った
――ように見えた。
しかし、腹部に刃物による刺し傷があり、自殺ではないことが明らかになった。何者かが腹部を刺した後、証拠を消すために部屋に火を放ったのだ。
警視庁はすぐに捜査本部を設置し、私たちは昼夜を問わず捜査を続けた。ニュースは連日この事件を報じ、世間は騒然とした。だが、有力な手がかりは一向に掴めない。
被害者は、普通の三人家族の父親だった。延焼を免れた押入れから押収された家族写真には、笑顔の妻と子ども、穏やかな父親の姿が写っている
――少なくとも、あの瞬間までは「幸せな家庭」だった。
そこから、被害者のことが少しだけわかった。
被害者には二人の家族が居て、妻・由紀子、娘・陽菜乃がそれぞれ別の場所に住んでいた。捜査の結果、被害者・重雄は会社をクビになり、何らかの理由で妻・由紀子と別居生活になり、それが一年ほど続いたある夜、父親の住むアパートで火災が発生。彼は焼死体で発見された。
この事件は一見すると自殺に見えた……
しかし、腹部の刺し傷がそれを否定した。
――焼身自殺を装った殺人。
これが、私の刑事人生を変えた事件の始まりだった。
今も犯人の手がかりは何ひとつ掴めていない。マスコミは警察の怠慢を叩き、SNSでは憶測が飛び交う。真実は煙のように掴めないままだ。
――――
星野さんが少し皮肉を込めて私に話した。
「今日はさすがに家に帰ったほうがいいぞ。そのスーツもだいぶ匂う」
「いえ、まだ……大丈夫です……」
無理をしている自覚はあったが、私はそう答えた。
「いや、ダメだ。今日は帰るんだ」
星野さんの声には、強い意志があった。
「お前には家族がいるんだ。帰れるときは帰って、しっかり充電しておけ」
その口調に逆らう気は起きなかった。
私は署に残る他の捜査員に帰ることを伝え、署を後にした。
自分の車に乗るとずっしりと重たく感じる疲れを感じた
自宅の近くまで来ると、まだ部屋の明かりが灯っていた。玄関を開けると、廊下の奥から小さな足音が駆けてくる。眠そうに目をこすり、ぬいぐるみを抱えた娘が飛びついてきた。
「パパー! おかえりなさい!」
私は膝をつき、娘をしっかりと抱きしめた。その温もりが、現場で冷え切った心を溶かしていく。
「おかえりなさい。疲れたでしょう?」
奥から妻の声がした。
――かけがえのない家族の声だ。
数日会わなかっただけで、娘が少し成長したように見える。
「今日は帰れたんだね」
「うん、星野さんに言われて。それに……スーツが臭いって」
妻はふっと笑った。
「明日のスーツはもう準備してあるよ。今日帰ってこなかったら、署に届けに行くところだったんだから」
「いつもありがとう」
結婚して五年。事件で家を空ける日々の中、家事も育児も妻に任せきりだった。母が時々手伝いに来るものの、妻との関係はあまりうまくいっていないようで、度々愚痴をこぼすこともある。
娘を寝かしつけたあと、妻の顔を見て尋ねた。
「最近、無理してないか?」
だが妻は、疲れた私の顔を見て苦笑した。
「あなたこそ。明日も朝早いんでしょう? お風呂に入って、早く休んで、私は大丈夫だよ」
その言葉に素直に従い、熱いシャワーで少し疲れを流した。
私は寝室に入り、この事件について、慌ただしく書き込まれた手帳のページをめくりながら考えていた。
最初の捜査会議は、とても衝撃的な内容だった――
私はそのことを思い出していた。
――――
11月14日(土)9時。
第一回目の捜査会議が始まった。
会議室には本庁捜査一課の係長をはじめ、多くの捜査員が揃っていた。
私も席に着き、ノートを開く。資料と記録が整然と並ぶ机の上に、張り詰めた空気が漂っている。
係長が口を開いた。
「皆、ご苦労様。港区のアパートの一室で発生した火災で、男性一名が焼死体で発見された。被害者はDNA鑑定の結果、このアパートに住む小葉松重雄であることが分かった。当初は自殺と思われたが、遺体の腹部に深い刺し傷があり、司法解剖の結果、他殺と断定された。
火災の火元は台所付近。証拠隠滅のための放火と考えていいだろう。凶器と見られる刃物はまだ発見されていない」
目の前の資料の中に、被害者男性の無惨な姿が写っていた。部屋の大半は焼け落ち、通常の火災よりも燃える速度が速いように思えた。
事件概要
・被害者:小葉松重雄(52歳)無職
・同居人:無し
・発生日時:2026年11月9日 18時45分
(近隣住民が火災通報)
・場所:東京都港区※※※※21−13
アパートフォレスト 2階205号室
・被害内容:火災により焼死
・司法解剖結果:刺し傷は左腹部
・関係者:妻(一年前から別居)、娘(一人暮らし)
・目撃者情報:なし
・押収物:スマートフォン(損傷が激しく解析中)
・凶器:見つからず
(台所に未使用の状態に近い包丁あり)
私はもう一度考察を試みたが、眠気が急激に襲ってきた。
明日は九時から捜査会議だ。
進展のないこの事件に、もう一度光を当ててみせる。
――そう心に誓いながら、私は静かに目を閉じた。




