69.許し
――どのくらいの時間が経ったのか。
三人が抱きしめあい、泣き出した少女――恐らくラズールの娘をシャーラが宥め、それが寝入るまでラズールは、風化して丸みを帯びたただの石の塊――恐らく石碑を横にして座り、夕日を眺めて待っていた。
(こういう時、男親は孤独だな)
……まだ親にもなっていないのに。
ラズールはひとりごちる。のけものじゃないけど、少し寂しい。
でも娘は美人だ。絶対に美人になる。嫁に出すのはやめよう、そう思った。
シャーラが戻ってきて、不思議そうに石碑の前を見下ろす。ここには、先程消えてしまった白い服の女性がいた。
恩人だ、彼女がシャーラを助けてくれたとしか思えない。
そこに刻まれている文字は、以前見た遺跡の文字に似ている。
「『我が娘』に『月の神』の『加護』があらんことを、って書いてある」
ファリドの声に、シャーラは口を押さえる。わずかに顔色が悪い。
「勉強したんだ。母様が読みたがったから。――これは遥かな昔の神殿の神官長の墓だよ」
「それ、私の……」
「かあさまの、かあさまだって聞いた」
ファリドの言葉に、ああ、とシャーラが顔を覆う。肩を大きく上下させる。
「シャーラ?」
ラズールがその肩を抱いて、再度石碑を見下ろす。じゃあ、あの白い服の女は、シャーラの母親だというのか。
「私、お母様に庇われて逃げたの。なのに、何も覚えていなくて。何も、言え、なかった」
そのまま声を詰まらせるシャーラをラズールは引き寄せて、頭の上に優しく手を置く。
「なら挨拶しないとな。見ろよ、石碑に刻んで、神に加護を願うくらい、アンタは愛されてたんだ」
ラズールは、シャーラを引き寄せたまま石碑に頭を下げる。
シャーラの嗚咽が愛しい。
このままキスしてもいいだろうか。顔を引き寄せようとする。
「――巫女の血を引くから、時越えができたんだ」
邪魔をするかのように、唐突なファリドの声。
「かあさまは、昔神殿の巫女だったんだ。もし時超えに失敗してたら、体の時間が狂ってたかも」
「時超え?」
シャーラがラズールから顔を起こす。キスを邪魔されて、内心舌打ちしたい気分で、ラズールはシャーラを離す。
少年の目線を追うと、緑に囲まれた泉からは静かに水が湧き出ており、泉の先は洞窟へと続いている。
「これは時越えの泉。昔は神殿もこの水を引いていたと言われている。――時折、この泉から、人が迷い込んで来る」
ラズールは泉が、緑が茂る岩肌の洞窟へと続いているのを見つめる。自分たちは、確かにこの向こうから来たのだ。
「この近くに、河はあるか?」
「河?」
ファリドは何を言っているのか、という顔だ。
ラズールが尋ね方を考えていると、かさり、と草陰から現れたのは黄色い地に黒い斑の目立つ模様の蜥蜴だった。
首を傾げていたシャーラがいきなり震えだす。
「あれ、あの蜥蜴。ジャファルが、遺跡で殺したのと同じに……見えるわ」
「まさか」
「あのあと落し穴が開いて、蜥蜴の死体も落ちたと思ったの。もしかしたら地下の水路に流されて……」
ラズールは息を呑む。
死んだはずのものも生き返るのが、時越えの泉なのか。
「わずかに肉体の時間も遡るときもあるらしいよ。でも運がよかったね。生きて越えられて」
未来に来たのは、この時超えの泉のせいなのか?
(シャーラは神殿から来たといっていた)
これが、門なのか?
やはりここは、時を越えた未来なのか。
ラズールはその言葉に思い出す。
「元の場所に戻ることはできるのか?」
「知らない。でも時の迷子にならないように。気をつけないと、戻ったら年寄りだ」
ラズールは顎を撫でる。
他の男達は、この泉を通り時の迷子となり年老いて死んだのか。
(じゃあなんで、俺は平気なんだ?)
シャーラは考えがそのまま口をついているというように、思いつめた眼差しで推測する。
「……巫女ならば時超えができるのね? ――そういえば、ラズール。あなたのお母様も巫女の血を引いているとアミナさんから聞いたわ」
「そうなのか?」
「だからよ。だからあなたも無事に時が越えられたのよ」
ラズールは首を振る。母親がそうだとか、そんなの知らねえ。
それよりも、と少年を見つめ返す。
「ファリドは、母親が帝国に連れて行かれたと言っていた。そして父親が連れ戻しに出ていったと――そうなのか?」
ファリドは茶色の瞳をすぼめて睨みつける。それから、肩から力を抜く。
「そうだよ。もう一年になる」
ラズールは目を眇める。ファリドは、まだ十歳にも見えない。シャーラの中にいた彼は、もう少し歳が上だろう。
「俺、来月になったら、帝国に行くつもりだ」
「妹はどうする?」
ギュッと眉根を寄せているファリドは口を震わせているだけ。
「俺は、――父親はそういう時、どうしろって言った」
「――ジャスミンさんを、頼れって」
ラズールは頷いた。「そうだな。それが正解だ」
ジャスミンなら娘を隠す手伝いも、帝国に行く手はずも整えてくれるはずだ。
「連絡先はわかるか」
ファリドはただコクリと頷いた。
ラズールは先程取り上げたファリドの剣を彼に返す。
「刃を砥いでおいた。気をつけろ」
「行っていいの?」
「俺がお前に与えたのなら、大丈夫だ」
自分は、使えないやつに剣を与えない。
だからファリドは大丈夫だろう。
「あと身長を五センチ伸ばせ。筋肉を一回りつけろ。そしたら行け」
ファリドは顔をこらえるように顰めて、それから叫ぶ。
「アンタ、生きてろよ。そして母さんを守れよ!」
「約束する。お前も、妹を守れ」
ファリドはコクリと頷いてシャーラに向かって、甘えるように言う。
「生きててよ」
「ええ、約束したもの。あなたが助けに来てくれるって」
シャーラはファリドの頭をなでて優しく微笑む。
「また会えるから」
ファリドは、この後どうやってシャーラの中に入り込むのか、どんな目にあってそうなるのか、ラズールにはわからない。
けれどシャーラはそのことを今言わない。だからラズールも言わなかった。
「ラズール。――アミナさんは生きている、帝国にいるわ」
おもむろにシャーラは告げる。
シャーラはアミナの過去に行っていたと聞いた。その時に見たという。
「魂は、ジンに奪われたのかもしれない。でも体はまだ囚われているのかも……」
シャーラの不安げな顔を、ラズールは抱きしめる。
そして目を閉じて何かを堪え、息を吐き出した。
「いいんだ。もう終わった」
「でも、ラズール」
「アンタを置いてはいかない。俺の目と交換された、つまりジンの契約がようやく終了したのなら。――アミナは――死んだんだろう」
シャーラは悲しげに目を伏せた。
ラズールはなだめるようにその頭に手をおいて額にキスをする。
そして、おもむろにラズールは正面に目を向ける。
「ここは、イラムなのか」
「――きれいね。楽園みたい」
「見覚えはあるか?」
シャーラが穏やかにそれを見つめる。
「わからないわ」
ラズールの手を離して立ち上がり、シャーラは見渡すようにくるりと回転する。
一面の芝生には、黄色や赤、青の花が咲き乱れ、あちこちで崩れた巨岩が、緑の合間から顔を覗かせている。
「ラズール、あれ」
一回転したシャーラが丘の左を指差す。そこには黒光りする何かがあった。
視力に自信があるラズールは、目を眇めてそれを見る。
「巨人……だ、間違いない。シャーラ!!」
ラズールはシャーラの手を握り、巨人像まで駆け出す。
近づくとその大きさと、存在感に圧倒される。
そして、つなぎ目のないつるりとしたまるでひとつの石で作られたかのような巨人像の足元から見上げて、ラズールは息を呑む。
「すごい、大きいのね」
「アンタが表れた砂漠、そこにこの欠片が落ちている。巨人の手と呼ばれている」
ここには、向かい合う二対の巨人像がある。
その右側の巨人は切り落とされたように、手首から先がない。
「手のない巨人だ。その手の先は、俺達の世界にある」
砂漠に埋もれる巨人の手を思い出す、あの本体はこれだというのか。
「ここは、門の向こう側……」
ラズールは息を呑んで、左右を見渡す。
平野の先には、たくさんの石柱が埋もれている。
ラズールは、シャーラの手を取り駆け出す。
「ラズール、どうしたの」
地面に埋もれているのは、角ばった石。つなぎ合わせると壁になる。
「ここは、都市だ。たぶん」
二体の像は、都市へ続く中央通りの左右にあったのではないか。
「滅びたの……どうして?」
わからないとラズールは首を振る。
「もしかしたら、河にすべて流されたのかもしれない」
「河?」
「ああ、今は砂しかない砂漠も、昔は大河があった肥沃な土地だった箇所もたくさんある。洪水で都市が消えるのはよくある話だ」
実際は、過去に何があったのかは、わからない。
ただ、ここが肥沃な土地だということだけがわかる。
「きれいね。花が咲いて、芝生があって。まるで楽園みたい」
シャーラが笑いかける。
自分には、シャーラがいる、それが楽園だ。
ラズールは目を眇めてその笑顔を見つめる。
「ラズール。アミナさんとの約束果たしてくれてありがとう。ここが、私にとって楽園よ」
「そうだな」
ラズールはシャーラの手を取る。その手にキスをする。
「ここに、家を作るか?」
不安げに見かえしてくるシャーラに笑いかける。
「あっちに戻って、落ちついたらこの場所を探そう。時超えじゃない、バアルに乗って行くんだ。アンタの母親の墓を守って、そこに暮らそう」
シャーラはくしゃりと顔を崩して、そして「うん」と頷いた。
二人は、石碑の前で頭を下げる。
特にラズールは長かった。首をかしげるシャーラにラズールは言う。
「……アンタの母親に誓って、許しを貰った」
「許し?」
「結婚の許しをな」
シャーラは顔を赤くして、それからラズールを伺うように見上げる。
「母親はいいってさ。それで、アンタの返事は?」
シャーラは俯いて、ただラズールの手を握る。
その温かさに愛しさがこみ上げて、ラズールはシャーラを抱きしめた。




