6.何から逃げているの?
泣いているのは誰?
『お願い、イラムへ』
その誰かに話しかけようとして屈み込むと、背後から闇に取り囲まれる。それは蔦のように凝縮し、体に絡みつき動けなくなる。
"……逃さぬ。次はお前だ!!"
その蔦は体を締め付けながら、更に深い闇へと引きずりこもうとする。
庇うように現れた白い影が、何かを叫び手を払うと闇が怯えたかのように後退する。白い影が振り向き、手を伸ばしてくる。けれど、これは誰だろう。
黙っていると、その影は寂しげに笑う。まるで水の中にいるように、視界が揺らぐ。
「……待って! あなたは誰?」
***
自分の声に驚いて、目を覚ます。巻きつく感触と不気味な声を思い出し、息を荒く吐く。
「あの白い服の人は、誰なの?」
わからない。助けてくれた人は、声も姿も朧げで、あっという間に頭から消えてしまう。残るのは恐ろしい感触だけ。体を震わせて、その気配を振り払う。
そろそろと手足を伸ばすと、同じ格好をしていたせいか、関節が鈍い痛みを伴った。
「ここ……さっきの、ところ」
手を地面につけて起き上がる。床は冷たく、外気も肌寒い。光の差さない空間は、石の匂いが強い。微かな振動が断続的に体に伝わり、それで目が覚めたのだとわかる。
「私……誰なの? 何なの?」
自分の名前は――思い出せない。誰かと一緒にいたような気もする、けれど全てが朧げ。
掛けられていた布で体を隠すように、全身に巻きつけて、ふと気がつく。
(この布……、痛くない。いい生地だ)
固くて粗い安価な麻布ではなく、柔らかい綿布だ。これを用意してくれた人は、気を遣ってくれたのだろう。
ラズールと名乗った男を思い出す。漆黒の前髪から覗くのは、鮮やかな天藍石の瞳。理知的で落ち着いた、けれど心を凍らせるような鋭い眼差し。
でも――。
「デーツ……くれた」
闇に溺れそうな意識を繋ぎ止めてくれた。力強い声で、本気で心配をしてくれていた。
(いい人、優しい……)
目を伏せて、膝を抱く。こんなにも怪しい自分に、親切にしてくれた人だ。
――けれど、甘えてはいけない。
(これからどうしよう)
考えることに頭が慣れていないみたいで、頭がぼんやりしてしまう。何をどうしたらいいのか、わからない。
どこかから現れたなんて、いったいどこから? でも、戻りたくない……。
空間を震わす振動は絶え間なく続き、考えを妨げる。天井からは振動とともに砂が落ちてくる。やがて軽い足音がして、その足音の主が紗幕を勢いよく撥ね退ける。
「やっぱ、まだ逃げていなかったんだ」
「え?」
拘束もないのに、逃げないなんてぼんやりしてんなあ、って呆れたように彼は言う。
「まあいいや、アンタを捕まえに『黒蛇』が来たんだよ! 逃げるよ、ほら急いで」
「待って、黒の、何?」
「盗賊だよ!」
見張りの少年が急かすから、慌てて立ち上がり通路に出る。腕を掴まれながら、体に巻いた布を落ちないように押さえながら走ると、振り返った少年があっ、という顔をする。
「服なかったけ。ホントはラズールが買ってきたんだけど、趣味悪くてさ。俺とトゥリーで止めたの。しまったな」
「待って。盗賊って、私のせい? ラズールは?」
「ラズールは、外でジャファルの相手。アンタを逃がせってさ。俺達の脱出が完了しないと、ラズールもずらかれないんだ」
「ジャファル? その人が私を捕まえに?」
「アンタはわかんねーかもしんないけど。ジャファルは陰険でしつこいし、ラズールの目をいつも狙ってんだ」
足を止めると、少年が焦り引っぱる。光が漏れてくる方へ顔を向ける。
「何してんだよ、そっちじゃないって」
ラズールの顔を思い出す。冷たさを感じさせるけれど、美しく深い青の瞳。
(水も、デーツもくれた。服もくれようとしていた)
「変なこと考えないでよ。ジャファルは見栄っ張りで女好きだけど、剣はかなり強い、トゥリーぐらいしか敵わない。アンタに暴力も振るうよ」
(それに、怯える自分を宥めてくれた。心配してくれた)
なのに、私だけ逃げていいの?
私のせいで、ここが襲われているのに? あの時もそう。私は、いつも逃げてばかりいる。
(あの時って――いつ?)
わからないけれど、このままは嫌だ。彼を置いていくのは、嫌だ。
「ごめんなさい!」
掴まれた腕を自分の方に引き寄せれば、少年は力負けしたように手を離す。
そのまま反対方向に向かい駆け出す。
「二つめの右穴で曲がって、その後まっすぐ!」
少年の声が背中を押した。